7月7日から7月29日までのこと

 あの朝のことはよくおぼえている。7月7日、僕はまだ開店していないクリーニング屋に並んでいた。今日のために喪服を預けていたのに、木曜日が定休日であることを失念していて、昨日のうちに受け取っておくことができなかったのだ。よく晴れた朝だった。開店時間より少し早めに受け取ると、アパートに戻ってすぐに着替える。あの日、部屋にはひまわりが飾られていた。訃報に触れた日に買ってきて“花瓶”に挿したのだ。

 うちには“花瓶”が3つある。1つは2014年1月に原宿・VACANTで飲んだハートランドの空き瓶で、1つは昨年末にもらった、サンタクロースがラベルに描かれたビールの空き瓶。最後の1つだけがちゃんとした花瓶で、これはいつかの誕生日にもらったもの。僕には花を愛でるような習慣はなかったのだけれども、この花瓶をもらったことをきっかけに、気まぐれに花を飾るようになった。ひまわりはハートランドの瓶に飾った。7月16日にはカーネーションをサンタクロースの瓶に。7月26日には百合を買ってきてちゃんとした花瓶に飾った。花瓶にはコップのフチ子がくっついている。コップのフチ子になんて興味はないのだけれど、友人にもらったものをなんとなく飾ってある。どれも大切なもので、瓶が割れる日を想像しただけで悲しい気持ちになる。

 悲しい気持ちと書いてしまった。でも、悲しい気持ちとは何だろう。

 喪服を着るのは今年で――そして人生で――2度目だった。でも、いずれも悲しい気持ちはわいてこなかった。ただ「残念だ」という気持ちがそこにある。いつだかの駅で、そのことについて話したことがあった。電車はずいぶん遅れているようで、ベンチに座って僕はそのことについて話していた。

 「でも、親が死んだら悲しいですよね?」。僕の話を聞いていた知り合いの女性は言った。悲しい気持ちにはならない気がする、と僕は答えた。「でも、たとえば付き合っている女性が死んだとしたら、さすがに悲しいですよね?」その質問に、僕はうまく答えることができなかった。ある人が癌だと知った日も、ある人が倒れたと知った日も、僕は知人と一緒に酒を飲んだ。知人の頭の中には過去の記憶が去来しているようで、飲んでいるうちに彼女は涙を流した。誰かが亡くなったとして、その人ともう関わることができないことは本当に残念だと思うけれど、悲しい気持ちが湧き上がってくるとは思えなかった。

 お葬式の帰り道、コンビニでビールを買って飲んだ。2杯飲んだ。7月の日差しは強く、汗が噴き出して来たけれど、上着は脱がなかった。僕の頭の中にはある曲が流れていた。それは、あと何時間かすれば耳にするであろう「Goodbye Yellow Brick Road」だ。ビールを飲み終えると、僕は新しい腕時計を買って彩の国さいたま芸術劇場に向かった。その日はMUM & GYPSY 10th ANNIVERSARY TOUR VOL.1の初日だった。このツアーは1作品を上演するツアーではなく、3作品+1作品を同時に上演する。7月7日、最初に上演されたのは『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』(以下「動物三作」と略す)だ。

 ここからは10周年ツアーで上演される作品たちの内容に触れる。

 タイトルにあわられているように、この作品は過去に上演されたマームとジプシーの3作品を再編集した作品である。『モモノパノラマ』は、実家で飼っていたネコの「モモ」の死を扱った作品であり、『ヒダリメノヒダ』はある小さな町が舞台となる。その小さな町に暮らす“りょうすけ”と“ゆりこ”の親は酪農家だ。ある日、“ゆりこ”と同級生の“さとこ”は兄妹の家を訪れ、牛舎を見学させてもらう。そこで“さとこ”は“ゆりこ”に「牛の出産って見たことある?」と訊ねる。“ゆりこ”は「子牛が死ぬこともあるし、一緒にお母さんも死ぬこともある」と語る。

 「動物三作」では、生と死が並置される。ここでは牛の出産と牛の死が並置されている。また、牛のお産がおこなわれる納屋という場所は、ふたりが飼っている猫がお産をする場所でもある。ただ、“りょうすけ”と“ゆりこ”が飼っている母猫は、ただ産むだけで、子猫を育てたことがない。つまり育児放棄してしまうので、子猫たちは放っておけばただ死んでいくだけだ。そこで二人の家では、「せめて目が見えるようになってこの世界を認識してしまう前に」と子猫たちを川に流してしまう。ただ、ある時生まれた子猫たちのうち、1匹だけは生き延びることになる。それがモモだ。ここでもモモの生と他の子猫たちの死は並置されている。

 「動物三作」には、“しんたろう”という男の子が登場する。彼は自ら死を選んでしまう。彼が亡くなるのは「ひろたかさんちの納屋」だと語られる。だが、彼が死を迎えるシーンは、銀色のテーブルの上で展開される。テーブルには牛乳の入ったコップが残っている。そこでは、“しんたろう”のシーンが始まる直前まで、朝の食卓の風景が描かれていた。去年の夏にも、“しんたろう”が最期を迎えるシーンに牛乳の入ったコップは残ったままだっただろうか。はっきりと思い出すことはできないけれど、少なくともそこをあまり意識することはなかったように思う。生を象徴する食卓のシーンと、“しんたろう”の最期が地続きに上演される。しかも、そこで食卓を囲んでいる“りょうすけ”と“さとこ”は昨晩とは様子が違っていて、それに対して“ゆりこ”は「さとこちゃん、昨日の夜、部屋に上がってくるの遅かったよね?」とニヤつきながら言うのだ。徹底的に生と死が並置されていることで、「動物三作」の生々しさが増しているように感じる。

 「Yellow Brick Road」が演奏されるのは、“しんたろう”が亡くなったあとのシーンだ。“ゆりこ”は、“ひろたかさん”と一緒に弾き語る。そのシーンを見つめていると、「動物三作」の冒頭に登場するシーンが思い出される。

 「おう、次、音楽? 頑張って」。廊下ですれ違った“ゆりこ”に、“さとし”が語りかける。
 「頑張るもんでもねえけどな」と“ゆりこ”。
 「でもさ、ゆりこちゃんさ、いろいろやってるよね、楽器」

 楽器を演奏しているのは、生きのびた“ゆりこ”と“ひろたかさん”のふたりだ。当たり前の話だけれど、楽器を演奏することができるのは生きのびた人だけである。それは今年の3月、初めて喪服に袖を通した時にも思ったことだ。そのお葬式は、僕が小さい頃に経験した曽祖母のお葬式――あの時は喪服ではなく小学校の制服を着ていた――とは様式が違っており、様々な仏具が打ち鳴らされていた。こうして楽器を奏でているのは生き残っている人たちだけなのだなと、独特のリズムに聴き入りながら考えたことを思い出す。

            * 

 マームとジプシーの10周年ツアーで上演されるのは3作品+1作品だと書いた。その3作品というのは、『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』、『夜、さよなら 夜が明けないまま、朝 Kと真夜中のほとりで』(以下、「夜三作」)、『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと――――――』である。「夜三作」の序盤には、お葬式帰りのシーンが登場する。そのお葬式は、「動物三作」における“しんたろう”のお葬式とはまったく別物であるのだけれど、頭の中でどこか繋げて考えてしまう。

「夜三作」では、いくつかの喪失が描かれる。登場人物たちは、いなくなった人に思いを巡らせている。ある日の駅のプラットフォームで、二人の男性が出会う。二人は顔見知りのようだ。ひとしきり話したところで、一人の男が「ちょうど10年経つんですよ。あの夜から」と唐突に切り出す。ややもう一人の男が「しょうもねえな」と呟くように言う。そして改めて、「しょうもねえなあ!」と怒鳴るように語る。そしてその男性は「お産が近い牛がいるんだよ」と帰ってゆく(このキャラクターを演じているのは、「動物三作」で酪農家とおぼしき“ひろたかさん”を演じていた中島広隆であり、そんなところからも作品と作品の繋がりを感じてしまう)。

 「夜三作」もまた、1年前に彩の国さいたま芸術劇場で上演されている。この作品もまた、1年前とはずいぶん印象が違って見える。そこには、この1年という時間の経過がはっきりと見てとれる。そこに影響を与えているであろう作品の一つは、去年の夏に京都で上演された『0123』だ。『0123』は童話をモチーフにした作品であり、『0』には『水面にたゆたう』というタイトルがつけられていた。そこでは、魔女の魔法がかけられた湖の水を飲んでしまった子が、鹿に姿を変えてしまう話が語られていた。それに近いエピソードが「夜三作」の冒頭に語られる。

 今年の「夜三作」が『0123』を彷彿とさせるのは、同じエピソードが登場するということだけが理由ではない。去年の夏に『0123』を上演した直後、藤田さんは会場である元・立誠小学校の前で――話は逸れるけれど、あの建物ももうすぐなくなってしまう――ビールを飲みながらこう語っていた。

「今日の上演を観たときに、何万年のことをやっているような感じがしたんです。青柳さんから生まれたこどもが大きくなって、その時代は戦争で、そこで捨てられたり、商売させられたりしていたこどもが大人になって、またこどもを産む――そういうすごい長い時間を見せられてる感じがあったんです。曼荼羅じゃないけど、すごく大きな設計図がボンと置かれている感じがアツかった。これはまたどこかに到達するための途中段階なんだろうなってことは、すごい考えてますけど」

 童話をモチーフとする『0123』は、何万年という普遍的な時間に通じやすい性格を持っている。でも、たとえば『Kと真夜中のほとりで』は、藤田貴大が生まれ育った北海道の町が舞台であり、そこに実在する洞爺湖がモチーフであり、劇中には「にれのき団地」という固有名詞も登場する。ある意味では極私的な作品であったはずなのに、今年の「夜三作」には『0123』に通じる普遍性が感じられる(これは去年の上演もそうだったかもしれないけれど、チャプター11のタイトルは「にれのき団地」ではなく「N団地」だ)。

 去年の夏、京都ではもう一つの作品が上演されていた。それは藤田貴大が作・演出を務めた『A-S』である。これは京都芸術劇場が実施する一般参加型企画の第3弾として制作されたもので、出演者の年齢層は幅広かった。『A-S』もまた喪失をモチーフとする作品であり、いなくなった女の子のビラを配り続けている女性や、いなくなった猫を探している女性が登場する(後者は「なあ、ずっといつまでも、いい友達でいよな」という台詞も口にし、それを聞いた相手は「ずっととか、いつまでもとか、そんなことってありえるのだろうか」と語る)。こうした女性を、普段のマームの作品における出演者よりも年上の――ひとりは81歳という高齢の――女性の身体を通じて描いたことも、今回の「夜三作」に少なからぬ影響を与えているように感じる。

 「夜三作」は、ある日姿を消したKという女の子をめぐる物語だ。Kちゃんが姿を消して、10年が経った。登場人物たちは、それぞれの方法でその喪失に思いを巡らせている。作品の中には、様々な喪失あるいは死が語られる。

 「夜三作」で“さえ”を演じる吉田聡子は、「何かと思えば、正体不明の、死骸。真夜中の、亡骸」という台詞を口にする。その死骸を虫たちが食べている様子も語られる。「誰かに看取られることもなく、密かに絶命した、この小さな命」。吉田聡子が台詞を語り終えると、少し間を置いて川崎ゆり子が「何かと思えば、正体不明の、死骸。真夜中の、死骸」と同じ言葉を口にする。ただ、それに続く台詞は違っている。「私は、かつて生き物だったこの亡骸の名前を思い出すことができない」。

 ここで吉田聡子と川崎ゆり子が「亡骸」に向ける視線は、「動物三作」に通底するものだ。すでに書いたように、「動物三作」では生と死が徹底的に並置される。たとえば、その終盤にはこんなやりとりがある(このやりとりをするのも吉田聡子と川崎ゆり子だ)。

 「なんか、わかんないけど、死のうとするとか。でも、死ぬことが不思議なように、生きようとすることも不思議なことなのかな。生きていこうとするこのことは、間違ってるのかな。間違ってないよね?」
 「わかんないよ、そんなこと」
 「うん。だよね。まあ、じゃあね」

 これは『ヒダリメノヒダ』の初演から存在するシーンだ。でも、観客である私の耳には、少し違った響きを持って届いてくる。それは、今年のゴールデンウィークに上演された『sheep sleep sharp』という作品のことを思い浮かべてしまうからだ。あの作品の中で、尾野島慎太朗演じる“同い年の男”は、「意思疎通のできない人間は、殺してしまってもいいのではないか」と口にする。こうした考えを持つ人間が存在することを、私たちは知っている。日付なんてただの日付に過ぎないけれど、僕が二度目に「動物三作」を観たのはちょうど1年経った7月26日のことだ。朝のニュースで取り上げられていた、犯人が書いた手紙のことが頭をよぎる。

 意思疎通のできない人間は、人間ではないのだろうか?

 「動物三作」では、モモの死と“しんたろう”の死が扱われている。観客である私はその二つを並列に観る。川崎ゆり子が「人は、どこへかえるのだろう。猫は、どこへかえるのだろう。そもそもかえるって、どこへだろう?」と語るシーンもあり、観客は猫の死と人の死について思いを巡らせることになる。そこで成田亜佑美が語る台詞が印象に残る。

 「モモはさあ、別に、そのあとに自分がどこに行くのかとかは、知らないんだよ」「生きたあとのことなんて、想像もしてないんだよ」「ただ、生きているだけ。動けなくなるその瞬間まで、ただ生きるだけ。動くだけ。それだけなんだよ」

 「動物三作」に――いや、正しくは10周年ツアーで上演される作品たちに――何度も登場するフレーズがある。それは「10年先、20年先、30年先、40年先」というフレーズだ。人間はそうやって、すぐに頭の中を言葉で一杯にしてしまう。そうやって言葉で頭の中を一杯にすることに人間の、生命の尊さがあるのだとすれば、意思疎通のできない(ように見える)人間は否定されてしまうだろう。でも、ここで成田亜佑美が語る台詞には、それとははっきり違った価値観が流れている。

            * 

 今年の7月は安室奈美恵Coccoばかり聴いていた(あとはbloodthirsty butchersの「7月/July」とthee hee Michelle gun elephantの「GIRL FRIEND」を何度も聴いた)。Coccoに関してはデビュー20周年を宿した武道館コンサートも観に行った。そこでCoccoは「長いあいだ生きているとさ、見送ることが増えてくるよね」と語り出した。「そうなってくると、自分には何かできたことがあるんじゃないかと考える」と。

 「動物三作」で中島広隆が演じる“ひろたか”というキャラクターを観ていると、その言葉を思い出す。お産の途中で亡くなった“ひさこ”という牛について、“ひろたか”と“りょうすけ”が振り返るシーンがある。そこで“ひろたか”は、「誰のせいでもないわけだから、どうしようもなかった」と言いつつも、「あの出産の最中、ずっと目が合っていた」と語る。あるいは、“ひろたか”は、亡くなる直前の“しんたろう”とも遭遇している。そこで彼を救えなかったことを、彼はおそらく後悔している。

 今年の「動物三作」でとても印象的だったのは“ひろたか”というキャラクターだ。作品の前半あたり、“ひろたか”に遭遇した“ゆりこ”はこんなことを口にしてしまう。「ひろたかさん髪の毛ってさ、いつかなくなるわけ?」「今もうすでにホルスタインのほやほやっぽいけど。そういう運命でしょ。家系的にも絶望的でしょ」。そう言われた“ひろたか”は、「言われなくても絶望してるよ」とぽつりと口にする。

 では、私たちは運命をただ受け入れるしかないのだろうか。死を、夜を、ただ受け入れるしかないのだろうか。

 ここ数年のマーム作品における死生観には移ろいがある。2015年1月に初演された『カタチノチガウ』では、「生きることが、はたして、本来なのだろうか?」という言葉が繰り返し登場する。あるいは、さきほども引用したように、2015年春に初演された『ヒダリメノヒダ』には、「生きていこうとするこのことは、間違ってるのかな。間違ってないよね?」という問いに対して、「わかんないよ、そんなこと」という答えが登場する。

 この2作品で語られていたことは、『sheep sleep sharp』で――藤田貴大が『カタチノチガウ』以来の新作だと語る作品で――大きく更新されることになる。『sheep sleep sharp』ではいくつもの(想像上の)殺人が描かれるけれど、最終的に「私は、生きることを、肯定する」という力強い言葉が語られる。今年の「夜三作」は、確実に『sheep sleep sharp』以降の作品に仕上がっていた。それは吉田聡子が語る、今年加筆されたこの力強い台詞に集約されている。

 「でも、やっぱり、朝は訪れます。10年先、20年先、30年先、40年先、100年先も、朝は訪れます。でも、その朝は、本当に朝なのでしょうか。夜の形が作られていく様子を目の前に、私たちは、立ち尽くすしかない。誰かが、何かが企んでできたこの夜ならば、私は、この夜に、抗いたいと思う。徹底的に抗いたい」

            * 

 10周年ツアーで上演される3作品を、僕は2回ずつ観劇した。1度目はそれぞれ初演の夜に観て、「動物三作」を7月26日に、「夜三作」を7月28日のお昼にもう一度観た。開演前は暑いくらいだったのに、「夜三作」を観終える頃にはすっかり曇り空で、夜に上演される『ΛΛΛ』を待っているあいだに土砂降りになった。こうして10周年ツアーの作品たちを観る時、開演前には必ずアサヒスーパードライを飲んだ。少し離れた場所から、小ホールの入り口を眺めて飲んだ。こうしてビールを飲むことは、しばらくないのだろう。そんなふうに思いながらビールを飲み干して、『ΛΛΛ』が上演される劇場へと足を踏み入れた。

 こうして3作品を立て続けに観ていると、不思議な感覚に陥る。今上演されている作品には登場しない誰かを幻視する瞬間がある。舞台上に置かれた椅子を観ていると、別の作品でその椅子に座っていた誰かが見えてくることもある。『ΛΛΛ』の冒頭、“ひろこ”が“ゆりこ”に「ガム食べる?」と語りかける。そのシーンに、「動物三作」がフラッシュバックする。「動物三作」では、“ゆりこ”が“さとこ”に「ガム食べる?」と語りかけるシーンが登場するのだ。こうしたつながりが、繰り返しが、不思議な時間感覚を生み出してもいるのだろう。

 3作品が繋がって見えてくるのは、台詞やシーンが繋がって見えるからだけでなく、根底にあるテーマが共通していることもあるのだろう。「夜三作」で印象的だった「抗う」という言葉は、『ΛΛΛ』にも登場する。それは夜の寝室で、“ひろこ”が“ゆりこ”に語りかけるシーンだ。

「昼間、海に行ってみて、思ったことでもあるんだけど。海を目の前に、波を見ていて。抗えないことって、あるよね。自分じゃどうしようもできなくて。でも、誰かがどうにかしてくれるわけでもなくて」。この言葉に、お姉さんである“ゆりこ”が「大丈夫だよ、ひろこは」と語りかける。「え?」と戸惑う“ひろこ”に、“ゆりこ”はもう一度「大丈夫」と語る。これは前回上演された『ΛΛΛ』には存在しなかったシーンだ。

 『ΛΛΛ』が前回上演されたのは、2014年のことだ。2011年に上演された『帰りの合図、』と『待ってた食卓、』、それに2012年に上演された『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』を再編集して上演された作品である。この作品には3つの世代が登場する。名前が語られることのない父。長女の“りり”、長男の“かえで”、次女の“すいれん”。“りり”の娘である“さとこ”。“すいれん”の娘である“ゆりこ”と“ひろこ”である。

 彼らは1年ぶりに食卓を囲む。家族が集まる時の食事は決まって素麺だ。その素麺を食べるシーンで、トラブルが起こる。まず、箸置きから箸を取ろうとした“ゆりこ”に“さとこ”が「それ、私の箸なんだけど」とケチをつける。さらに、バターごはんが食べたいと言い出した“ひろこ”に「は、バターごはん?」「デブだねえ」「私、ごはんに何か載せるのとかあんまり好きじゃないんだよね」「口の中で混ざるのとかもなんか下品じゃない? 要は想像力の問題じゃない? 私にはできないわ」とぼろかすに言う。

 「想像力」という言葉は“さとこ”にも返ってくる。“さとこ”の言葉を聞いていた“ゆりこ”は、「なんか、食べる気しなくなってきたんですけど」と口を開く。「ここで食べることによって、いまここにいないお母さんに申し訳ないんですけど」「バカにされてるとしか思えないんですけど、うちのこと」と言葉を重ねて、しまいには暴れ出す。そうして「人んちの食卓バカにしてるから、こういうことになるんだよ。ちょっと想像すればわかることを想像できてないんだよ」「食卓レベルで物事考えろよ。バカにしていい食卓なんて一つもないはずだろ、クソ」と語るのだ。“ひろこ”もまた、「元をたどれば、同じ血が流れているはずなのに、私たち。なのに、こんなにも感覚が違うのだと、たった今悟りました」と語る。

 こうしたシーンに、客席からは笑いがこぼれる。たしかに、バターごはんを否定されたぐらいでそんなにも怒りくるのはこどもっぽく見えて、微笑ましいシーンに見えるのだろう。でも、ここで語られていることは、世の中で起きているありとあらゆる差別にも通じていることだ。ここで“さとこ”が意地悪なことを口にしたのも、自分が生まれる前からこの家にあったガラスのコップを“ゆりこ”が割ってしまったことが原因だったことが明らかになる。たかがガラスのコップぐらいで、と思う人だっているだろう。でも、それを「たかがガラスのコップ」と言ってしまうのであれば、この作品で描かれる“父”の死にも、あるいは家が壊されるということにも何かを感じることはできなくなるだろう。

 ところで、10周年ツアーで『ΛΛΛ』が上演されるということは少し意外だった。あの作品は2014年で描き切った作品だと思っていた。7月15日に上演された『ΛΛΛ』を観ると、随所に新しいモノローグが書き加えられているものの、舞台上は感傷に支配されてしまっているように感じられた。でも、今日観た『ΛΛΛ』は印象がまるで違っていた。それを支えているのは成田亜佑美だろう。

 今年加筆されたシーンで大きいのは、一つには、父の死に関するシーンだ。あんなに元気だった父は、或る日突然倒れて、あっという間に衰えていく。入院したばかりの頃は、トイレの世話を他人に任せることを頑なに拒んでいた父は、もう自分でトイレに行くことはできなくなってしまった。もうモルヒネも効かなくなってしまって、これ以上延命するためには手術が必要だという。しかし、父はもう、娘を見てもそれが自分の娘だと認識できない状態になってしまっている。そこで“りり”はこんな台詞を口にする。

「そりゃ、気持ちはそうだよ。行きてほしいよ。でも、それを今、肯定していいのかっていう。だから、もう私達にはさあ、お父さんはさあ――だってもう、見ればわかるじゃん。もう耐えられないよ、お父さんには。なのになんで」

 もう自分の家族のことすらわからなくなっているのに、ただ延命するためだけの措置をとることは、はたして正しいのだろうか。それを肯定することができるのだろうか。ここで話は再び『sheep sleep sharp』に立ち返る。人間の生と死を見つめている時間には、必ずこうした瞬間が訪れるのだろう。“さとこ”が“ゆりこ”や“ひろこ”と喧嘩をする食卓は、その父が亡くなってから一年が経った日の出来事である。そこには新たな問題が巻き起こっていた。道路の拡張工事のために、“りり”と“かえで”と“すいれん”が生まれ育った家が取り壊されるというのだ。

 その家で生れ育った“さとこ”は、名残惜しそうに椅子に座っている。そのシーンは2014年の『ΛΛΛ』にも描かれていた。今年の『ΛΛΛ』には、その先の言葉まで語られる。“さとこ”が語る。「次に来た時には、ないんだね。おじいちゃんが油絵描いてた、この部屋も」。そう、その部屋は、父(祖父)の部屋だったのだ。“さとこ”の言葉を受けるように、成田亜佑美が演じる“りり”はこう語り出す。

「父は、定年退職したあと、油絵を、夢中になって描いていた。油絵の具の匂いがしみついた、小さな部屋」「あの部屋で昼寝をすると、必ず見る夢があった。あの夢の中では、死んでしまった人。皆が生きていて。誰も死んでいなくて、しかもそれが本当に本当のようで、私はそれを、見つめている」

 10周年ツアーで上演される作品たちでは、忘却が語られている。たとえば、「動物三作」で吉田聡子は「光がそのスピードで眼球の中に入って、そのスピードのまま頭の中に届く」「映像として焼きついたその瞬間、忘れることが、始まる」と語る。実際に、私たちは忘れていく。すべてのことを覚えていることはできなくて、次の瞬間から忘れていく。それに比べて、ここで成田亜佑美の語る言葉の力強さはどうだろう。彼女は、いなくなってしまった人のことを、はっきりとおぼえている。それが「本当に本当のようで、私はそれを、見つめている」。

 何より印象的だったのは、彼女が最後に語るこの台詞だ。

 「私たち、この先、10年、20年、30年、40年と老いていって、誰かの名前、家族の名前もいえなくなるぐらい老いていって、この家のこと、食卓のことも、思い出せないぐらい老いていくのかもしれない。でも、それでも、残ってるよ。うん。感触が。手触りが。うんうん。遠くのほうで、帰りの合図が、聴こえた気がした」

 この台詞には、3作品で語られてきたことに対する一つの回答があるように感じられた。それを感傷に押し流されることなく言い切る姿を見つめながら、この瞬間を目に焼き付けなければという気持ちになった。観終わった瞬間にはもう忘却が始まっているのだけれど、少しだけでも抗おうと、今これを書いている。

            * 

 劇場からの帰り道、イヤホンを耳にねじ込んだ。ファミリーマートアサヒスーパードライを買って、久しぶりに「自問自答」を聴きながら、駅まで歩く。「孤独主義者のくだらんさや」というフレーズ。いつだかのライブで、親指で自分を指しながらその箇所を歌っていた向井さんを思い出す。「夜三作」でひとりになろうとしていた“かえで”のことも思い浮かんだ。埼京線はガラガラで、2杯目のアサヒスーパードライを飲みながら車窓の風景をぼんやり眺めていた。光が左から右へと流れてゆく。その灯りを眺めているうちに、どこか新しい場所へ行かなければという気持ちになってくる。