旅日記2016(1日目)

 4時半に目が覚めてしまった。トランジットした飛行機で少しウトウトしたのが良くなかったのだろう。朝7時15分、ホテルを出てモンマルトルを歩く。今日がパリ散策1日目だ。まだ街は暗く、静かだ。空き瓶がいくつも捨てられている。鳩の群れが何かをついばんでいる。タバコの吸殻がそこかしこに落ちている。道路の端をどこからか水が流れてくる。カフェはオープンに向けて準備をしているところだ。いくつもカフェを通り過ぎる、どのカフェもオープンに向けて掃除をしているところだ。歩いているうちに、空が少しずつ明るくなる。きれいな朝焼けだ。

 最初に向かったのは「Café des Deux Moulins」というカフェだ。7時半から営業しているカフェで、カウンターはもう客で一杯だ。僕はテーブル席に座り、ブレックファーストを注文。コーヒーとオレンジジュース、パンが3が切れ、3つの卵を使ったオムレツ、それにクロワッサンがついて12ユーロだ。すごい値段ではあるけれど、2年前に初めてパリを訪れたときにも連れてきてもらったことがあるので、値段に驚くこともない。客の大半は男性で、作業着姿も目につく。ヘルメットをかぶったままの人もいる。ポスターが飾られていなければ、ここが『アメリ』のロケ地だということを忘れそうになる。

 カウンターには常連とおぼしき客が次々とやってきて、店員と握手を交わし、コーヒーを飲み、帰ってゆく。エスプレッソと酒を混ぜたものを飲んでいる人もいる。「サルーテ」「プレーゴ」と言葉を交わす人もいる。こういう雰囲気だと、どうしたって「あの客は『アメリ』を観てやってきたのだろう」と浮いてしまう。僕は前回案内してもらった店を再訪しているだけだけれども、渡航前に『アメリ』を観返しておいた。最初に観たのはもうずいぶん前のことで、どうせ不思議ちゃんが好きそうな映画だろうとしか思っていなかったのだけれども、とても良い映画だった。『アメリ』を観て、そうか、ダイアナ妃が亡くなったのはパリだったのかと知る。あの事故のニュースは覚えているけれど、それがパリだということはまったく覚えていなかった。

 朝食をさっと済ませて、8時11分、メトロに乗る。ぼちぼち混んでいるが、朝8時台の首都のメトロだと思うとがら空きだと言いたくなるほどだ。なぜこんなに空いているのだろう。路線を乗り継ぎ、ルーヴル美術館の前に出る。かつて宮殿だった場所だからか、大きな門をくぐって歩く。巨大な広場があり、清潔な気持ちになる。このズドンとした広さ。豪華絢爛な場所は苦手だけど、この過剰さというのは嫌いではない。美術館の入り口には少し行列ができている。開館まであと20分ほどだ。並んでいると、目の前の中国人カップルがずっと写真を撮りあっていて、今のでもう18枚目だ。「ルーヴルに並んでます」という絵だけでそんなに撮っていたら、一体何枚になるのだろう。枚数はともかく、バッテリーは持つのかと余計な心配をする。開館時間を迎える頃には行列もずいぶん長くなり、自撮り棒を抱えた黒人が列に沿って売り歩く。

 9時過ぎ、さほど待つこともなく入館する。しかしオンラインでチケットを購入しておくのが最善だろう。さて、ここからどこまで体力が持つか――すべて観ようと思えば1週間あっても足りないと聞くので、気合いを入れて通路を歩く。今回はフランスの絵画を中心に見学することに決めてあるので、2階のドゥノン翼、それに3階の展示だけを観る。さっそくドゥノン翼へと歩き、いくつかの彫刻を横目にスタスタ歩いていくと、神々しい像が見えてくる。「サモトラケのニケ」という像だと説明書きがある。像も神々しく感じるし、何より展示されている空間が神々しく感じる。階段から像を見上げる格好になり、上には窓があって光が注ぎ込んでいるからだろうか。

 2階のドゥノン翼の展示はしばらく宗教画が続く。14世紀頃の絵画には不思議なおかしみがある。天使がこちらを見て不敵に笑っていたりする。生と死、それに聖なる場面をこんなに繰り返し描いてきたのはどういうことだろう。解説を読むことは基本的に諦めて、撮影自由ということもあり、気になった絵画のタイトルを写真でメモしてずんずん進むと、大きな人だかりが見えてくる。「モナリザ」だ。この時間でも結構人だかりができていて、皆写真に収めている。僕も最前列が空くまで並ぼうかと思ったけど、遠くからでも絵画自体は見えるのでやめにした。思いのほか小さな絵だ。毎日朝から晩までこうして撮影されているのだからトップアイドルだ。

 おおよそ年代順に観ていくと、次第に貴族の肖像画や優美な生活が描かれるようになり、以前とは違ったタッチの宗教画が登場し、都市を見下ろす絵や自然を描いた絵があり、庶民の暮らしぶりが描かれた絵画が生まれ、光がとても印象的に描かれた絵画が増えてくる。僕は美術史なんて何一つ知らないままルーヴルにきてしまったけれど、それでもこうして膨大な数を観ていると流れが感じられて楽しくなる。美術館がこんなに楽しいところだとは思わなかった。日本で美術展を観に行くと、どうしても“絵画を観る”というよりも“解説を読んで学ぶ”ということになってしまうけど、ここではただ観るだけなので楽しいのだろう。印象的だった絵は3つある。1つはテオドール・ルソーの「Avenue of Chestnut Trees at the Château de Souliers」、1つはドラクロワの「民衆を導く自由の女神」(これは観るのが楽しみだった)、1つはジョセフ・ヴェルネの「夜;月明かりの港」だ。特にヴェルネの絵はずいぶん長い時間眺めた。ある時期から光のコントラストがとても象徴的に扱われた絵画が増えるけれど、その中でもこれが一番ハッとさせられた。この絵葉書を買おうと思っていたのに、ミュージアムショップに並んでいなかった。


テオドール・ルソー「Avenue of Chestnut Trees at the Château de Souliers」


ドラクロワ民衆を導く自由の女神


ジョセフ・ヴェルネ「夜;月明かりの港」

 それにしても、「モナリザ」のある部屋と「民衆を導く自由の女神」のある部屋あたりまでは混雑していたのに、3階の展示に関してはほとんど誰ともすれ違わなかった。そのせいか、4時間くらいはかかると思っていた見学コースを2時間弱で観終えてしまった。これはでも、僕が美術の知識がないせいだろう(知識があればもっと立ち止まる時間が長くなる――のか?)。それに、館内には至るところにベンチがあり、午前中であれば思ったほどの混雑もなく(移動するのにも苦労するほどかと思っていたが、建物が巨大であるおかげでスイスイ移動できる)、ただただ楽しい2時間であった。

 11時半、外に出ると少し暑くなってくる。ジャケットを脱いで歩き、オペラ座の近くにある「ル・グラン・カフェ・カピュシーヌ」に入る。何と24時間営業のブラッスリーだ。案内された席のすぐ近くでは日本人の団体客がいた。ビジネスでパリを訪れたのだろう、スーツ姿の中年男性たちが会食しているところだ。まずはビールを注文して一息つく。魚料理が名物だと聞いたので、ヒラメはあるかとギャルソンに尋ねてみたけれど、首を振られてしまったので、おすすめされたスズキのポワレを注文する。一番白ワインもハーフボトルで頼んだ。

 改めて店内を見渡す。天井はステンドグラスで覆われている。花の模様だ。柱や壁にも蔦のような装飾がある。ガイドブックを読むと「アール・ヌーヴォーのインテリアが美しく、雰囲気たっぷり」とある。こういう装飾をアール・ヌーヴォーと呼ぶのかと、この年にしてようやく知る。ここはパリのど真ん中ではあるけれど、野原のような場所だ。そこで飲み食いするということは、野点みたいなものか。ほどなくしてスズキのポワレが運ばれてくる。皿の左にはフォークが、右にはバターナイフみたいなのが置かれている。これはどうやって使うのだろうかとずっとそわそわしていたけれど、これは野点なのだとすれば気にやむこともあるまいと、食べやすいように食べた。隣のテーブルの老夫婦をちらりと見ると、フォークとバターナイフの持ち手からして逆であった。

 食事を終えると、コーヒーやデザートはいるかとメニューを渡される。そういえば今回は食後酒を飲んでみたいと思っていたことを思い出し、カルヴァドスを注文する。コーヒーと交互に飲むかとギャルソンが提案してくれる。そういうものなのかと、エスプレッソも一緒にオーダーする。運ばれてきた二つを交互に飲んでみる。カルヴァドスカルヴァドスでがつんとした風味があり、エスプレッソも同様だ。それぞれがそれぞれの方向に振り切れているせいか、飲んでいるとくらくらする。極端だ。

 さっきルーヴル美術館を見物していたときにも思ったことだけれども、フランスは極端な国だという印象がある。産業革命による大量生産が可能になり、それに対するカウンターとしてアール・ヌーヴォーが生まれ、そうして過剰になったアール・ヌーヴォーに対するカウンターとしてすっきりした幾何学的な線を用いたアール・デコが起こったとガイドブックにある。いずれもフランスで起こったというのが興味深いところだ。過剰で極端だ。そういえば去年、寺山修司に関する資料を読み漁ったとき、寺山がパリで公演をしたという記事を読んだ。この街で寺山は何を感じただろう?

 会計を済ませて、近くのオペラ・ガルニエへ。いわゆるオペラ座だ。現在ではオペラの公演はバスティーユ広場近くの劇場で開催されており、主にバレエの公演が開催されているという。マチネ公演のない日は見物が可能だというのでやってきたのだが、豪華のはわかるが、ただ豪華なばかりで退屈だ。さっと見物を済ませて、出る。カフェに入り、ビールを飲んだ。店員の老婆が「アジア人だ」という目をしている。少し移動してパサージュを歩く。パサージュ・ヴェルドー、パサージュ・ジュフロワ、パサージュ・デ・パノラマ。2年前にも歩いた道だ。このパサージュ・デ・パノラマは1799年に造られた最初のパサージュで、雨風にさらされることなく回遊し買い物を楽しめる場所として賑わったという。

 ところが、世紀が半ばを過ぎ、第二帝政に入った頃から、パサージュは急激にすたれ始める。デパートという新しい商業形態が登場したからである、その結果、どのパサージュもテナントがどんどん入れ替わり、ついには骨董屋とか古着屋、古本屋といった店ばかりになった。しかもその状態が何十年も続いたのである。一言で言えば、パサージュは、一九二〇年代には、店舗もさることながら、それ自体が早くも化石のような建物と化してしまったのである。

 しかし、やがて、こうしたパサージュの化石性を逆に新しいものと捉える完成が登場する。アンドレ・ブルトンルイ・アラゴンなどのシュルレアリストたちである。彼らは、パサージュの骨董屋や古着屋のショーウィンドーに並べられた雑多な事物の集積の中に自分たちの芸術の方法論を見出した。すなわち、ミシンと蝙蝠傘が手術台の上で出会う、突飛(insolite)で曖昧(équivoque)なシュルレアリスム的組み合わせの発見である。

あるいは、このパサージュが舞台となった小説に「なしくずしの死」がある。主人公のフェルディナンが、少年時代の暗黒の物語を回想する物語だ。遠洋航海の船長にあこがれながらもその夢を叶えられず、怒りっぽく気難しい父と、やさしく楽天的な母、それに古道具やレース、陶磁器などを扱う店を経営する祖母が登場する。そこで描かれるのは、パサージュに暮らす貧しい家族の姿だ。

 〈小路〉では、祖母はできるだけ長く、彼女の資本の残りの古道具で私たちを助けてくれた。私たちはたった一つのショーウィンドーしか飾れなかったので、そのウィンドーだけに明かりを点した…… それはつまらない骨董品であり、古くなってがたがきたもの、売れ残り、がらくたの品であり、そんなものを売っていては《文無し》だった…… なんとかそれをしのぐ方法としては節約しかなかった……いつでもヌイユ料理で、毎月、月末には母さんの《イヤリング》を《質》に入れ…… いつももう一歩でまたまた破産するところだった。

 この「小路」というのがパサージュだ。別の箇所では、こんな記述もある。

正直なところ、〈小路〉はとてつもない腐敗の巣だった。そいつは子犬の小便と、糞と、痰と、ガス漏れのあいだで、人がゆっくりと、だが確実に死んでいくようにできている。牢獄の中よりまだ臭い。ガラス張りの屋根のずっと下では、太陽の光線もほとんどとどかないので、蝋燭の光でそれをかき消せるほどだ。誰もが息が詰り始めた。〈小路〉はおぞましい窒息状態を自覚したのだ!…… もはや話題はといえば田舎であり、山、谷、自然のすばらしさだった……

 この小説が興味深いのは、そんな少年時代を過ごした「私」は、発明家にして雑誌編集長のデ・ペレールという男の助手として働き始めるのだが、彼は気球“熱球号”の船長であり、都会の子供たちを集めて“共同生活体”を作るも失敗し、最後には自殺するというところだ。それはともかく、2016年の今、「なしくずしの死」の登場人物たちのように暮している人の姿を見かけることもない。あるいは、手術台の上に置かれたミシンと蝙蝠傘を見たとしても、そこに新しさを発見することはない。そんな組み合わせはもはや日常茶飯事になってしまった。今ではもう、レトロな街並みが残っているというだけだ。

 結局立ち止まることなくパサージュを抜け、パレ・ロワイヤルに出る。名前の通りかつては宮殿だった場所だが、革命前夜になると回廊式のモールに改装されて区画ごとに売り出された。まだパサージュが出来る前の時代ということもあり、パレ・ロワイヤルは飲む・打つ・買うの三拍子揃った盛り場になったという。しかし、娼婦が締め出され賭博場が閉鎖されたことで一気に衰退したそうだ。

 パレ・ロワイヤルに当時の名残は当然残っていないけれど、それでも歩いているのは楽しかった。よく手入れされた庭園があり、並木道が続き、噴水がある。ところどころにカフェもあり、パリジャンたちがぼんやり過ごしたり、読書したり、犬を散歩させたり、おしゃべりしている。噴水の前にはいくつも椅子が並べられており、誰でもそこでぼんやりできる。2年前の夜、このベンチで一息ついたことを思い出す。あのときは夜で貸し切りだったが、今はお昼ということもあり、椅子はほとんど埋まっている。仕方なくカフェに入り、カフェモカを1杯飲んだ。時差ボケのせいか、お昼を食べたあとから眠くて仕方がない。ホテルに一旦帰って休むかどうか迷ったけれど、もう少し散策を続けることにする。チップとして小銭をテーブルに残して席を立ったのだが、振り返るとギャルソンではない男がそれを攫っていた。

 カルーゼル凱旋門をくぐり、チュイルリー庭園に出る。カルーゼル凱旋門は、ナポレオン率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍と戦ったアウステルリッツの戦いに勝利したことを記念して造らせたものだ。だが、ナポレオンはその小ささに満足せず、新たに造らせたのがエトワール広場にある(私たちがイメージする)凱旋門だ――とガイドブックに書かれている。そう言われてみると、カルーゼル凱旋門はたしかにちょっと可愛らしいサイズだ。チュイルリー庭園には芝生が広がっており、遠くにエッフェル塔も見える。砂利道の上ではあちこちで黒人が風呂敷を広げていて、エッフェル塔の置物やマグネットを売っている。

 カルーゼル凱旋門から凱旋門までの数キロはまっすぐな直線で結ばれており、その直線ぶりに少し圧倒される。近代的な空間は巨大だ。去年はひと気の少ない時間に歩いたので、その不気味な巨大さが際立っていたけれど、今日はまだ夕方で、のんびり過ごしている人が多いせいか穏やかな空間に見える。チュイルリー庭園を抜けるとコンコルド広場で、ここから先がシャンゼリゼ通りである。しかし、ここで“直線”から一度離れて右に折れる。今日は朝からジャケットを着て過ごしていたのだが、それはこの近くにある五つ星ホテル・クリヨンのティールームとバーに行ってみるつもりだったのだ。だが、地図を頼りにウロウロしても見つからず、通行人に尋ねてみると改装中だと言われてしまった。

 クリヨンのためだけにジャケットを持ってきたのに、まったく必要がなかった。ここですっかり挫けてしまって、本当は(2年前と同じように)凱旋門まで歩くつもりでいたけれど、ホテルに帰って休むことにする。3時間ほどウトウトして、再び出かけたのは21時半だ。待ち合わせ場所であるオデオンの近くにある「ラヴァン・コントワール」という店を目指す。「同じ名前の店が並んでて、魚のマークと豚のマークがあるけど、魚の方で!」と言われていたので、しばらく2つの店を見比べて入店する。立ち飲み屋だ。屋内と屋外が選べるが、屋外のエリアを選んだ。まずは白ワインと、ディスプレイされている生牡蠣を注文する。店員さんがにこやかに応対してくれる。「これは××のワインだ」とか、「今日は××産の牡蠣が入っているよ」と教えてくれているのだろうけれど、言葉がわからず、申し訳ない気持ちになる。

そもそも生牡蠣は好きではなかった。ただ牡蠣はフランス語で「ユイットル」だと知っているからそれを頼んだだけだった。店員さんにおすすめのメニューを尋ねてみると、店内を指差し「写真がぶら下がってるから、好きなのを選んでくれ」と言われる。そこには無数の写真が並んでいた。しばらく眺めていたものの、食べたいと思えるものがないことに気づいて愕然とする。気に入るメニューがないなどということではなく、食べたいと思うものなど何もないではないかと気づいて愕然としたのだ。日本で酒場にはいれば次々に注文するけれど、あれは旬の食材や名物を頼んでいるだけで、季節を消費しているようなものだ。外国にきて、それを取り除いてしまうと、注文したいと思えるものが何もなかった。

 途方に暮れていると肩を叩かれた。振り返ると青柳さんが立っている。パリで買ったのだという、とても印象的なセーターだ。青柳さんは「部屋に流れる時間の旅」という作品で海外ツアーに出ているところで、今はパリ公演をやっているところだ。8月に話を聞かせてもらったとき、「パリ公演、来ないんですか?」と誘われていて、そのときは「いや、行かないです」と答えていた。しかし、それとは別に「パリに行っておかなければ」という目的ができたので、こうしてパリにくることになったのだ。「ラヴァン・コントワール」は閉店時間が迫っていたので、近くにある別の店に移動する。青柳さんは生牡蠣を食べたいと言って店員に注文している。食べたいものがある青柳さんのことを尊敬する。そもそも「ラヴァン・コントワール」という店は、青柳さんがたまたま通りかかって入った店で、そこで待ち合わせをすることになったのだ。僕は外国でふらりと店に入ることができないので、そこも尊敬するところだ。

 ワインを飲みながら、いくつか話をした。その話は、今この日記に書くための会話ではないので、2年後くらいまでしまっておく。日付が変わったあとで店を出て、セーヌ川まで歩いた。2年前と同じように、青柳さんはポンヌフの上を踊って歩いていたけれど、「1人だと調子が出ないな」と言っていた。2年前は青柳さんひとりではなく、聡子さんも一緒に踊って歩いていたのだ。次にポンヌフを訪れるときには、僕はどんな風景を目にするだろう。その日のことをぼんやりと想像していると、エッフェル塔の灯りが遠くで消えた。