旅日記2016(5日目)

 5時半に目が覚める。アラームが鳴るより先に起きてしまった。身支度をしてホテルをチェックアウトして、メトロでモンパルナス駅を目指す。ここもむき出しの建築だ。フランス語しか案内がなくて不安になるが、どうにかして高速鉄道のりばにたどり着く。スタンドでコーヒーを買って立ったまま飲んでいる人が大勢いる。日本で朝から喫茶店となると、新聞でも読みながらホッと一息という感じがするけれど、ここではどんなにせわしなくてもコーヒーを飲んでいる。クロワッサンとコーヒーを購入して電車に乗り込んだ。

 8時23分にモンパルナス駅を出発して、10分も走るとのどかな風景になる。どうやって収穫するのかと途方にくれるほど広大な麦畑や、煉瓦造りの古ぼけた小さな家。心が安らぐ。が、3日も観ていれば飽きるだろう。しかしそれは都会だって同じだ。広大な野原の中にぽつんと木でできた十字架が建てられて、簡素なキリストの像がかけられているのが見えた。楽しく風景を眺めていると、あっという間に電車は終点のボルドー駅に到着する。ずいぶん田舎にやってきたなと感じる。駅前にいくつか大きなレストランはあるけれど、雰囲気が地方都市だ。

 駅からほど近い場所にあるホテルに荷物を預けて、とりあえずお昼ごはんを食べることにする。ケバブ屋もたくさんあるが、駅前の大きなレストランには入り、ムール貝ボルドーワインを注文する。運ばれてきたのは山盛りのムール貝だ。まさか鍋で出てくるとは思わなかった。ムール貝は大きな貝だというイメージがあったけれど意外と小粒で、そして思っていたほどうまくなかった。気合いでひたすら食べ続け、15ユーロ支払ってレストランをあとにする。

 13時ちょうどにホテルに引き返すと、入口の前にワゴンが停まっていた。今日はボルドーのシャトー見学ツアーを申し込んでいたのだ。日本語の見学ツアーは割高なので、英語ツアーを選んだのだが、車内にはガイドの男性だけだ。見学希望はもう一組、イギリス人の夫婦がいるけれど、彼らは午前中から見学しており、現地で合流するのだという。高速道路に乗ると、ガイドさんが「渋滞だ」とため息をつく。今日は金曜日だから多くの会社が半ドンで、家路を急ぐ車で混雑しているのだそうだ。僕の目にはまったく渋滞しているようには見えなかったけれど、金曜日が半ドンだなんてうらやましい限りだ。

 高速道路の両脇にはブドウ畑が広がっている。左手にはこの品種のぶどうが植えられており、右手にはこの品種、川を越えるとこの品種が植えられているのだとガイドさんが教えてくれる。何でそんなふうに分けるのかと聞くと、土壌が違うからだという。長く根を張らせたほうがいい品種もあれば、あまり長く伸びないほうがいい品種もある。後者であれば土の層が浅く、少し掘れば岩にあたるようなエリアに植えるのだそうだ。そこまでこだわって作るものなのかと驚く。車で30分走ると、世界遺産にも登録されているサンテミリオンの町並みが見えてくる。

 あまり時間がないので、町並みを眺めていられるのは数分しかなかったけれど、こんなにも美しい景色があるのかとため息がもれる。こじんまりとした集落はブドウ畑に囲まれている。この地域にブドウが植えられたのは、ローマ帝国が支配していた2世紀のことだ。ワインづくりに適したこの地では、ワインの品質を守るための自治組織が形成され、王によって強大な権限を与えられていたのだという。このサンテミリオンで待っていたイギリス人夫婦と待ち合わせて、丘の頂上にあるシャトー・プレサックへと向かった。

 丘の上に建っていたのは、まるでお城のようなシャトーだ。ボルドー百年戦争の前線となった地域の一つで、イギリス領だったこの地域を1451年にフランス軍が陥落させ、一度はイングランドが奪還したものの、1453年にフランスが再び奪還することになる。それが契機となって百年戦争終結することとなり、終戦の調印式が執り行われることになった。その会場となった場所が、このシャトー・プレサックなのだという。シャトーの中を見学する前にブドウ畑を見学する。そこに植えられていたのはマルベックという品種で、一粒試食させてくれる。僕が「全然美味しくない」という顔がしていると、デザートのブドウは水分が多いけれど、そういったブドウではおいしいワインができないのだとガイドさんが説明してくれる。

 それにしても、本当に広大なブドウ畑だ。見渡せる景色のすべてがブドウ畑である。シャトー・プレサックが保有するブドウ畑だけでも40ヘクタールだという。“ハーヴェスト”(収穫)の季節は秋で、あと数日もすると収穫が始まるそうだ。こんな広大な畑をどうやって収穫するのか尋ねてみると、今では機械で収穫する農家も増えたけれど、このシャトー・プレサックではいまだに手摘みで収穫しているのだと教えてくれる。毎年同じスタッフを雇って、100人掛かりで収穫するそうだ。このあたりの土にはカルケリアスが多く含まれているのだと説明してくれたけれど、カルケリアスが何を意味するのかわからなかった。メモにその単語を書いてもらって、あとで翻訳にかけてみると「石灰質の」という単語が出てきた。

 いよいよシャトーの見学が始まる。色々説明してくれたけれど、専門的な単語になるとほとんど僕には理解できなかった。理解できたことといえば、品質をキープするために3年使った樽は捨てるということと、年間に1万本程度のワインが作られているということ、そして完成したワインの発送先は1位がフランス、2位がフランス以外のヨーロッパ、3位が米中だということだ。そこで名前が挙がる国はもう日本ではなく、中国なのだ。シャトーの見学を終えたところでテイスティングをさせてもらった。3種類のワインを試飲したが、どれも美味しいということしかわからず、イギリス人夫婦のコメントにうなずくことでやり過ごす。

 ワインの味よりも、やっぱりこの一面のブドウ畑に圧倒される。この風景を観ておきたくてツアーに申し込んだのだ。あちこちにシャトーがあり、それぞれ雰囲気が違っている。すでに収穫中のブドウ畑もある。そこは機械で収穫が行われていたのだが、ガイドさんは車を停めて、「機械で収穫すると枝まで切り取るから、収穫後の畑を見れば手摘みかどうかすぐにわかるのだ」と教えてくれた。シャトー・プレサックにも番犬がいたけれど、他のシャトーでもよく番犬を見かけた。どこも赤ワイン色をした犬なのは偶然だろうか。ぼろぼろのシャトーもあれば荘厳なシャトーもある。くねくねとした細い道は歴史を感じさせる。

 ここサンテミリオンでは、千年以上前からこうしてずっとぶどうを育ててワインを醸造してきたのだろう。今はワインづくりに最適な環境なのだろうけれど、気候が変わってしまうとこの風景はどうなってしまうのだろう。気候が変わっても、ワインづくりに適した環境は新たに生まれ、そこでワインを醸造する人々が出てくるのだろう。しかし、人間というのはそう合理的に考えられるわけでもなく、先祖代々守ってきたこの土地を離れると決断できる人はさほど多くはないはずだ。そんなに割り切って考えることができれば、世の中の紛争はほとんど片付くだろう。

 サンテミリオンを走っていると、畑の角に十字架が建てられているのが見えた。一つや二つではなく、ところどころにポツポツと建てられている。どうして畑に十字架があるのだろう。ガイドさんに「あの十字架は豊作を願って建てられているのか」と質問すると、「あれは中世の名残りで、昔は人が死ぬと十字架を建てていたのだ」と教えてくれる。ばかみたいな質問をしてしまったと反省しながら車窓の風景を眺めていると、「その人のことを忘れないためにね」とガイドさんはつけくわえた。

 17時にホテルまで送り届けてもらって、ボルドーの街を散策する。駅に着いたときは「ずいぶん田舎にやってきた」なんて思ってしまったけれど、少し歩けば歴史ある街並みがあらわれる。石造りだからか、街に重さがある。その点ではフィレンツェを思い出すけれど、フィレンツェに比べると圧倒的に多国籍で、黒人やアラブ系の人たちをよく見かける。このサンミッシェル地区は北アフリカやアラブの料理店、民族衣装の店が多く立ち並ぶエリアだ。ボルドーはかつて奴隷貿易で栄えた歴史のある街だが、それも関係しているのだろうか。

  印象的なのは、このエリアで排他的な空気を感じることはなかったことだ。昨日まで滞在していたパリでは、人種ごとに棲み分けられているという印象があったけれど、ボルドーはもっと溶け合っている。旅行客だからパッと見た印象でしか語ることはできないが、調和が取れている。いい街だと素直に思う。しかも今日は金曜日だから、もう酒を飲み始めている人たちが大勢いる。歴史ある教会の壁をゴールに見立ててサッカーに興じるこどもたちが見えた。アジア人観光客がカメラを提げて歩いていても、特に視線を向けられることもなく、愉快な気持ちになってくる。

 19時、めあてのレストラン「La Brasserie Bordelaise」に入店する。事前に調べておいた店の一つで、ガイドさんにおすすめの店を尋ねたときにも真っ先に名前の挙がった郷土料理の店だ。僕が口開けの客だったが、通りを眺めながら食事のできる席に案内してくれる。担当してくれたのは若い女性のウェイターで、ほどよく陽気で、とても親切に接客してくれる。おすすめのワインを尋ねたときも異様に真剣に選んでくれたし、ワインをグラスに注ぐときも異様に真剣だ。良い街だし、良い店だ。たくさん飲み食いをしよう――そう思うのと同時に、昨日「ブラッスリー・リップ」でチップをかなり多めに払ったことを後悔する。なめんなよという気持ちで多めにカネを使ってしまったけれど、あんな使い方はもうやめにしよう。

 そんなことを考えているうちに、最初に注文したアンドゥイエットが運ばれてくる。豚の内臓を使ったソーセージだ。とんこつラーメンのような香りがして、癖になる味だ。ボルドーはフランス南西部にある港町なのだから、そう考えるとここはフランスにおける博多だといってもいいのかもしれない。道ゆく人々を眺めながら食事をしていると、すぐにお腹が一杯になってくる。南仏の郷土料理であるカスレやブッフ・ブルギニョンも楽しむつもりでいたのに、すぐに満腹になって寂しくなる。ウェイターの女性に皿を下げてもらうと、「何かデザートは食べる?」と尋ねられたので、おすすめのタタン・パイ、それにコニャックを注文した。


 
コニャックを飲み干す頃にはすっかり上機嫌になっていた。こんなに満ち足りた気持ちになるのは滅多にないことだ。過剰に接客してくるということではなく、最低限で小気味好く、しっかり接客してくれる。寿司職人みたいだ。会計を済ませてもらったあとで、「滅多にこんなふうに思うことはないけれど、あなたの接客は完璧だった」とウェイターに伝え、多めにチップを支払って店を出た。

 すっかり日が暮れている。いつのまにか雨が降り始めていたらしく、石畳が黒く光っている。気分がいいので雨に降られながら歩いた。街はフライデーナイトを楽しむ人で溢れている。何かイベントが開催されているのか、広場ではDJが音楽を流しているのだが、集まった群衆がぎこちなく踊っていることに親しみをおぼえる。僕は瓶ビールを買って、広場の片隅に腰をおろして飲んだ。雨はもう上がっていた。夜になっても危険だと感じることはなかった。ホテルに向かって歩いていると、リードをつけていない犬がいた。近くに停まっているキャンピングカーのまわりをウロウロしていたから、きっとその旅人の飼い犬なのだろう。愉快な気持ちだったので、犬を撫でまわした。犬を撫でるのは人生で3度目のことだ。