8月22日

 9時過ぎまでごろごろ。『サタデープラス』、最近は『暮しの手帖』の商品テストのような企画を放送しており、こないだはエコバッグの性能比較、今日はフライパンだ。1位になっていたのはアイリスオーヤマのフライパンで、うちのフライパンが焦げつきやすくなってきたところだったから、そろそろ買いかえなければとぼんやり考える。ごはんを炊き、たまごかけごはんを平らげる。12時頃に出かけてゆく知人を見送り、企画「R」の原稿を書く。昼は納豆オクラ豆腐そば(冷)。16時を過ぎたあたりで集中力が途切れてくる。昨日『AMKR手帖』が発売になっていたことを思い出し、宣伝しておく。文面を考えていると、「久しぶりに取材ができた」という話になるのだけれど、今はまた取材がしづらくなった日々にいるので、なんとも言えない気持ちになる。ただ、「取材できない」と書くことだけは避けなければと思う。別に移動が禁止されているわけではなく、また飛沫と接触が感染を拡大させるのだとはっきりしているのだから、最大限の注意を払い続ければ媒介となってしまうのを避けられるはずだ。それに、通勤のために片道30分の通勤を月に20回繰り返すのと、月に1度だけ片道3時間の移動を行うのであれば、後者の方がリスクは少ないはずだ。と、こんなことをぶつぶつ考えてしまうのは、「今は行けない」という言葉をあちこちで見かけるせいだろう。その言葉を目にするたびに、あなたのその言葉が生み出す空気のことを考えているのか、とカッとなってしまう。「今は行けない」と言うことで、それを目にした誰かが、「そうだよな、今はやっぱり、遠出するとかありえないよな」と思ってしまう可能性がある。言葉に携わる人がそうした趣旨のツイートをしているのを見かけるたび、その人に食ってかかりたい気持ちになってしまう。この状況は、たとえば2年後や3年後に「今日からはもう、何も心配しなくて大丈夫になりました!」なんてことになるはずはないのだから、常に気を遣いながら過ごしていくしかないのだと思う。それに、「今は遠くに行けない」と表明することは、その代わりに近場で楽しむ、ということとセットでなされることが多く、そこにも違和感をおぼえてしまう。

 そんなことを考えると、近場で過ごすのではなく、電車に乗ってどこかに出かけたくなってくる。17時過ぎ、缶ビールを片手にアパートを出る。本駒込から四谷を経由し、新宿に出る。地下鉄はわりと空いていて、少し前に比べると、車内の空気に緊張感がある。小さなこどもが母親に抱き抱えられて座っていて、クルマのおもちゃをシートの縁に走らせている。そこに触って大丈夫だろうかと、ほんと、余計なことを考える。母親はマスクをしていなかった。おそらく「マスクしてないな」という視線を散々向けられているのだろうけれど、マスクをしてしまうと、小さなこどもがぐずってしまうのかもしれない。こどもはクルマを走らせながら、母親のほうをちらちら見る。母親は声を出さず、にっこり笑顔で答えている。まずは思い出横丁の「T」に入り、瓶ビールとづけまぐろを頼んだ。今日はわりと混んでいて、ここに座るのか、、と入るのを少し躊躇う。ぼくを挟んだ両側の客が、ぼく越しに会話を始める。ここはしばらくこれないなと思う。アルバイトの女性も、マスターも、マスクを外したまま会話している。

 瓶ビールを2本飲んで、店をあとにする。まだ19時にもなっておらず、今から帰っても時間を持て余してしまう。まずは新宿5丁目「N」をのぞくもまだ営業しておらず、新宿3丁目「F」ヘ。先客は写真家のK.KさんとS.Kさんのふたりだけだ。3席開けて座り、焼酎のボトルを出してもらって、水割りを飲んだ。Kさんに「ソーシャルディスタンスは保つけど、もう1席だけそっちに寄っていい?」と言われ、久しぶりであれこれ話す。最近はどんな取材をしてるのかと言われ、沖縄の取材は続けていることを伝え、ぼくが最後に出かけたときの状況をふたりに伝える。ふたりは広島と大阪に1泊2日で出かけてきたところらしく、新今宮から南にのびるアーケードの様子がとても印象的だったという話から、「那覇もいいけど、ああいう、アーケードのある場所の姿も取材したらいいんじゃないか」とKさんが言う。Kさんはもちろん、昭和ノスタルジー的な発想からぼくにそう話してくれたわけではなく、もっと違う文脈からそう提案してくれたのだけれども、ぼくのように「その土地の歴史を聞き、人の半生を聞かせてもらう」となると、どうしても昭和ノスタルジーのように受け取られる仕上がりになってしまう。ああでもない、こうでもないと話し、ボトルを空け、新しいボトルを入れてから店をあとにする。5ヶ月ぶりくらいに新宿5丁目「N」に行くと、さきほど「F」で少し離れた席に座っていた物書きのO.Sさんもやってきて、久しぶりに話をする。こんなふうに飲み歩くのは久しぶりで、前と同じペースで飲んでいたはずなのに、なかなかに酔っ払ってしまい、アパートにたどり着いたところで吐いてしまう。トイレの扉を開ける余裕がなく、洗面台で吐いてしまって、よろよろと掃除する。そんな色のものを食べたおぼえはないのに、どうして吐瀉物はこんな色をしているのだろう。排水溝に詰まった吐瀉物を取り除こうとするのだけど、酔っ払っているせいかうまく掬えず、何度も手を伸ばす映像が目に焼き付いている。