旅日記2016(4日目)

 8時半に起きる。雨が降りそうな空だ。ホテルの目の前にあるランドリーに出かけ、7ユーロと洗剤を投入して洗濯機をまわす。昨日と同じパン屋に行き、今日はちゃんと値段を見てパンを選んだ。クロワッサンとアメリカーノで2ユーロ50セントだ。朝食を食べ終えるとランドリーに戻り、乾燥機をまわす。9分で1ユーロ20セント。ぐるぐるまわる洗濯物たちをぼんやり眺める。旅に出ると洗濯をする時間が必要になる。自宅であれば洗濯機をまわしているあいだに別の作業をしたり、洗濯物を干してしまえば出かけられるのだが、こうしてぼんやり見守る時間が必要になる。普段の生活ではこんなにぽかんとした時間はないので、いつも不思議な気持ちになる。

 11時半にホテルを出る。パリ11区にあるオベルカンフ駅でメトロを降り、ごく普通の街角を歩いていると、改装中の建物が見えてくる。それがバタクラン劇場なのだった。2015年11月13日に起きたパリ同時多発テロ事件で、犯行グループはコンサートが開催されていたこの劇場に押し入り、89名もの犠牲者が出た。テロの直後には劇場の前が多くの花束やロウソクで埋め尽くされている様子が報じられていたが、今は隅の方に一つ花束が置かれているだけだ。

 劇場は年末の営業再開を目指して改装作業が進められているところだ。花束がほとんど置かれていないのは、作業の邪魔にならないように配慮されている可能性もある。花こそないものの、柵や養生シートには無数の落書きがあり、ピースマークがいくつも描かれている。しかし、想像していたほど聖地化されていないことに意外な印象を受ける。当時は「ここに足を運ぶことでフランス人の連帯が生まれる気がします」と語るパリ市民のコメントが紹介されていたが、そうして過剰に聖地化することで新たな悲劇を生む可能性があるという反省が生じたのだろうか?

 劇場の2軒隣にはレストランがあり、テラス席で食事をしている人の姿が見えた。注文を聞いている店員さんは立派なあごひげを生やし、頭に小さな帽子をのせている。店内に目をやると、お客さんにも同じような格好をした人がチラホラいるようだ。そういえばイスラム過激派はユダヤ人を標的にしているという話を聞いたこともある。どんなレストランかも確認せずに入ってみると、テーブルには箸が置かれている。寿司と中華料理の店だ。カウンターの向こうでは中国人とおぼしき店員さんが巻き寿司を作っていた。

 メニューをじっくり眺めてみる。最初のページには“メニュー”が――つまり定食が――記されている。ヌードルと巻き寿司寿司のセットが11ユーロ、ヌードルと握り寿司+巻き寿司のセットが15ユーロ、ちらし寿司と巻き寿司のセットが12ユーロだ。ちらし寿司と今書いたけれど、実際には「タルタルライス」と書かれており、日本人のイメージするちらし寿司とは別物だ。アボガドと魚をのせた丼や、ぎっしりとマグロやサーモンをのせた丼がメニューに掲載されている。握り寿司は単品でも注文できて、サーモン、トロ、サーモンチーズ、アボカド、玉子、かにかま、いくらなどがある。手巻き寿司もあるようだ。他にも枝豆が4ユーロ50セント、ミソスープが3ユーロ、焼き鳥(2本)が5ユーロ、生春巻きが8ユーロだ。僕はヌードルと握り寿司+巻き寿司のセット、それにアサヒスーパードライを注文する。

 5分ほどで料理が運ばれてくる。久しぶりに汁麺が啜れると楽しみにしていたのだが、運ばれてきたのは焼きそばだ。しかも3玉はあろうかというボリュームだ。注文するときに店員さんは「ヌードル」ではなく「パスタ」と言っていたのはこういうことだったのか。サーモン、もやし、さやえんどう、それにニンジンが入っている。寿司はアボガドとツナの巻き寿司、それにサーモンの握り寿司である。パリでもサーモンを生で食べる習慣があるからか、意外とうまかった。パスタも異常なボリュームを別とすれば満足の味だ。問題は食い合わせが悪いということだけだ。

 食事を終えて会計をお願いする。クレジットカードを差し出すと、今は器械がないのだと断られてしまった。いや、店頭にクレジットカードが使えるという表示があったから入ったんだと伝えると、「うちはデリバリーもやっていて、クレジット決済の器械が出払ってしまっている」という。5分で戻ってくると言われたので、待つことにする。が、10分経っても20分経っても戻ってくる気配はなかった。マネージャーとおぼしき女性が再び「あと5分くらいで帰ってくると思う」と声をかけてきたところで怒りが爆発してしまって、今から20分前にそう言われてずっと待ってるんだ、カードが使えると書いてあるから店に入ったんだ、こっちは旅行で来ていて今日がパリ最終日なのにどうしてくれるんだとまくし立ててしまう。普段はあまり言葉が出てこないのに、こういうときだけべらべらしゃべってしまって反省する。35分待ったところでようやく器械は戻って来た。

 気持ちを落ち着かせながら歩いていると、ニュースで目にしたことのある通りが見えてくる。ヴェルト通りだ。シャルリー・エブド事件が発生したとき、この通りで犯人グループの車とパトカーが鉢合わせになり、銃撃戦が起きる――その映像を僕はテレビで観た記憶がある。途中で少しくねったヴェルト通りは印象に残っている。シャルリー・エブドが建物のどこに入っているのかはあまり詳しく調べなかった。絵画が描かれた壁と、何かテキストが書かれた壁があった。後で調べるとテキストはラッパーの歌詞であるようで、グーグル翻訳にかけるとこう翻訳された。

あなたの国のためにあなたの理想主義とプライドを片付けます。
私は私の兄弟の中にいることを良い感じ、どちらもここにもそこです

 大通りに出てタクシーに乗り、ノートルダム大聖堂を目指す。駅を出てからずっと謎の塔が見えていたのだが、タクシーで走っているとその塔のある広場を通り過ぎた。そこはバスティーユ広場で、7月革命を記念する碑が建っているのだった。14時、ノートルダム大聖堂にたどり着き、セキュリティチェックを済ませて中に入る。まずは椅子に座ってぼんやり佇んでみる。壮観だ。その大きさに圧倒されるし、敬虔な気持ちにもなる。しかしあまりにも圧倒的で、何かを思うという余白がなく、ただ「巨大だ」と思うばかりだ。教会の中には、どうやって巨大化してきたのかという変遷が図で示されている。最新の技術を駆使して天井をより高くする――そうまでして高さを追い求め、(宗教画がそうであるように)上を、天を意識させるのは何だろう?

 ノートルダム大聖堂で印象的だったのは、マリア像に人だかりが出来ていたことだ。フランスでは聖母マリア信仰が根強いのだとガイドブックには記されている。聖母マリア信仰はどんなふうに広まったのか、日本に帰ったら調べたいところだ。

 太陽が雲から顔をのぞかせたのか、ステンドグラスを通過した光が射し込んできて明るくなる。教会というのはいつ訪れても不思議な場所だ。公園には日光浴を楽しむ人があんなにいるのに、教会という空間は一度その光を遮り、窓から注がせることで光の存在を意識させる。そんなことばかり考えていたせいか、次に訪れたコンシェルジュリーでも窓の存在ばかり気になっていた。この建物は14世紀にフィリップ美貌王が建てさせたもので、王室管理府(コンシェルジュリー)が置かれていた。しかし、現在では王室管理府としてよりも、フランス革命の舞台として知られる場所だ。

 1789年に勃発したフランス革命は次第に過激化し、1793年にジャコバン派による独裁が敷かれ、恐怖政治が始まる。独裁政権は革命裁判所を設置する。この裁判所では簡素な裁判が拙速に進められたが、被告は控訴することはできず、裁判所が圧倒的な権限を有していた。革命に反対する立場の人間はもちろんのこと、穏健派の人々も次々に裁かれ、ギロチンにかけられることになる。裁判を受けて断頭台へと引かれてゆくまでのあいだ、貴族や革命家が最期の日々を過ごした場所こそ、このコンシェルジュリーなのである。

 そうした死刑囚のひとりに、マリー・アントワネットがいる。コンシェルジュリーには彼女の牢獄を再現した部屋もある。部屋にはマリー・アントワネットを模した人形が置かれていた。彼女は黒い質素な服を身にまとっており、部屋の中には男性の看守がふたり目を光らせている。しかし、その独房にはそれなりの広さがあり、枷をはめられている様子もなく、テーブルには本と十字架が置かれている。何より印象的だったのは、部屋に窓があることだ。人形のマリー・アントワネットは椅子に腰掛け、窓から射し込む光を眺めた状態で静止し続けている。


 メトロでポート・ロワイヤル駅に出ると、階段をあがってすぐの場所に銅像が建っていた。ミシェル・ネイ将軍の銅像だ。ナポレオンの側近であり、ナポレオンに次いで人気のあった国民的英雄だった将軍だが、彼が総指揮をとったワーテルローの戦いフランス軍が破れたことでナポレオンによる第一帝政は崩壊し、王政復古を迎える。ネイ将軍は反逆罪に問われ、銃殺刑に処されることになる。処刑が行われたのはリュクサンブール公園にほど近い場所で、目隠しを勧められた将軍は「君は私が20年以上も前から銃弾を直視してきたことを知らないのか?」と断ったという。最期の言葉は「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」という内容だった。現在でも人気のあるネイ将軍の銅像は、彼が処刑された場所に建っている。

 ネイ将軍の銅像のすぐそばに、「クロズリー・デ・リラ」というカフェがある。創業1847年の「クロズリー・デ・リラ」は緑に囲まれており、ちょっとした庭園のようになっている。良い店だ。楽しい気持ちになってきたので、一番安いシャンパンを注文する。しかしパリの人たちは自然が好きなのだな。田舎にある田園風景ではなく、都市の中にあり、はっきり人口だと感じさせる様式で、しっかり手入れのされた自然が。しかしその一方で、ここまで一度も花屋を見かけていないことに気づく。シャンパンを飲みながら、一昨日青柳さんにもらった『バナナブレッドのプディング』を読んだ。

 16時半、「クロズリー・デ・リラ」からほど近い場所にあるカタコンブ・ド・パリへ。12ユーロ支払って中に入ると、小さな螺旋階段があらわれる。ぐるぐる7回転すると地下道があらわれる。ひんやりとした洞窟は、1500年以上前に掘削された採石場の跡だ。湿度が高く、頭に水滴が落ちてきた。迷路のように入り組んだ石造りの坑道を進んでいくと、異様な空間が見えてくる。坑道の両脇に積み上げられているのは鉱石ではなく、人骨だ。

 ここカタコンブ・ド・パリは600万体もの遺骨が収められている地下納骨堂だ。ローマ帝国においてキリスト教が迫害されていた時代には、キリスト教徒の遺体は地下墓地に葬られており、その地下墓地は「カタコンベ」と呼ばれていたのだという。カタコンベはヨーロッパ各地に見られるそうだが、カタコンブ・ド・パリは近代になって作られたものだ。人口が急激に増加したパリで、戦争や疫病や飢饉が起こり、埋葬される人の数も急激に増えることになる。ヨーロッパは火葬ではなく土葬されるため、集団墓地周辺の衛生環境は悪化し、1765年にはパリ市内での埋葬が禁止されたほどだ。衛生環境を改善するため、集団墓地から骨を掘り起こし、かつて採石場だった地下に骨が移されることになり、カタコンブ・ド・パリが誕生する。

 こうしてその成り立ちを書き出してみるとごく普通の施設に思えるが、やはり積み上げられた無数の人骨を見ると――しかもそれが観光地として公開されているのを目の当たりにすると――異様な風景だと感じる。しかも場所によっては頭蓋骨がハートの形に並べられたりしている。さらに驚いたのは、修学旅行生のような学生の団体客が笑いながら見学していること。別に日本でだって、たとえばひめゆり平和祈念資料館をふざけながら見学している修学旅行生はよく見かける。しかし、ひめゆり平和祈念資料館に展示されているのは彼女たちの遺品や生前の写真であるが、ここにはどんな最期を迎えたのかもわからない人の骨が積み上げられているのだ。その圧倒的な存在感を前に笑いあっている姿を見て、ちょっとびっくりしてしまった。

 さきほど見学したコンシェルジュリーのことを思い出す。コンシェルジュリーで驚いたのは、現代アートの作品が展示されていたことだ。それを不適切だと感じるわけではないけれど、フランス革命で断頭台にかけられた人たちが最期の時を過ごした場所に現代の絵画が展示されていることに少し驚いてしまった。日本で言えばそんなものだろう。白虎隊が自決した飯盛山で展覧会をするようなことだろうか。日本だと少し問題になるのではないかという気がするけれど、フランスの感覚はもっと現実的なのだろうなと感じる。

 何があろうと腹は減る――そんなタフネスを感じる。だから過去に何があった場所であろうと展覧会を開催し、死んでしまえばただの骨であり、ハート形や様々な形にデコレーションしたって平気だし、それを観光地として楽しむことができる。何か胆力が違っているという気がする。バタクラン劇場やシャルリー・エブドが聖地化されていないことも思い出す。被害の規模が違うせいかもしれないが、同じテロでも9・11の跡地が聖地のようになっていたことに比べると、事件直後こそ無数の花束やキャンドルが備えられたとはいえ、1年が経とうとする現在はむしろ過剰な聖地化を避けているように見える。しかし、だからといって過去をすべて忘却しているわけでは当然なく、バスティーユ広場やエトワール広場には勝利を記念した碑が打ち立てられている。フランス人の現実感覚はどんなバランスの上に成り立っているのだろう?

 見学を終えると「ブラッスリー・リップ」を目指す。有名な店であるはずなのに店名が通じず、仕方なく旅のしおりを見せると「ああ、ブラッスリー・“リ”ップね」と“リ”の発音を強調して運転手は振り返り、面倒くさそうにクルマを走らせる。10年前に初めての海外旅行としてニューヨークに出かけたときのことを思い出す。タクシーの運転手は「お前のホテルは一方通行だからたどり着けないんだ」とイライラされてしまって、その態度にいちいち動揺していたけれど、今はただ「仕事なめんなよ」と思うばかりだ。

 ブラッスリー・リップに入り、まずはビールとサーディンを注文する。ほどなくして山盛りのサラダがテーブルに置かれた。「サーディン」の発音が悪く、「サラダ」と聞こえてしまったようだ。懸命にサラダを食べ終えたところで、この店の名物だというシュークルートを注文した。骨つきの豚肉とザワークラウトがたっぷり盛られたアルザス地方の名物料理だ。シュークルートの盛られた皿が運ばれてくると、その皿の手前に空っぽの皿が並べられた。この皿は一体何に使えばいいのだろう。取り皿にしては大き過ぎるし、骨を入れる皿だとすれば手前にサーブする必要がないし、何より謎なのは皿が温められていたことだ。とりあえず取り皿として使うことにして、肉にかぶりつく。塩が効いていて、ビールが進むたまらない味だとも言えるし、しょっぱくて単調な味だとも言える。どちらの気持ちもあるから混乱してしまう。ビールを2杯飲んだあとはブルゴーニュワインを飲んだ。有名店だけあって、観光客には淡々とした接客だ。ガイドブックには「ヘミングウェイは原稿料が入るたびにこの店を訪れた」とあるが、この店のどこが好きだったのだろう?

 チップを多めに支払って店を出て、セーヌ川沿いまで引き返す。セーヌ川沿いでは物乞いと難民をよく見かけた。物乞いと難民はやはり違う。物乞いは椅子やゴザに座っていて、動物を連れている。犬や猫だけでなくウサギも見かけた。可愛らしい猫を連れた物乞いがいたので、僕はチップを払って写真を撮らせてもらった。ただ動物は単なる客寄せというわけでもなく、一心同体であるかのように甲斐甲斐しく世話をする物乞いをよく見かけた。一方の難民は布団やマットレスの上に座っていて、家族を連れている。そしてこれは本当に「一見」というだけの話に過ぎないのだが、親たちは時に満ち足りた表情に見えることもある。子どもたちはと言えば、無邪気な子もいれば、ぼんやり寝そべっている子もいる。そして目の前を行き交う無数の足を眺めている。小さい頃にそんな風景を眺めて育った彼は、大人になってどんなふうに思い返すだろう。

 セーヌ川を目指した理由は、川のほとりにある教会にある。といってもそれは有名なノートル大聖堂ではなく、ガイドブックにも掲載されていない小さな教会だ。「セーヌ川のほとりに良い教会があった」と教えてもらっていたのだが、昨日その教会を訪ねてみたところ、「9月29日、ベートーヴェンショパンのコンサート」と貼り紙が出ていたのである。教会に入ってみると、ちょうどコンサートが始まったところだ。真っ白な衣装をまとった男性がピアノを奏でている。薄明かりの夜の教会で静かにピアノの音に耳をすませるなんて、なんと贅沢な環境だろう。教養のない僕は曲のタイトルを知らなかったけれど、一つだけ知っている曲があった。それはヴェートーヴェンの「月光」だった。

 コンサートが終わるとセーヌ川に引き返した。月は出ていなかった。川沿いには細い通路がある。2年前にもここを歩き、行き交う遊覧船に手を振るふたりを眺めていたことを思い出す。船は今日も行き交っており、水面をライトで照らし、波を立ててゆく。水面は街頭でオレンジ色に輝いている。川べりには酒瓶を手にして談笑しているカップルや若者たちがいる。

 今日は彼らに混じって酒を飲むつもりでいたので、赤ワインのボトルを買っておいた。適当な場所に腰を下ろし、行き交う船や水面を肴に酒を飲んだ。1時間経つ頃にはすっかり愉快な気持ちになった。レストランやバーで飲むよりも、こうして飲むのが一番の贅沢だという気がする。立ち上がってしばらく川沿いをふらついてみる。若者たちの宴を眺めて歩き、ボトルをすっかり飲み干してしまった。

 23時、メトロを乗り継いでモンマルトルまで帰ってくる。ホテルを通り過ぎて丘をのぼり、サクレ・クール寺院に出た。サクレ・クールは今日も輝いている。灯台のような寺院からはパリの夜景が一望できる。多くの若者たちが階段に腰掛け、酒瓶片手におしゃべりに熱中している。昼間は黒人のミサンガ売りがたむろしているが、夜になると彼らは姿を消しており、代わりにハイネケン売りが行き交っている。こうして飲み語らう人々に冷えたビールを売っているのだ。かしこい商売だ。僕のところにも売り子がやってきて、「ほら、冷えてるだろう」と瓶を持たせてくる。僕が2本買うと伝えると、誰かと一緒なのかと売り子が言う。2本とも自分で飲むのだと答えると少し驚いた顔をされたが、こんな風景がツマミにあれば2本なんてあっという間だ。

 時計の針が12時をまわっても賑わいは続いた。2年前にも、こんな遅い時間にこの場所を訪れたことを思い出す。たぶんきっと、2年後にもまたこの場所からパリの夜景を眺めるだろう。ここから眺めるパリはいつも燃えるような赤だ。