1月2日

 8時過ぎに起きる。昨日の鍋の残りを火にかけて、コンロのグリルで餅を焼く。餅が膨らまないうちに鍋が温まってしまう。今日の予定を考えると、早いうちに食べ始めてしまいたくって、餅が焼けるのを待たずに鍋の残りをうつわによそい、知人と一緒に朝ごはん。大学生の頃、正月に帰郷した日のことを思い出す。1階から「朝ごはんできたよ」と呼ばれ、降りてみるとまだほとんど料理は並んでいなくて、「別に早く食べたいわけでもないのだから、全部準備が整ってから呼んでくれればいいのに」と、いつも思っていた。支度を任せきりにしていたのだから、呑気なものだ。知人と鍋の残りを食べていると、遠くから「ピピッ」と音が鳴り、ああ餅焼いてたんだと思い出して台所に急ぐと、膨らんだところが焦げてしまっていた。

 洗い物を片づけたあと、知人と散歩に出る。根津神社は思ったほど混み合っていなかった。参拝客が30人ぐらい並んでいたので、そこに並ぶ。後ろには家族連れがいて、小学校高学年くらいの子が「お賽銭、111円がいい」と親にねだっている。どうして111円なのだろう。1並びで縁起が良さそうだと思ったのだろうか。僕は家を出たときから5円玉を握りしめているけれど、よく考えたらこれだってただのダジャレだ。もうすぐ自分の番というところで、お年寄りが脇から入り込んでお賽銭を投げ入れ、手を合わせる。正月早々順番を抜かして、利益があると思えるだろうか。5円玉を投げ入れて、今年は穏やかでありますようにと、パパッと手を合わせる。100円払っておみくじを引いてみると末吉だった。

 お参りを終えて、表側の参道に抜ける。屋台はほとんど並んでおらず、ジンジャーシロップかなにかを販売する屋台だけが営業していた。谷中銀座に出て、「E本店」に立ち寄る。「あけましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わし、お年賀でタオルをいただく。金色の放送紙に包まれた、メダルみたいなチョコも2個もらった。お正月とはいえ、昼間から飲んでいるお客さんは少なくて、正月限定の甘酒を注文する人がほとんどだ。僕と知人は熱燗をふたりで飲んだ。営業しているお店はまだ少なくて、通りを行き交う人もまばらだ。熱燗を飲み干したところで店を出て、いろんな家に飾られている松飾りを眺めて歩く。よく見ると、ガムテープで松飾りを貼り付けている家も多かった。新しく家を建てるときに、松飾りをくくりつける依り代(?)となる場所のことまで考えて設計する人が少ないのだろうか。実家にいた頃は、しめ飾りはあっても松飾りは一度も目にしたことがなかったから、ガムテープで貼り付けてまで松を飾るというのが、少し不思議なことに思える。

 帰宅後、録画しておいた『あたらしいテレビ』を観る。同時代のコンテンツを語る番組で、テレビ番組をたくさん観ている人も登場するのだけれども、「録画して観ている」という話がほとんど出てこなくて愕然とする。テレビが生き残るには、今のように配信サイトが乱立している状況を改善して、民放各社の番組をすべて網羅しているサイトを立ち上げるしかないと思う。それを観終えたところで、台所から煮しめ重を持ってきて、日本酒を飲みながら録画した『ばちくるオードリー』を観た。煮しめ重は一品3個ずつ入っているので、知人と僕とで1個ずつ食べたあとは、ドラフト方式で選んでゆく。何個かは取り合いになるだろうと思っていたのに、ひとつもかぶらなかった。

 13時半に家を出て、東京駅へ。混雑するなかをスーツケースを引いて歩くのは大変そうだからと、ボストンバッグに荷物を詰めてきたのだけれど、新幹線改札口の出口側は混雑しているけれど、入り口側はわりと空いている。15号車の最後列E席に座り、来月出す本の三校を読み返す。隣のD席、最初は空いていたのだけれども、品川駅で乗客がやってくる。小さいこどもを二人連れた女性が、二人を抱えて座る。さすがに手狭に感じたのか、新横浜を出たあとにやってきた車掌さんに相談し、チケットを手配し直し、別の車両に移動していった。18時3分に広島駅に到着する。到着する5分前には「まもなく広島です」というアナウンスが流れ、そうすると広島駅で降りる乗客が身支度を始めて通路が塞がってしまうので、それより早く席を立ち、11号車前側の扉にまで移動しておく。ここで降りればすぐに階段があり、それを駆け降りれば在来線の乗り換え口がある。ダッシュで乗り換えて、18時6分発の山陽本線に乗り換える。

 八本松で電車を降りて、駅前のファミリーマートアサヒスーパードライの6缶セットとカップ酒を買い、実家まで歩く。事前に到着時刻を電話で知らせたときに、母は「車で迎えにいく」と言っていたのだけれども、服のどこかにウイルスが付着している可能性は捨てきれないので、断っていた。駅前のバイク屋が更地になっていた。驚いたのは、維新の看板が出ていたこと。このあたりで政治家のポスターというと、自民党のものしかほとんど見たことがなかった気がする。18時50分に実家の扉を開けると、待ち構えていたかのように甥っ子がこちらを見ている。顔を合わせるのは今日が初めてなのだけれども、表情は嬉しそうだ。「叔父」という関係性を理解できる年齢ではまだない気がするのだけれど、あれは一体どういう感情なんだろうなあと思いながら荷物を置きに2階に上がり、服を着替えて1階に戻る。

「先に少し晩御飯を食べよくよ」とは言われていたけれど、皆、ほとんど食事を終えつつある。甥っ子の席があるぶん、普段と配置が違っている。父のそばに箱入りの酒が置かれている。「これ、飲みんさいや」と父が言う。友人に勧められるならともかく、誰かに飲む酒を決められるのもなあという感覚があるのと、電車の中ではマスクを外さず(つまり水分を摂らずに)過ごしていたせいで喉が渇いていることもあり、「ビールにするわ」と答える。その後もしきりに日本酒を勧められるなあと思っていたら、その日本酒というのは、正月に家族が揃ったところで飲もうと、父が買っておいた酒であるらしかった(それを飲むために、父はビールを1本だけで切り上げていたようだ)。

「その日本酒の他にもねえ、知り合いから送られてきた一升瓶のお酒も何本かあるんよ」と母が言う。「そんなにあるんじゃったら、明日飲み切れるかねえ」と返すと、「いやいや、そんなに飲んだら駄目で」と父も母も言う。冗談が伝わらなかった。少し経ったところで、母親が祖母の家に行き、鞄を手に帰ってくる。そこから通帳を2つ取り出し、兄と僕にそれぞれ手渡す。それは祖母の通帳らしかった。母は記憶が少しおぼつかなくなり始めているから、もしものときに備えて、その通帳があることを伝えておきたかったようだ。通帳を渡し返すときに、母の手に視線がいく。肌がすっかり乾燥している。母はここ10年、ずっと祖母の介護をしてきた。「今度、東京に遊びに行って、お兄ちゃんとこに行こうかねえ。そんときはともくん、あんたも一緒にきんさいよ」と母が言う。僕は兄の家に一度も出かけたことがない。「まあでも、死んでから10日も経たんうちにこんとな話をしよったら、あーちゃんに怒られるねえ」と母は笑う。ここ10年のあいだに、母が泊まりがけでどこかに出かけたのは、たしか兄の結婚式のときくらいだ。

 食卓についたとき、「まあ、ゆっくり食べんさい」と父が言っていたのを真に受けて、おちょこに3杯目の日本酒を注ぐと、「もう、それぐらいにしとかんとつまらんで」と父が言う。もう眠くなったようだ。そういうことを言われたのは今年が初めてではなく、数年前の大晦日に同じようなことを言われ、年末年始に居間で酒を飲みながら紅白を観ていて文句を言われるぐらいなら、これからはもう東京で歳を越そうと決めたのだった。20時過ぎには自分の部屋に戻り、カップ酒を飲みながら2001年の『M-1グランプリ』の映像を見返す。