朝起きると、家族は皆出払っていた。始発電車に乗って、兄夫婦は東京へ、両親は宮島へ初詣に出かけた。ダイニングテーブルには書き置きがあり、年越しそばがあると書かれている。鍋を開けると、1日から鍋に入ったままのそばが見えた。箸で掬おうとするとブツブツ千切れる。冷蔵庫から新しいそばを取り出し、食す。それから祖母の様子を見に行く。おはようと声をかけると、「ああ、お姉ちゃんはもう出かけた?」と言う。

 僕のことをわかってくれているかどうかわからないけれど、朝ごはんを食べさせる。祖母の朝食はパンとコーヒーでハイカラだ。昨晩は回転寿司屋でおみやげにしてもらった寿司をぺろりと平らげていたが――「大陸におった頃はねえ、私がぐずりよったら、よお寿司を食べさせてもろうてねえ。目の前に寿司を見せられたら、うちも泣きやみよったよ」と懐かしそうに語っていた――今朝もしっかり食べている。食べ終えるのを見届けて、湯に浸かる。一昨日の晩に放送された『芸人キャノンボール2016』と、そのとき日記に書いた『たけし&安住が贈る!「伝説の芸能60年史」』を思い出す。後者では、マスコミによる過剰な取材が取り上げられ、岡田有希子が自殺した際には飛び降りたビルにレポーターが上がり、飛び降りる直前に見たであろう景色をカメラが映し出していた。その過剰さを安住は(TBSアナウンサーとして)反省しつつ、その時代は撮影機材が進化して、取材陣がフットワーク軽く出かけられるようになって、その結果としてこの過剰さが生まれてしまったのではないかと話をした。

 その話を思い出しながら、あらためて『芸人キャノンボール2016』のことを思い浮かべてみる。あの番組は、芸人たちが街に繰り出すバラエティだ。同じスタッフが制作する『水曜日のダウンタウン』や『クイズ⭐︎タレント名鑑』もしばしば街に繰り出すし、昨年始まった『夜の巷を徘徊する』という番組にも同じことが言える。それは、いわゆる街ブラ的なロケ番組とは一線を画したドキュメント性がある。コンプライアンスが問われ、何かと言えば炎上し、街の映像にはモザイクがかかる時代に、あえて街に出ようとしている。ワイドショーが過激だった時代には、その過激さと呼応する言葉があったはずだ。それに対峙する言葉もあったはずだ。では、2016年の今、どんな言葉がありうるのだろうと考える。

 昼には両親が帰ってきた。お昼ごはんはお土産の山賊にぎりだ。でっかいおにぎりに、いくつかの具材が詰まっている。でっかいおにぎりを食べていると、昔話に出てくるお百姓さんのような気持ちになる。だが、気持ちになるまでもなく、うちは代々農家なのだった。夜は焼きそばとおせちが食卓に並んだ。なかなかの組み合わせだ。そしてなかなかのヘビーローテーションだ。今日は酒を飲まなかった。最後の休肝日がいつだったか思い出せないけれど、『書を捨てよ町へ出よう』のプレ稽古を最初に見学した10月22日以降は毎晩飲んでいたはずだから、少なくとも2ヶ月半ぶりだ。

 荷造りを終えると、カメラ屋でプリントしてきた写真を眺める。12月上旬に買った2台の写ルンですを現像してきたものだ。半分くらいの写真は真っ暗で何も写っていなかった。夕暮れ時や屋内で撮った写真はほぼ全滅だが、ちゃんと写っている写真もある。稽古の様子を眺めているうち、フィルムに光が記録されるということに改めて興味が湧いてきて、とりあえず写ルンですを買ったのだ。現像された写真を眺めていると、久しぶりの感覚で楽しくなる。僕の父は副業で記者の仕事をしていたので、物置にはフィルムカメラがいくつか眠っている。別にビンテージ物などではないが、それを拝借して帰ることにして、リュックに忍ばせて眠りにつく。