旅日記2016(3日目)

 7時半に起きる。ようやく時差ボケが抜けてきた。腹が減っているけれど、朝ごはんをどうするか。パリに来てからというもの、カフェに金を使い過ぎている。昨日は「フロール」で清々しく支払ったけれど、一晩経ってみると「カフェで150ユーロか」と憂鬱な気持ちになる。貴重品入れから封筒を取り出してみる。1日ごとにおおまかな予算を決めているが、やはり減りが早い。カードも使っているのでこれは危険だ。

 「フロール」に限らず、昨日も一昨日も朝食で1500円近くかかっている。これではいくらあっても足りない。ホテルに朝食はついていないので、近くのパン屋に出かけ、キッシュのような調理パンとミニッツ・メイド、それにミネラルウォーターを買ってくる。これでも700円だ。パリジャンは皆金持ちなのだろうか。どうすれば安上がりに過ごせるのか、それを考えながら過ごしてみることにする。

 11時過ぎにホテルを出た。昨日「フロール」で書いた手紙を出すべく、タバコ屋で切手を購入してポストに投函する。ジュースで2ユーロもしたのに、フランスから日本まで手紙を運んでもらう値段はそれより安いというのが不思議だ。ぐらりとする。

 私は支払うべきものはみな支払ったつもりでいた。払っては払い、払っては払う女のようにではない。因果応報だの罰だのという考えはすこしもなく、単なる価値の交換として。あるものを投げ出して、その他のものを手に入れる。あるいは、あるもののために働く。すべて何か取り柄のあるものを手に入れるためには、なんらかの意味で支払いをする。自分の好きなものを十分に手にいれるために支払うものを支払ったから、それで私は愉快な思いをしたのだ。それらについて教えられることによってか、経験によってか、機会をつかむことによってか、あるいは金によってか、ともかく、いずれにしても支払うのだ。生活を楽しむということは、自分の金に相当する価値を手に入れる方法を学ぶことであり、またそれを手に入れる時期を知ることである。だれでも自分の金に相当する対価を手にいれることができる。世の中は買いものをするのによい場所だ。これは、なかなかしゃれた哲学のような気がする。五年もすれば、おれが前に考えた他のしゃれた哲学と同じように、これもまた愚劣なものに思われるだろう、そう私は思った。(ヘミングウェイ日はまた昇る』)

お金のことを考えていると暗くなる。『部屋に流れる時間の旅』を観終わった今、ここからは誰かと会う予定もなく、10日間のひとり旅だ。これまであちこち旅してきたけれど、いつでもはっきりした目的があった。まえのひを再訪する旅や、メイナというイタリアの小さな町を再訪したときでさえ目的があったと言える。再訪するということは、記憶を辿り、そこからの距離を考えるということだ。今回のパリも再訪で、前回歩いた場所を辿っているし、かつてこの街にいた人の足跡を辿ってもいる。でも、それをこうして書き記すことが奥的ではないのだ。その目的は誰にも伝わらないだろうと思ったので誰にも言わずに旅に出たけれど、今回の旅は未来に向けた旅だ。おそらく2年後に僕はまたこの街を歩くだろう。その再々訪に向けて、今こうしてパリにいる。そんな旅は初めてだからとても不安だ。気分を紛らわせようと歌を口ずさんでみる。出てきたのは「鴨川」で、それを口ずさんでいるだけでも心が軽くなる。歌というのはすごいものだと、馬鹿みたいに思う。

 最初に向かったのはユゴー記念館だ。ユゴーを読んだことがあるわけでもないのに、ガイドブックに載っていたのでなんとなくやってきた。ユゴー1832年から1848年にかけて家族と暮らした家が記念館として公開されており、入館料は無料だ。『レ・ミゼラブル』の前身となる『レ・ミゼール』もここで執筆されたという。音声ガイドを聴くと、ユゴーはナポレオンを支持するボナパルト主義者の父と王党派の母とのあいだに生まれ、政治思想による対立の絶えない家庭に育ったのだという。すごい時代だ。

 展示を観ていくと、『エルナニ』という戯曲が上演されたときの絵画が展示されていた。コメディ・フランセーズは大賑わいで、客席以外にまで観客が入っている。なにやら小競り合いをする人々も描かれているが、1829年10月5日に上演された『エルナニ』は古典派の常識を逸脱した作品であり、開演するとロマン派と古典派のあいだで暴動にまで発展したと伝えられているそうだ。ただ、「暴動」というのは少し神話化されており、小競り合いがあったというのが正しいところではないかと音声ガイドは言う。音声ガイドには、『エルナニ』に関する新聞記事なども紹介されている。

 もしこの時代の美的感覚が、この時代を支配し続けていたのなら、奇異、愚かさ、不合理から作られたこの舞台に対して、パリ中は野次で大騒ぎになったはずだ。しかし今は違う。ラシーヌヴォルテールは愚弄された。古典主義の詩の流れを組む人たちがいかに抗議しようとも、この謀反は力強い。戦いは宣言されたのだ。――1830年2月26日の新聞記事

 当時を振り返ってみれば、『エルナニ』は前例のないもっとも大胆な劇だった。題材、しきたり、展開、様式、詩の作り方、そのすべてが新しかった。詩的な価値以外にも、『エルナニ』は興味深い文学碑だ。演劇作品がここまで激しい論争を巻き起こしたことなど今までになかったことだ。『エルナニ』は、ロマン主義と古典主義が文学的憎悪のすべてをむき出しにして争った戦場だった。――1838年ユゴーに傾倒しロマン主義の文学運動に加わったゴーティエが『エルナニ』初演を振り返ってコメント
 年月が経ち、公のコメントも少しずつ進んだ。過去には争いを産んだデリケートなニュアンスを含んだシーンで、不当な扱いを受けた詩人に償いをするかのように特に盛大な拍手が送られた。悪だと考えられていた部分が今では魅力だと認識され、笑いを取っていた部分で涙を流し感激するのに驚かされた。――1867年、『エルナニ』の再公演にあたり、レセプションでゴーティエが語った言葉

 そこまでの議論を生んだ作品とは、一体どんなものだったのだろう。やはりロマン派は気になる。進んでいくと中国風の部屋があった。妻(愛人だったかもしれないが記憶が曖昧だ)のためにこうした部屋を作らせ、「完璧だ」と喜ばれたというのだが、アジア人の目からするとおもちゃ箱のような部屋だ。さらに進むと妙に高いテーブルが置かれていた。多忙を極めたユゴーは、こうして高いテーブルを作らせ、立ったまま執筆したのだという。その部屋にはライトアップされた凱旋門に大勢の人が集まっている絵画が掲げられてもいる。ユゴー国葬でもって葬られ、パンテオンに埋葬されたのだそうだ。

 ユゴー記念館を出ると、目の前にあるヴォージュ広場を散策する。ブルボン王朝の創始者アンリ4世が造らせたこの広場は、パリで最も美しい広場の一つと呼ばれている。広場自体はごく普通の広場に見えるけれど、芝生では若者たちが談笑して午後を過ごしている。ベンチでは老夫婦がサンドウィッチを食べている。穏やかで良い風景だ。僕もベンチに座ってぼんやり過ごす。ふと見上げると、マロニエの樹には実がなっていた。

 マレ地区を歩く。ショーウインドウには斬新なデザインのシャツが見える。今日は遠足でもあるのか、ちびっこたちが列をなして歩くのとすれ違った。「カフェ・デ・ミュゼ」に入り、2年前に美味しかった記憶のある鴨のローストを注文する。一緒に赤ワインも頼んだ。パリでも有名なビストロで、店はほぼ満席だ。鴨のローストは相変わらずおいしかったけれど、やはり2年前のほうが楽しかったような気がする。

 スタバでアイスコーヒーを購入し、飲みつつ歩く。黒いジャケットに黒い帽子をかぶった男性とすれ違う。ユダヤ教徒だ。昔ながらの装いで過ごし続けるのはなぜだろう。反対に、僕が昔ながらの格好で過ごしていないのはなぜだろう。しばらく歩くとセーヌ川に出た。マリー橋を渡ってさらに歩くと、街並みが古風になってくる。クロヴィス通りにはアンリ4世高等学校があり、パンテオンがあり、ソルボンヌ大学がある。そう思うと、道ゆく人が皆賢そうに見えてくる。時間ギリギリにリュクサンブール公園に到着して、劇場に駆け込んだ。水曜と土曜と日曜の3日間、リュクサンブール・マリオネット劇場ではギニョル(人形劇)が上演されているのだ。

 6ユーロ支払って中に入ると、ちょうどギニョルが始まったところだ。今日の演目は「3匹の子豚」である。フランス語はわからないけれど、物語の節々で人形が子供達に何か問いかける。客席の子供達は一斉に「ウィー!」や「ノー!」と声があげる。楽しそうだ。観ていて印象的だったのは、オオカミの存在だ。オオカミとして忌避されているものは一体何なのだろうかと考えてしまう。物語のラストは、やはり時代とともにソフトな表現に変わってゆくのか、僕が知っているものとは違っていた。オオカミはレンガの家を訪れ、それを吹き飛ばそうとして一生懸命息を吐く。家はびくともしない。さらにオオカミは息を吹く。オオカミはついに酸欠になって倒れてしまう――そこで劇は終わってしまった。すごい物語だ。

 リュクサンブール公園は子供で一杯だ。サッカーに興じる子供たちもいれば、キックボードで駆け回る子供たちもいる。劇場の近くにはメリーゴーラウンドもあり、笑い声が響いている。メリーゴーラウンドの周りでは親が子供を見守っているが、そこにひとりの老人がやってきて椅子を置き、葉巻をふかし始めた。リュクサンブール公園では小さな子供ばかりでなく、老人の姿もよく見かける。チェスを指す老人たちがいて、周りに大勢ギャラリーのできている机もある。パリの公園を散策していてつくづく感じるのは、日本とは公園のありかたがまったく異なるということだ。公園には無数の椅子が用意されており、自由に動かして座れるようになっている。明治になって西洋から様々な文化を輸入したはずなのに、このフリーな感覚は輸入されなかった。それから、陽射しを楽しむという文化もここまで輸入されなかったように感じる。冬になると圧倒的に日が短くなるからこそ、サマータイムが導入されている季節にたっぷり陽射しを浴びておくのだろうけれど、それにしたって陽射しを楽しむということが生活に組み込まれている。今回の旅では光のことをよく考える。絵画に描かれる光、教会に射し込む光、光を浴びる人たち。

 公園を出て歩く。街角で立ち話をする若者たちをよく見かける。カフェに入るとそこそこお金がかかるから、こうして立ち話をしているのだろうか。10分ほど歩いてボン・マルシェにたどり着く。世界で最初の百貨店だけあって、落ち着いた雰囲気があり、僕が生まれた町の隣町にあった――今年の夏で閉店してしまった――ショッピングセンターのことを思い出す。入っているのは一流ブランドなのだけれども、どこか懐かしさがある。アジア人観光客の姿が目につく。アジア人観光客とよく遭遇する場所とそうでない場所がはっきり分かれているように感じる。地下は日本と同じように惣菜売り場になっていて、イチゴのいい香りがした。今日も結局服を買うことができず、百貨店をあとにする。

 百貨店のすぐ裏には教会がある。百貨店から教会へと続く道には大勢の物乞いを見かけた。これまでに歩いたエリアの中では一番密集している。教会の敷地に入ると、強烈な西日で視界が奪われる。目を細めて中に入ると、白壁の綺麗な内装をした教会があらわれる。19世紀前半に建てられたとあって新しい教会だ。この教会が有名になったのは、1830年、修道女カタリナ・ラブレが「人々のために心を込めてメダルを作りなさい」というお告げを受けたことに端を発する。当時のパリはコレラが蔓延していたのだが、お告げに従ってメダルを作り人々に配ったところ、コレラの流行が収束したのだという。そうしてこの教会は「奇跡のメダイユ教会」と呼ばれるようになり、現在もメダルが製造されている。ただし無料で配布されているわけではなく、有料だ。様々なサイズや色をしたメダルが販売されているが、カラフルなメダルはご利益がない気がするし、大き過ぎても小さ過ぎてもご利益がない気がして悩む。ほどよいサイズのメダルを選んで買い求めた。次から次へと観光客がやってきて、黒い服に頭巾をかぶった修道女がメダルを売りさばき続けていた。

 時刻はまもなく18時といったところだ。そろそろ酒を飲み始めよう。今日のおめあては、「カフェ・ド・フロール」の向かいにある「ブラッスリー・リップ」だ。が、店の前に行ってみると何やら張り紙がある。「フロール」のWi-Fiに接続できたので、グーグル翻訳で調べてみると、今日はパーティーで貸切のようだ。さて、どうしたものか。どこかまだ行けてない店はあるかと思いを巡らせて、メトロに乗ってヴァヴァン駅に出る。このあたりはモンパルナスだ。改札を出て地上に上がると、ロトンド、ドーム、クーポールとカフェが立ち並んでいて、その先に「ル・セレクト」が見えてくる。

 このことについては、私はさんざん考えたものだ。いくどとなく、ほとんどあらゆる角度から考え、身体障害とか不具とかいうものは、本人にとっては重大なことだが、冗談の材料にもなるのだ、といったようなことまで考えた。
「こっけいだよ」私は言った。「じっさいこっけいなことだ。それから恋をするということ、これまた、はなはだもってこっけいだよ」
「あんたは、そう思う?」彼女の目は、また深みをうしなった。
「そんな意味で、こっけいだというんじゃない。ある意味で楽しめる気持ちだというんだ」
「そんなことないわ」と彼女は言った。「世の中で一番ひどいことだと思うわ」
「会えるということは、おたがいにいいことだよ」
「ちがうわ。あたしはそう思わないわ」
「会いたくないのか?」
「会わずにはいられないわ」
 私たちは、見も知らぬ人のようにすわっていた。右手はモンスーリ公園だ。生簀に鱒を飼っている公園の見晴らしよいレストランはしまっていて暗かった。運転手が、こちらへ首をねじ向けた。
「どこへ行きたい?」と私はきいた。ブレットは外を向いた。
「そうね、セレクトへ行ってちょうだい」
「カフェ・セレクト」と私は運転手に言った。「モンパルナスのね」(ヘミングウェイ日はまた昇る』)

 テラス席に座って、まずはビールを注文した。飲み物だけかと尋ねられたので、食事もすると伝えてメニューを持ってきてもらう。サンジェルマンのカフェに比べると、のんびりしていて落ち着いた雰囲気だ。ビールと一緒にオリーブとプレッツェルも運ばれてきた。あとで赤ワインを飲みたいので、迷いに迷ってオニオングラタンスープを注文した。「食事をする」と言っておいてスープかよと思われただろうか。料理が運ばれてくるまで、ちびちびビールを飲んだ。街はまだ明るいけれど、少しずつ翳ってきた。

 「いや、ところが本気だよ」とマイクが言った。「おれは元来、あちこち小突きまわされるのは好きじゃないんだ。賭事だってしたことはない」
 マイクは酒を飲んだ。
 「猟だって、おれは好きになったことはない。あれは馬に蹴とばされる危険があるからね。ジェイク、気持ちはどうだ?」
 「大丈夫だ」
 「あなたは面白い方ね」とエドナがマイクに言った。「ほんとに破産したの?」
 「ものすごい破産者だぜ」とマイクが言った。「おれはだれにでも金を借りている。きみは借金はないのか?」(『陽はまた昇る』)

 このマイクという男は、よく酔っ払って捨て鉢な態度を取っている。そのマイクは物語の終盤、主人公のジェイクにこんなことを語る。

 「ジェイク」と彼は言った。「はいれよ、ジェイク」
 私はその部屋へはいって、腰をおろした。どこか一点に視線をさだめないと部屋がぐらぐら揺れる。
 「おい、ブレットがね、あの闘牛士のやつと駆け落ちしちまったぜ」
 「ばかな」
 「ほんとだよ。きみにさよならを言おうと思って捜していたぜ。七時の汽車で発ったんだ」
 「発ってしまったか?」
 「つまらねえことをしやがる」とマイクが言った。「そんなことしなきゃいいのに」
 「そうだな」
 「飲むか? ビールをとるから、ちょっと待ってくれ」
 「おれは酔っ払っているんだ」と私は言った。「部屋へ帰って寝るよ」
 「きみは盲目か? おれは盲目だったよ」

 この少しあとで、マイクがもう一文なしだということが判明する。それでもマイクは「おい、もう一杯のもう」と彼は口にする。通りを眺めながら、彼の捨て鉢な態度を思い出す。

 気前の良さは美徳である。ずっとそう考えて生きてきたように思う。江戸っ子でも何でもないのに、宵越しの銭は持たないような飲み方をすることもあるし、稼いだ分はすべて使い切ってしまう。皆で飲んでいても、たいてい酔っ払って一万円をおいて去ろうとする。最初のうちは受け取ってもらえなかったけれど、今はもう「受け取らないとどこかに隠すから」と半ば呆れた様子で受け取ってもらうようになった。それは、他の皆に比べて僕のほうが圧倒的に飲んでいるからということがあるのだけれど、あれは美徳でもなんでもなかったように思えてくる。

「なんとでも言え」と私は言った。「だれからそんなことをきいてきたんだ?」
「みんなからさ。きみはそれについて読んだことはないのか? 誰にも会わないのか? きみは自分が何者であるか知っているのか? きみは国籍喪失者さ。なぜきみはニューヨーク住まないんだ? そうすれば、こんなこともわかるはずなんだ。きみは、おれになにをさせたいのだ? 毎年こっちへきて、きみに話をきかせれば、それでいいのか?」
「もっとコーヒーをのめ」と私は言った。
「よし。コーヒーはきみのためにいいだろう。このなかにはカフェインがあるからね。カフェインよ、おれたちはここにいる。カフェインは男を女の馬にのせ、女を男の墓へ送りこむ。きみの悩みは何か、わかっているのか? きみは国籍喪失者だ。一番ひどいタイプだ。それを人から言われたことはないのか? なんぴとといえども、故郷を離れた人間で、印刷に値するものを書いた人間はいないのだ。新聞にすらもだ」
 彼はコーヒーをのんだ。
 「きみは国籍喪失者だ。きみは土との接触をうしなった。きみは、だめになった。いかさまなヨーロッパ風の考えかたが、きみを破産させたのだ。きみは死ぬまで飲むだろう。きみはセックスにとりつかれている。きみは働きもせず、きみの時間のすべてを饒舌に費やしている。きみは国籍喪失者だ、わかるか? きみはカフェにばかり入りびたっている」
「なんだか、すばらしい生活をしているようにきこえるね」と私は言った。「では、いつおれは働くんだ?」

 この「セックスにとりつかれている」という箇所はまったく当てはまらないけれど、それ以外に関してはまるで自分について語られているのではないかという気がする。それはともかく、僕がやたらとお金を遣ってしまうのは気前が良いというわけではなく、コミュニケーションを拒絶しているだけではないかという気がしてくる。別にお金を払わなくたって「橋本さんはしょうがないな」で済むはずなのに、それで済ませるためのやりとりを避けていただけだ。自分はありとあらゆることの接触を失ってしまって、こうしてやたらと旅をして、酒を飲んでいるだけではないのか。ぐるぐる考えているうちにスープが運ばれてきた。チーズがたっぷり入っていて、力強い味のするスープだった。

 日が暮れたところでモンマルトルに引き返し、「ラパン・アジール」へと向かった。入り口には談笑する人たちがたむろしており、大賑わいで入れないかもしれないなと思いながらも扉を開ける。先払いだというので28ユーロ(1ドリンク付)を支払い、中に入る。そこには家族連れが1組いるだけで、ピアノの音が静かに響いている。しばらくすると店員がやってきて、シェリー酒を配って歩く。1ドリンクというのはこれらしかった。こじんまりとした店の壁は古ぼけていて、歴史を感じさせる。そこには無数の絵がかかっている。

 絵画を眺めていると一団がなだれ込んできて、ピアノに合わせて歌い出す。最初はお客さんかと思っていたけれど、彼らは店員であるようだ。と時に手を叩き、時に机を叩き、朗々と歌い上げる。僕以外のお客さん――どうやらフランス人であるようだ――と掛け合いをしながら歌っている。お客さんも一緒になって歌っているのを見て、なんとも言えない気持ちになる。この居心地の悪さは何だろう。曲を聴けば聴くほど肩身が狭くなるのを感じる。僕はフランス語をまったく理解できず、彼らが歌っている曲も知らない(唯一の例外が「オー・シャンゼリゼ」だ)。


 歌というものの効用について考える。歌は時に人を団結させる。こうして誰もが知る歌を皆で熱唱するとき、“私”は“私”という個別の存在を離れ、“私たち”として団結する。そうして形成されたサロンがあればこそ、“共和国”という概念が単なる概念として存在するのではなく、実体を伴うものとして立ち現れてきたのだろう。しかし、僕は共和国の一員ではない。それは僕がフランス人ではないという単純な話ではなく、僕が“私”という規模を手放せないということだ。しかし、それだけが違和感の正体だろうか?

 シェリー酒を一口飲んだ。とても甘い酒だ。歌っている店員が時々こちらの様子を伺っているのがわかる。僕は最新の注意を払って過ごしていた。退屈そうに過ごしてしまうと、「このアジア人観光客をもっと楽しませなければ」とサービスされてしまう。だからといって、あまり楽しそうにしていると掛け合いをしかけられてしまう。このままぼんやり過ごしていられるようにと、ほどよく楽しそうな雰囲気を醸し出しながらシェリー酒を飲んだ。

 この「ラパン・アジール」は歴史のある酒場だ。今からおよそ100年前には多くの芸術家がモンマルトルに集っていた。そのひとり、作家のカルコの『巴里芸術家放浪記』にはこんな記述が登場する。

 毎日がのらりくらりとすぎる幸福な時代だった。そして、日暮れになると、わたしたちは、素晴らしいフレデのところに集った。

  貧乏もまたすさまじく

 わたしたちは心も軽く、明日の心配をするでもなく、なんの懸念ももたないで貧乏に堪えていた。われわれはめいめい、運命の導くがままに、その呼び声に応えていたからだった。仲間のなかには、アスラン、ジリウー、マリオ・ムルニエ、アルフレッド・ロンバール、ワルノ、ブレジル、ドルジュレス、マクォルラン、ガザニオン、マクス・ジャコブ、マノロ、プランセ、デュリオ、シャス・ラボルド、ユトリロ、クーテ、ピカソ、ヴァイヤン、オラン、ラ・ヴェシエール、マリー・ローランサンファルケ、ジュリアン・カレ、マルクース、ダラニェス、ピショ、ジャン・ペルラン、パンヌロ……などがいた。
 われわれは生きることしか考えていなかった。貧乏なものは、ほかの友だちのうちに居候をして、そのお礼は歌でかえした。互いに離れることはなかった。われわれはひとかたまりになっていた。

 ここで「素晴らしいフレデのところ」と記されているのが、この「ラパン・アジール」である。19世紀に風刺画家のアンドレ・ジルがウサギの絵を店の壁に描いたことをきっかけに、「フレデ」ことフレデリックの経営する酒場は「ラパン・アジール」と呼ばれるようになる。「ラパン・アジール」というのは、フランス語で「身軽なウサギ」を意味する。この店でまだ貧乏だった芸術家たちは「ひとかたまりになっていた」が、ひとり、またひとりと売れっ子になるにつれ、状況は変わってゆく。

 さて、マッコルランはすでに結婚していて、モンマルトルから出て行っていた。そして、仲間の大部分は、ギュス・ボファが《微笑》誌で厚遇してくれるので、丘から足が遠のいて、ブルヴァールや編集室に足繁く通うようになっていた。ロラン・ドルジュレスはタクシーでしか見受けなくなり、ワルノは『コメディア』に雇われ、シャス・ラボルドは、パリ中を走りまわって特殊な世界を漁り歩き、イラストをかくようになっていて、《兎》を見捨ててしまった。まさに終焉だった。私自身も、ある日、いよいよ働く決心をして、コランクール通りを棄て、カルチエ・ラタンに移った。こうしてしだいに、ものの勢いで、わたしたちはときたま長い間をおいてしか、フレデで顔を合わせることもなくなり、もっと若い連中が、われわれのあとを継いだ。

その当時、まだ貧しかった駆け出しの芸術家たちがこの酒場に集っていた。彼らはパリの芸術の系譜の中でも新しい波であったはずだ。その彼らがここで語らい、ここで歌っていた。それは、かつてユゴーの戯曲が旧来の価値観とのあいだで軋轢を生んだのと同様に、新しさを携えていたはずだ。彼らが酒を飲んで歌う姿は、伝統的な上品な歌唱とは異なり、もっと民衆的な歌であり、情熱的なものだったのであろう。そのテイストが、今僕の目の前で再現されている。店員たちはどこかがらっぱちで、時に机を叩きながら熱唱している。

 彼らの歌唱が熱を帯びれば帯びるほど、僕の心は冷ややかになる。かつてこの酒場に集った芸術家たちは、彼らの情熱のおもむくままに机を叩いていたのではないか。だが、今やその情熱は型となった。新しいものは、その新しさが革命的であれば革命的であるほど、おそるべき速度で古びてゆく。皆でシャンソンを熱唱しながら酒を飲むという空間は、かつては多くの客で賑わっていたのであろう、今はさほど求められてはいないのだ。それは閑散とした店の状況が物語っている。この店はもはや観光地であり、ここで賑やかに過ごしていた人たちは皆いなくなってしまったのだ。

 ああ、時とともに、いかに多くのまぼろしが、私の眼から消え去って行ったことか。モンマルトルを思い、再び見るたびに、はや、昔の面影はなく、おそらくは、これがありのままの姿なのであろうが、アメリカ人が一杯の高い建物、飲み屋が軒をつらね、私は夢を見ているような気持ちで、モンマルトルにいま自分がいるのだとはもはや思えない。けれども相変わらずフレデは戸口に立っているし、オテル・デュ・テルトルがあり、(略)数かぎりないパリの町のともしび、眺めているとその光を――昔と同じように――またたかせる風も少しも変わってはいない。場所も景色もなにひとつ変わってはいない。死んでしまっていて、ときたま蘇ったかと思うと、またすぐに消えてしまうわれわれのはたちの年と恋とをほかにして、なにひとつかわっていない。<<

 歌は今、パリのどこで生きているのだろう。僕は結局、パフォーマンスが終わる前に店を出た。急な坂をのぼっているとサクレ・クールの頭が見えた。どこからともなく歌が聴こえてくる。その歌声に導かれるように歩いて行くと、坂の頂上にあるカフェのテラス席でギターを弾きながら歌っている男性がいた。テラスはほぼ満席で、お客さんたちは時に語らい、時に歌に耳を傾けながら酒を飲んでいる。最初からここに来ればよかったと思いながら席につき、ビールを飲んでぼんやり過ごした。飲み終えるとモンマルトルを散策した。あちこちのカフェに、ゆったり夜を過ごす人たちがいる。

 歩いているとムーラン・ルージュの前に出た。ムーラン・ルージュとその隣のラ・ディーヴァがぎらぎらとしたネオンを輝かせている。商店でハイネケンの大瓶を購入し、それを飲みながらクリシー通りの遊歩道をぶらついた。露出の多い服を着た女性に何度か声をかけられたが、無視して歩く。男性からも何度か声をかけられたが、反応すれば絡まれるタイプの声だったのでこれも無視して歩いた。モンマルトルの丘の上には白人が多く、坂を下ると黒人とアジア料理店の看板が目立つ。僕もまたアジアからやってきた旅行客だ。そう思うとなぜか愉快な気持ちになってきたので、歌をうたいながら歩いた。そうすると、不思議と声をかけられることもなくなった。