5月26日

 6時過ぎに目を覚ます。コーヒーを淹れて、たまごかけごはんを平らげる。9時過ぎに知人を見送ったのち、洗濯を干し、11時にアパートを出る。千駄木から大手町、三田と乗り継ぎ、羽田空港にたどり着く。大手町には「ワクチン接種会場」と書かれたボードを抱えた人が何人か立っていて、ワクチン接種なんてほんとに始まってるんだと不思議な気持ちになる。三田から羽田空港までの電車はわりかし空いていた。ANAのチェックインカウンターで手続きを済ませ、レストランフロアを歩くと、ラーメン屋さんが目に留まる。カウンターはがらがらだったのと、醤油ラーメンがうまそうだったのとで、入店。「上品」と形容したくなる味だがうまかった。ビールは飲めなかった。

 羽田空港は閑散としている。ゆったりと保安検査場を通過し、飛行機に登場する。よく乗っているジェットスターの成田―那覇便は旅行客が目立つが、ANAの羽田―広島便はほとんどがサラリーマンで、雰囲気がまるで違っている。3人がけのシートの真ん中は空席で、つまりそこそこの混み具合なのに、座席上の荷物を入れる棚は埋まっている。着陸後すぐ移動できるように、荷物を預けずに持ち込もうとする傾向は、LCCとさほど変わらないようだ。機内では原稿を考えたり、資料を読んだり。今日は向かい風が強かったらしく、到着が少し遅れ、荷物が出てくるころにはリムジンバスが出発してしまっていた。仕方なくタクシーを拾い、最寄り駅まで車を走らせてもらう。僕はあまり飛行機で帰省したことがないけれど、兄はわりと飛行機で帰省していたので、僕の運転で兄を空港まで送り届けたこともあった。それぐらいの距離にある場所でタクシーに乗るというのは、なんだか不思議な心地がするものだ。僕が大学生のころなら、ここまで母に迎えにきてもらうこともできただろうけれど、今年で喜寿を迎えた母にそれを頼むのは難しくなっている。

 3000円近い料金を払って、白市駅でタクシーを降りる。「3000円近い料金」とかけばかなり遠い感じがするけれど、田舎道なのでほとんど停車することもなく、あっという間だった。がら空きの山陽本線に揺られ、八本松で下車。母が駅まで迎えに来てくれていた。ただ、車に乗り込んでしまうと、衣服にウイルスが付着している可能性を否定できないので、トランクに荷物だけ載せてもらって、ぼくは実家まで歩くことにする。途中にある古い屋敷が壊され更地になっていて衝撃を受ける。よくよく見ると、駅近くのバイク屋さんも中身が空になっていた。帰宅後、すぐにハンドソープで全身を洗って、車を走らせ隣町の「啓文社」へ。佐久間さんの『ツボちゃんの話』が欲しかったのだけれども――これは朝の羽田空港でも探したのだけれども――僕の生まれ育った田舎町では見つけることはできなかった。

 帰宅後、ほどなくして夕飯の時刻になる。母の作るカレイの煮付けをツマミつつ、自分で買ってきたキリン・ラガーを3本飲んだ。母が祖母(母方の祖母)に夕食を食べさせに行っているあいだ、父がぽつりぽつりと話す。父さんもじゃけど、母さんも最近はぼけてきよる。庭の剪定には毎年××万かかりよる。これが払えよるのは、正直なところ、ばあちゃん(母方の祖母)の年金があるから。父さんも、毎日草刈りやら草むしりやらしよるけど、あと何年続けられるか、まだ元気じゃけどね――そういう話を聞きながら、自分はひとでなしだなあと思う。そういう話を聞いても、なんといえばいいのか、家族愛のような感情から自分の未来を思い描くことができずにいる。大学に入り直したり、院まで行ったり、しかも兄と違って就職していないことを考えると、実家に帰って両親の面倒を見やすいのは自分なのだろう。でも、僕はそのことをあまり現実的に考えていないし、現実的に考えていないことに気まずさをおぼえているわけでもない。

 しかし、今年で76歳になった父も、70歳になった母も、歳をとったなと思う。父も食卓につく姿勢が悪くなったし、母も食べ方が少しこどもっぽくなったような気がする。5年後、10年後はどうなるのだろう。もしも自分がここに数年間帰らざるを得ないとしても、それは介護という必然性よりも、その時間をもとにどういう原稿を書けるかということにしか思考が進まないことに、ふと気づく。知人も近しい問題を抱えており、ふたりとも数年間実家に帰ったとしたらどんな生活が可能なのか、お互いの実家はどれくらい離れているのかを調べながら、Zoomで回線を繋ぎ、画面を共有しながらバラエティ番組を観る。離れていても、こんなふうに同じ映像を見ながら笑って酒が飲めるのは素晴らしいことですねと、1年遅れで思う。