12月26日
6時過ぎに目を覚まし、ケータイをぽちぽちやったり、ウトウトしたり。7時28分、画面の上に「母」と表示され、ケータイが震え出す。電話をかけてくるにしても、どうしてこんな早くに――と思ったところで事態を察し、出る。聞こえてきたのは父の声で、「ああ、とも? 今朝のう、あーちゃんが死んだけん」と父が言う。もう少し言い方があるだろうと思いつつ、ああ、うん、と返事をする。その瞬間に思い浮かべていたのは、急いで帰るにもPCR検査を受けていない状態では不安だということと、今日の新幹線に空席はあるだろうかということだった。曖昧に相槌を打ちながら話を聞いていると、葬儀はごく近しい親戚のみで執り行うことと、こういう状況だと県外からというのは難しいから、帰ってこなくてよいを伝えられる。
しばらく話したあとで、電話の相手が母に代わる。亡くなった祖母は、母親の母親だ。気落ちしているのではないかと思ったが、声は元気そうで、僕と兄の名前で花を出してもよいかと確認される。「まあ、あんたらふたりが東京に行って広島を離れとるのはあーちゃんもわかっとったはずじゃけん、わかってくれるじゃろうて」と言われ、あまり自分ではぴんときていないところもある、魂のようなものの存在についてぼんやり考える。電話を切ってふたたび布団に潜り込んで、「やっぱりばあちゃんが死んどった」と知人に伝えると、ええ、好きだったばあちゃんじゃろ、はよ帰らんにゃと知人が言う。
両輪が共働きだったこともあり、学校から下校する先は祖母の家で、日が暮れた頃に母が迎えにくるまで、祖母の家で過ごしていた(今では隣に家を建ててあるけれど、当時は2キロぐらい離れた場所に両親は住んでいた)。おばあちゃん子として育ったこともあり、帰省するとまず祖母に声をかけにいっていた。10年くらい前からは、「小さい頃は、学校でも前から3番目ぐらい(の背の高さ)じゃったのに、こんなに大きうなって」「保育園に通いよったころ、この(祖母の家へと続く)坂道のあたりにくると、それまで私の右手を持って歩きよったのに、反対側にまわるんよ。なんでかのうと最初のうちは不思議に思いよったんじゃけど、犬を飼いよる家があってから、それがおそろしくて反対側に隠れよったんよ」と、同じ話をいつも聞かせてくれるようになった。ここ数年はもう、僕を見ても誰だかわからなくなっていて、実家に帰っても親に促されてようやく顔を見にいくぐらいになっていた。魂のようなものがあるのだとすれば、近くにいて直接やりとりすることができるかどうかは関係なく、交感が可能かどうかが自分にとってはすべてだという感じがする。別に直接会えなくても、死んでしまっても、たとえば書かれたものや記憶を通じて交換することはできる。――と思うのと同時に、そんなこと、認知症になってしまった祖母の介護を続けていた母に対して言えないなとも思う。
米を切らしているので、セブンイレブンに出かけ、ハムサンドを買ってくる。郵便受けから読売新聞を取ってきて、他の読書委員の方が「2021年の3冊」に何を選んでいるのか、ざっと目を通す。ああ、「①は〜〜」とかって書き方が出来たんだったなと今更気づきつつも、まあでも、掲載されている書き方がベストだったなと思う。新聞で書評を書くことになったとき、一番意識したのは坪内さんの目だった。最初の書評が出てほどなくして坪内さんは亡くなってしまって、感想を聞く機会は失われてしまったけれど、緊張感が消えることはなかった。それで、読書委員として最後に寄稿する日の朝に祖母が亡くなったのだなと思う。『東京の古本屋』にも買いたけれど、祖母の家にはたくさん本が並んでいて、文学全集もあった。小さい頃は読書と無縁のこどもだったけれど、そこで本(や、そこに書かれている名前)に親しんで育ったことは、自分に何かしらの影響を及ぼしていると思っている。
昼は知人の作るサバ缶とトマト缶のパスタ。ビールも1本半(2本目は知人と分けた)。午後は原稿を書くのに必要なテープ起こしを進める。有馬記念を眺めたあと、ひとりで買い物に出る。「往来堂書店」を覗いたのち、スーパーでおでんの具材と、今夜のツマミにタコの刺身とししゃも、それにコシヒカリ(5キロ)を買う。近所の八百屋だと2キロのお米しか売っていないけれど、5キロだと安心感がある。19時から晩酌。いくつかバラエティを観たあと、『ロッキー2』を再生する。映画のオープニングがこんなふうにダイジェストから始まることってあるのだな。ヒット作の後日譚だなあと思いながら、とにかく最後まで観る。