4月12日

 7時に起きて、風呂に湯を張り、入浴。湯に浸かりながら原稿に赤を入れてゆく。それが終わると、ネットで注文したカラーブックスをぱらぱら読んだ。途中で腹が減り、ごはんを解凍してたまごかけごはんを食し、再び湯に浸かる。今日もケータイにドミノピザからメールが届く。こないだの注文でメールマガジンを受信する設定になってしまっているのか、毎日届く。木曜日からはトップに大きく「安心・安全」と表示されている。スクロールしていくと、「あんしん受取サービス」というバナーがあり、配達員と客とが2メートルの距離を保って受け渡しをする絵が描かれている。

 昼頃になって「星野源」のツイートが増えていることに気づく。総理大臣が星野源の動画と“コラボ”した動画をアップしているらしかった。ただし、タイムラインにはその動画のリンクを貼っている人は見当たらず、検索して動画を観る。そこには置き物のように座らされている総理大臣の姿があった。哀れだ。「この動画を流すと国民感情を逆撫でする」と察知する嗅覚もなく、諫言してくれる側近もおらず、総理大臣がこんな動画を垂れ流してしまっている。

 「安倍晋三」で検索し、Wikipediaで経歴を見る。そこに政治の道を志すきっかけは一行も見つけられなかった。ただ政治家の一族に生まれ、森永製菓の社長令嬢と結婚し、政治家になったというだけの経歴だ。意外に感じたのは1977年から2年ほどアメリカに留学していることだった。渡航先は西海岸である。この時代の西海岸がどれだけまぶしかったか、僕自身は経験していないけれど、当時の『宝島』をめくれば匂いが伝わってくる。雑誌ごしにアメリカを想像する人が多数派だった時代に、2年間もアメリカに留学していたというのに、安倍晋三にはその匂いは感じられない。

 あらためて、「美しい国」という、彼が最初に掲げた言葉の空疎さを思う。坪内祐三アメリ村上春樹江藤淳の帰還』で書かれるように、文学者たちはアメリカを訪れることで日本が他者化され、そこから文学が生まれてゆく。しかし、安倍晋三の「美しい国」にはそういった屈折があるわけでもなく、ただ当時の保守論壇の空気を寄せ集めたものだ。彼は小泉政権下で官房長官を務めていたが、小泉純一郎靖国参拝をしきりに訴えていた。坪内さんは「靖国に参拝した三木武夫と中曽根康夫と小泉純一郎という三人の総理大臣に共通するのは、自民党の中で非主流派だったがゆえに、日本遺族会を票田とするために靖国に参拝した」と語っていた。つまり彼らにとって靖国参拝はポーズであったというのに、安倍晋三はただ保守論壇の空気の中から「美しい国」と語り、靖国に参拝した。

 それにしても、今の状況というのは、彼が一時期連呼した「国難」と呼ぶにふさわしい状況でもある。そんな状況に置かれているというのに、犬を抱え、ティーカップをしきりに傾け、ハードカバーの本をめくり、テレビをザッピングする動画を公開するというのは、一体どうしたことだろう。初めて同情をおぼえる。休日の姿をアップするのが無残だというのではない。そこに彼の生活が一ミリも感じられず、かといって完璧にセットアップされた休日の姿でもないところが無残である。憐みに近い気持ちを抱えながら、動画を何度か繰り返し再生していると、「よく直視できるね」と知人が怪訝な顔をする。知人はこの映像を見ていられないという。それは、彼女の中にも怒りのようなものがあるからだろう。そうして怒りを覚えるほうが真っ当だと思うのだけれども、僕はただ憐憫から動画を見つめてしまう。

 昼は知人にトマト缶とサバ缶を使ったパスタを作ってもらう。ロング缶をふたりで1本飲んだ。午後は『c』に向けた原稿を推考し、書き足す。最終的には7800字になってしまう。そのうち1200字くらいは「丸々カットしてもらって構いませんので」と書き添えて、それ以外にカットする場所も相談できたらと、メールで送信。原稿としては掲載されないとしても、その1200字も共有するだけ共有しておきたかった。ルポを書くときに、もちろん届けるべきは読者なのだろうけれども、それとは別にルポとして書き記す相手に向けて手紙を書いているような気持ちも大きく膨らんでくるので、こういうことになる。

 夜はキーマカレーを作りながら、さきほど送ったのと並行して掲載される、同じく『c』に関する原稿のことを考える。19時から晩酌。昨日、感想を言いながら観ていた『ザ・ドリームマッチ』、途中で酔っ払った知人と言い合いになって途中で消したので、あらためて観る。どれも面白かったけれど、ハライチ岩井と渡辺直美のネタが群を抜いて面白かった。それを観終えると、知人はオンライン飲み会を始める。僕は参加せず、となりで読書しながら酒を飲んでいたのだが、「なんだその会話は」とムッとしてしまう。これは、居酒屋で隣の客の会話に腹を立てているようなもので、「人の会話を勝手に聞いてんじゃねえよ」という話ではある。ただ、僕のほうから知らない客の会話に割って入っているのではなく、飲み会のほうからアパートの中に割って入ってきているのだ。ひとりで黒霧島の水割りを飲み続け、酔いが深まってゆくにつれて、「オンライン飲み会」という言葉に対する印象が下がってゆく。