朝6時に起きる。また缶ビールをお供えにしてしまった。酔っ払うと最後に1杯ビールが飲みたくなって開封するのだが、そこで力尽きて眠ってしまって、枕元にぬるくなったビールが備えられている。そんなことばかり繰り返している。だから自宅の冷蔵庫には200ミリの缶ビールが常備されている。シャワーを浴びて、荷物をまとめ、朝7時にホテルをチェックアウト。繁華街ということもあり、街にはゴミが散乱している。昨日で仕事納めの職場もきっと多く、忘年会で飲み散らかした人たちの残骸だろう。朝早くから店の窓やシャッターを拭いている人たちをよく見かけた。

 天文館から高速バスに乗車する。予約をしていなかった乗客は「満席です」と断られていた。ただ、予約しても乗車しなかったお客さんがいたのか、僕の隣はずっと空席だった。移動しているあいだはずっと日記を書いていた。10時40分、バスは熊本に到着する。まずは荷物を預けようとホテルに歩いていると、懐かしい壁画に再会する。2014年、「まえのひ」ツアーで熊本を訪れたときに遭遇した壁画があった。橋桁に描かれたその絵はとても印象的なものだったのだが、酔っ払っていたのでそれがどこにあるのかおぼえておらず、熊本を再訪するたびに「どこだったっけ」と気にしていたのだが一度も再会できていなかった。それは辛島町の近く、博愛会病院の前にいた。橋桁にはいくつも絵が描かれていて、それらは熊本市立藤園中学校による「私たちの美しいふるさと 私たちの明るい未来」というタイトルだと初めて知る。

 昼は来年の旅に向けた下調べをしたり、日記を書いたりした。日記というのは、今からちょうど1年前の今日の日記である。いつかこの日の日記を書こうと詳細なメモを残しておきながら、まとめられないまま1年が経ってしまった。途中で、熊本を訪れるたびに足を運ぶ洋服屋さん「Re;li」に行ってみたのだが、年内の営業は昨日までだったらしく、伺えず残念。18時、大学時代の友人夫婦と待ち合わせ、地元の人で賑わう酒場で乾杯。芋焼酎をしこたま飲んだ。友人が「カラオケに行こう」と言うので、ずいぶん久しぶりでカラオケ店に入る。時期が時期だけにぼったくりのような値段が表示されているが、友人が交渉して1000円引きになる。友人夫婦が一緒に歌う姿を眺めながら、学生時代はよくこうしてカラオケに行ったことを思い出す。旅をしていると、こうして誰かと一緒に飲んだり話したりする機会が生まれるのが何より嬉しく感じる。そういえば、1年前の今日も旅に出て、言葉を交わしていた。


2016年12月29日

 9時過ぎに大阪を出て、西に移動する。姫路、相生、岡山と乗り換えて、12時過ぎに倉敷にたどり着く。まずは例によって「ふるいち」でぶっかけうどんを食す。昼食を終えたらすぐにお見舞いに出かけるつもりでいたけれど、「そういえばお見舞いってどうすればいいんだっけ?」と不安になり、病院のホームページを確認すると、面会時間は制限されていることを知る。入院したことはあるけれど、誰かを見舞ったことがないので知らなかった。面会は15時からだったので、街を散策することにする。

 阿智神社に立ち寄る。前にも一度境内を散策したことがあるけれど、あの時はなぜ神社に足を踏み入れようと思ったのか、思い出すことができない。前回はただ境内を散策しただけだったが、今回はちゃんとお賽銭を入れて参拝する。「こんなときだけ神頼みですみません、あそこの病院に入院しているKという者がおります、その病気を治してくれとは言いませんので、穏やかな年末年始を過ごせるように、よろしくお願いします」と念じる。登ってきたのとは違う階段を下り、「蟲文庫」へ。中上健次の本を買って、ビールをいただく。いつも遊びにくるたびに「コーヒーかビールだと、どっちがいいですか」と言ってくださり、いつも甘えてしまう。

 ぽつぽつ話していると、そうだ、お見舞いに行くなら渡してもらいたいものがあるんですとむしさんが言う。つい昨日、Kさんが「ぼんやり亀を眺めていたい」とつぶやいていたので、『亀のひみつ』を包み紙に入れて差し出される。「今日はKさんのお見舞いに行こう」と思って倉敷までやってきたのだが、特に連絡はしていなかった。本人もすでに書いているように、「この時間に行こうと思うんですけど、都合はいかがですか」と連絡をするというのは、酒場を予約するわけでもないのだからよくないだろうという思いもある。それに、すでにそのような連絡が山のように本人に届いていて、それにいちいち返信するだけでも体力が削られてしまうだろう。

 Kさんとは何度か倉敷でお茶をしたことがある。だが、そのいずれも事前に約束をしていたわけではなかった。僕は実家のある広島まで帰省するとき、行きか帰りにたいてい倉敷に立ち寄る。2010年に初めて「蟲文庫」を訪れてからというもの、せっかくだから再訪しようと途中下車するようになったのだ。その翌年から演劇を観るようになるのだが、そのきっかけとなる飲み会にもKさんは参加していて、そこで知り合った。それからというもの、僕が倉敷を訪れたときにKさんも倉敷にいて時間がある場合、「ちょっとお茶でも」と連絡するようになった。連絡するようになったというか、僕が倉敷の写真をツイッターなんかにのせているのを見て、「あんた、倉敷にきとるんなら連絡ぐらいしんさいね」とメッセージが届き、「じゃあお茶でも」とお茶をしたりしていたのである。

 そんなふうに過ごしてきたのに、お見舞いのときだけ連絡するのもどうかと思って、連絡せずにやってきた。しかし、むしさんから本を預かったおかげで、病院を訪れる口実ができた――そんなふうに思いながら、病院を訪れる。一歩踏み入れて、その巨大さに驚く。それに、病院というのは暗かったり、重苦しかったりという印象しかなかったけれど、明るい日差しが差し込んでいて、大学のキャンパスのようだ。しかも、館内図を見ると図書室や理容室もある。エレベーターでKさんの病室があるフロアまで上がり、受付で名前を書いて、病室に向かう。外からそっと呼びかけてみるが応答はなく、おそるおそるドアを開けてみるとベッドにその姿はなかった。

 もしかしたら治療を受けているタイミングにやってきてしまったのだろうか。やはり連絡しておくべきだっただろうかと病室を出ると、「ああ、もふさん」という声がする。そちらの方向に目を向けると、Kさんが車椅子でこちらにやってくるところだ。僕が「蟲文庫」の紙袋を手にしているのを見て、「みほさんとこに行ってきたんですか」とKさん。そうなんです、もしかしたら読むには重いかもしれないですけどって蟲さんは言ってましたけど。「いや、大丈夫です。ありがとうございます。もっと物理的にも内容的にも重い本を持ってきた人もいましたから」とKさんは笑う。せっかくだから談話室に行きましょうか、上の階にあって結構いいんですよ。そう誘われるままに、エレベーターで談話室に向かう。

「ちょっと思ってることを整理がてら話しますけど、基本的に無力なんですよ」。二人きりのエレベーターの中でKさんはそう切り出した。「これはまたブログに書こうと思ってるんですけど、入院した相手への処し方というものを、我々はわかってないんです。自分が入院して始めて気づきました。これは震災のときの問題とも絡むんですけど、病がある程度重いと、病院に任せるしかないんです。でも、それでも何かやりたいという気持ちは皆にある。『そういえばあの人は絵を描くのが好きだった』とか、『本が好きだった』とか。それで送ってきてくれる人もいるんですけど、この状態で難しい本なんか読めないわけですよ。俺はもう、Kindleで『北斗の拳』読んでるんだから。あと、スケッチブックにしたって、俺にも好みがあるってことを察してくれっていう。我々はおろかにも、被災地に古くなった子供服を送りつける、あれを反復してしまってるわけです」

 相槌を打ちながら、あまりにもKさんらしい話しぶりで笑ってしまう。1ヶ月前に会ったときより声が少し細くなっているようにも感じられるけれど、それが病ということなのだろう。先月は、元気だった頃に比べてがくんと弱っていた姿に驚いてしまったけれど、今日は体調が良さそうでほっとする。談話室は大きなガラス張りで、晴れ渡った空が見渡せる。今日東京を出たんですかと尋ねられたので、いや、昨日は大阪に泊まって、フェスティバルホールで落語を聴いてきたんですと答える。と、そう答えて思い出したことがあった。少し前に、彼は「途中でうっかり口にした『落語的なるものへの嫌悪』偽らざる私の正直な心」とつぶやいていた。あれは一体どういう意味だったのだろう?

「 あくまで『落語的なるもの』と言ったのは、落語そのものではないんです。アカデミックな小理屈をこねるのに、いざとなったら庶民に逃げ込んで、現代美術をけなす人がいるわけです。こんなもの誰が楽しんだって。そう言い方をするってことは、庶民の中に現代美術を楽しむ人がいないと思い込んでいる。だから、庶民ってことを言いながら、庶民のことを全然見てないんですよ。庶民の中に現代美術が好きなやつがいないとは限らない、むしろそれなりに発達したこの国でいないなんて言えるわけがない。そういうことです。それはでも、左翼的な思考における弱者っていう言葉の使い方とも繋がってると思います」

 ところで、昨日フェスティバルホールでかけられていた演目のひとつは「芝浜」だった。「あと三日ですよ、あと三日の辛抱ですからね、あと三日辛抱すればあとはチャラですから」。立川談春はまくらでそう繰り返していた。僕は12月が大好きだ。せわしない街の様子を見ているだけでたまらない。クリスマスも好きだし、クリスマスが終わったあとの一週間も好きだ。それはやはり、年が終わりゆくことに何か感じるのだろう。ああ、今年はあれをやると決めていたのに。ああ、今年のうちにあれをやっておきたいのに。そういった人の気持ちとはまったく無関係に、ぶつんと年が終わる。そのことにも何か感じ入ってしまうし、新しい年がくればすべてチャラになったような気持ちになる。結局のところ何一つチャラになってなどいないのに、そんな発想を毎年繰り返しているというのは何だろう。

 僕がそんな話をぽつぽつしていると、Kさんはときどきむせるように笑い、「ほんとにチャラにしてくれるんだったら歓迎しますけどね」と言った。何もチャラにならないんだよなあ、と。
 
  「落語っていうのは庶民の知恵でもあって、だから存在の否定は絶対にしないですよね。そういう価値観は生きていく上ですごい大事だと思うんです。ただ、心のどこかで、そんな知恵が吹き飛ぶようなすごいことが――良いことにせよ悪いことにせよすごいことが起こるんじゃないかと思う。これがギリシャ悲劇的な価値観ですよね。生活の知恵として、『それでも生きていくんだ』みたいな地道な価値観が好まれるけど、でもね、心のどこかで、この世界はもっと無慈悲な非対称性に満ちているのではないかという気持ちもあるわけです」

 昨日聴いた落語は、もう一つ、「五貫裁き」もあった。八五郎と徳力屋の諍いに、大岡越前守が名裁きを下す話だ。大岡越前守は諍いごとの事情を察し、八五郎と徳力屋のこともきちんと考えて裁きを下している。そのなりゆきを聴いていると、よかったなあと思う。それと同時に、ふと思う。現実の世界はこのようにはいかないのだよなあと。このようにあってくれたらなあという気持ちが、この噺を聴いて「よかったなあ」と感じる感情の中に含まれている。その「よかったねえ」という気持ちは現実に破れ続ける。Kさんの言うように、現実は圧倒的な非対称性の中に置かれていて、「こうあればいいのになあ」という気持ちは敗北し続けてしまう――そんなことを僕が話すと、Kさんはとても嬉しそうに笑った。「まあでも、それぐらいの感じがいいのかもしれないですね。感動しつつも、負けるって感覚はいちおうキープしておくぐらいの感じが」。

 ふと話が途切れたところで、Kさんが切り出す。「もふさんは定点観測というか、同じものを執着して観に行くじゃないですか。あれはなんでなんですか?」。言われてみればなぜだろう。たぶん、一回観ても「理解できた」とは思えないことが大きいのだろう。それに、これは文章を書く人間としては致命的なことであるのかもしれないけれど、自分が関心を持ち続けられるものというのはせいぜい両手で数えるぐらいしかないこともある。「じゃあ、たとえば演劇を観るときだと、頭の中で仮想的に構築しているのは、作者の志向なのか、それとも作品内の図式なのか」。ううん、どっちでしょうね。あとになって作者の志向を考えることはあるけど、繰り返し観に行くのは作者の志向を知るためではないでしょうね。「そっかそっか、作者の志向だと一元論で回収されるのか」。Kさんは何か腑に落ちた様子でしばらくうなずいていた。

 小一時間経ったところで病室に戻ることにした。Kさんは倉敷が大好きで、年末にはいつも帰省している印象があるけれど、東京で年を越したことはあるのだろうか。「ほとんど帰りますけど、何度かありますよ。よくあるパターンが麻雀ですね。30日ぐらいから集まって打つんですけど、頭がどろどろになるんです。地獄のような年越しを過去に二度やりました」。今年の大晦日には実家に帰り、年末年始を過ごす予定だと言う。病室まで戻ると、「もふさん、広島のどこでしたっけ?」と尋ねられた。東広島ってところですと答えると、今出てる建築雑誌に安芸津の家ってのが出てたんですといって、その雑誌を取り出し、最近の建築の傾向について話してくれた。

 帰りも倉敷に寄り道していこうと思っていて、そのときはあにーさんと一緒に散策するつもりなんで、もし体調がそんなに悪くないようならまた遊びに来ます。そう伝えて病室を出る。Kさんは「お気をつけて」と見送ってくれた。病院から駅まで歩いていると、郵便局の前が少し渋滞していた。郵便局員が道路に立っていて、クルマで年賀状を出しにやってきた人から、ドライブスルーのように受け取っているのだった。年の瀬だなあ。Kさんが正月をおだやかに過ごせるといいなと思いながら、駅で缶ビールを買って、山陽本線に揺られて実家に帰った。