朝8時に起きて、トーストとヨーグルトを食す。ついにベビーフットの効果があらわれて、足の皮がめくれ始めている。日焼けの皮をめくるのが大好きな知人に見せると、無心でむき始める。午前中は、ふいに浮かんだ計画を実行に移すべく、予定を立てて過ごす。納豆オクラ豆腐うどんで昼食を済ませ、湯船につかって植本一子『かなわない』(タバブックス)を読み進める。最近少しずつ読んでいる本だ。

 風呂に入っているうちに、足の皮がえらいことになってくる。ふやけてボロボロにめくれて、ちょっとイソギンチャクみたいだ。湯につかっているうちは楽しく観察していたが、問題は風呂上がりだ。その状態で靴下を履くわけにもいかないので、少しずつそっと剥がしていく。最終的にA4の紙が埋め尽くされるほど剥がれた。古い角質がこれだけ剥がれれば、足も臭わなくなる、のか?

 夜、横浜「STスポット」へ。今日は手塚夏子『15年の実験履歴〜私的な感謝状として〜』を観にきたのだ。名前を聞く機会はちょこちょこあったが、公演を観るのは今日が初めてだ。「ダンス」というジャンルに分類されるものをあまり観てこなかったということもあるが、たぶん恐ろしかったのだと思う。ダンスというのがどういう表現であるのかはわからないが、たとえば「“身振り”とは何であるのか」ということを考え実験し続けている人がいるとしたら、それはちょっと恐ろしくもある。そういう恐ろしさを感じていたのだと思う。ただ、「今まで興味はあったけどちょっと怖いなあと思って近づきがたかった方にとっても接しやすい作品です」とチラシに書かれていたので、観てみることにした。

 タイトルにもあるように、この15年続けてきたという「私的解剖実験」というシリーズを凝縮して提示するような公演だったのだが、「すごいものを見た」というのが観終わったときの素直な気持ちだ。自分がぼんやり考えていたことにも示唆をもらった感じがある。印象的だったことの一つは、ダンスをしているときの状態の説明だ。手塚夏子はまず目を書くとその下に手を生やし、手から糸をつなげて凧を描く。凧が「体と心」であり、目は「ただ見ている感覚(=意識?)」。ダンスをしている「体と心」があり、それを見ている「視線」がある。この「ただ見ている」ということが重要で、そこで価値判断――「この動きはちょっと」とか「こうやると面白いんじゃないか」とか――が働いてしまうと凧が落ちてしまうのだという。その「ただ見ている感覚」というのは一体何者なのだろう。それはダンサーに限った話ではなく、日常生活にも潜んでいるはずだ。

 もう一つ印象的だったのは、民俗芸能の話だ。移住した先で触れた囃子に興味を持ち、地元の人に教わり始めたことをきっかけに、あちこちの民俗芸能を調査し始めたのだという。民俗芸能は人から人へ、“脈”のように伝わってゆく。そうして引き継がれていく“形”には、飢饉の苦しさや、圧政に対するやりきれなさなど、民衆の様々な感情や反応が込められてゆく。その“形”が演じられ、鑑賞され、伝承されてきたということ。

 民俗芸能が形成されたのは近代以前の世界だ。近代というのは、共通の視点や物差しを強いられる世界だという。文明開化とともに日本に紹介された『万国公法』――この「万国共通の法律」という考え方がまさしく「共通の視点」である――は、世界を自主国・半主国・未開人の3つに分けており、日本を含めてアジアは「半主国」に分類されてしまった。何とか「自主国」として認めてもらいたくて、明治政府は富国強兵を行い、日本人の身体も体育と軍隊によって近代化され、理想的な単一の“形”にあてはめられてゆく――といったことを手塚夏子が語る(もちろんこれは正確な引用ではなくニュアンスの話)。

 語られていることの意味はわかるが、何とも言えない気持ちになる。近代以前の日本が単一の“形”を免れていたとは言えないだろう。江戸時代を支えていたのは朱子学であり、あるべき道徳に縛られた生活があったはずだ。その朱子学が中国から伝来した思想であることも示唆的で、日本はまだ小国が乱立していた時代から中国に朝貢華夷秩序に組み込まれていたのであって、出発点からしてあるべき姿を追い求めていたのだとも言える。その規模で考えだすと、私たちの身体に押し付けられている形を外すということは、何を想定すればいいのだろう。国の形が生まれ始める前だとすれば縄文時代になるのだろうか?

 公演の終盤、舞台上には四角くテープが貼られた。その小さな枠の中に手塚夏子が立つと、「理想的な社会人に必要なものは?」、「明るい未来という言葉に何を想像しますか?」といった質問(これも正確な引用ではなく大意)が投げかけられる。それに彼女はそれに答えようとするのだが、うまく言葉が出てこず、身体にバグが生じたような状態になっていく。明るい未来、明るい未来と辿々しく繰り返していくうちにその振れ幅は大きくなり、涙を流しながら民謡のような節回しで「あかーーーーーーーー」と繰り返す。

 そのまま舞台は終幕となるのだが、とにかく「すごいものを見てしまった」と呆然とした気持ち。と同時に、最近ぼんやり考えてきたことがまとまったような気がする。今期は楽しみにしているドラマが多くあるが、その一つは『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』だ。前も書いたように、いわゆる月9然とした恋愛ドラマではなく、21世紀の日本に生きている私たちのしんどさが凝縮された恋愛ドラマだ。

 坂元裕二脚本のドラマを観るたびに思うのは、どうして私たちはこうした作品を必要とするのかということだ。作品を評する時に「リアル」や「リアリティ」といった言葉が用いられることは多いが、どうして人は自分が生きている時代の鏡のようなものを欲するのだろう。その「鏡」を演じる役者にはどんな負荷があって、その中身はどんなふうになっているのだろう。