2月17日

 5時過ぎに目を覚ます。昨晩も細切れの睡眠ではあったけど、入院してからだとよく眠れたほうだ。昨晩は初めて痛み止めを飲まずに寝た。痛みがなくなったわけではないが、眠れないほどでもなかった。そしておそらく、手術されたことの痛みよりも、切り取られた部分を回復しようと細胞だか筋肉だかが動き始めていることによる痛みが出始めているのだろう、痛みの質が変わってきた感じがする。ちょっとぴりぴりとした痛み。5時に起きても、まだ起き出してパソコンを広げるのも迷惑になるだろうから、ケータイアプリで麻雀をする。去年から執筆しているS・Iのドキュメントで「正月には家族で麻雀をした」という話が出てきたところに、『アメトーーク!!』で麻雀のMリーグ芸人があり、なんとなくアプリをダウンロードして時々遊んでいる。頭の働かせ方はドキュメントを書くときに近い気がする。目の前に流れてきた牌を見て、「ああ、こことこことここを、こうやって繋げば一本になるのでは」と考える。最初のうちは役も何もわかっていなかったけど、コンピュータと対戦しているうちに少しわかってきて、最近はたまにおずおずとオンライン対局をやっている。今日も朝5時からオンライン対局をした。東一局で四暗刻をテンパイしたもののあがれず、その後は運に見放されたような対局だった。

 6時が近づいてきたところで静かにベッドから体を起こし、トイレで用を足し、ナプキンを取り替える。手術後はただナプキンを取り替えるだけだったけれど、入浴が許可された今となっては、肌に付着した浸出液を洗って清潔に保つ必要があるようで(これも口頭で説明はされていないけれど、放置すると皮膚炎になると、しおりに書かれてある)、シャワートイレでやさしく洗い、ナプキンを付け替える。僕がトイレから出ると、少し経って同室さんもトイレに立ったので、パソコンを広げて静かに作業を始める。

 7時を過ぎると、掃除機の音が聴こえ出す。いつもは朝食のあとに掃除だから、今日はずいぶん早いけれど、入院患者を受け入れるためなのだろう。気になるのは、どの病室に入ってくるのか。人間というのは――と普遍化するのはおかしいか、自分の感覚は保守的だなと思うのだけど、心のどこかで「別の病室だといいな」と思ってしまっている。今の同室さんとは、別に打ち解けているというわけでもないけれど、こういう感じの人だというのがわかっている。「そこまで神経質な人でもなさそうだ」とか、「消灯時間はきちんと守る人なのだな」とか。もし新しい入院患者がいて、ものすごく神経質だったり、逆にまったくまわりに気を遣わないタイプだったりすると、くたびれてしまう。そんなことを考えていると、数日前にタイムラインに流れてきた田舎暮らしのルール(福井県池田町の「池田暮らしの七か条」)がふいに頭をよぎる。

 掃除の感じで、どこの病室に入院してくるかがわかるんじゃないかと、掃除機の音がする4階に降りてみる。引っ越してきた隣人を見張る住民みたいな動きである(「みたいな」ではなく、「そのもの」か)。ついでに血圧を測る。上が128、下が85。部屋に戻ると、同室さんが起き出していて、少しだけ立ち話をする。「痛み、どうですか?」と尋ねられ、「ぼちぼちあるんですけど、昨日あたりから痛みのタイプが変わってきた気がします」と答える。「ですよね」と同室さんも言う。「お互いの痛みはわからないですけど、同じような痛みを感じてるんですかね」と。その言葉が妙に頭に残る。

 7時58分にアナウンスが流れ、食堂へ。今日も同じ朝食。逆に初日のベーコンは何だったのかとも思うが、ベーコンの在庫がある時期と、魚肉ソーセージの在庫がある時期でローテーションになっているのだろうか。今朝は僕のお膳が窓向きの席に置かれていたので、景色を眺めながら食べる。窓の向こう、明治通りを挟んだ向かい側には、12階建てのマンションがある。1階がセブンイレブンになっているマンションだ。廊下があって、玄関が見える。ぼんやり眺めていると、手すりというか柵のすぐ上のところを、左から右へ、黄色い何かが動いていく。しばらくすると、別の階の玄関が開き、黄色い帽子をかぶったこどもが出かけていく。さっきの黄色は低学年だったのだろう。朝の光景を眺めながら、バターロールを平らげる。

 部屋に戻り、Y.Iさんのドキュメントを書き進めていると、ナースの方が熱を測りにくる。そのついでに、気になっていたことを尋ねてみる。入院のしおりには、ナプキンを1日に3〜4回取り替えて、そのときに付着した分泌物をシャワートイレで洗い流すようにと書かれている(放置すると炎症を起こす、と)。ただ、昨日からようやく入浴できるようになったばかりなのに、一日に3〜4回シャワートイレで分泌液を流し、それとは別に便通があればシャワートイレで綺麗に洗い流す――といった具合に、何度も洗って大丈夫なのだろうか、という疑問だ。ナースの方は、ウォシュレット症候群というのがあって、あまり流しすぎると必要な油分まで落ちてしまって肛門が保護されなくなるので、ちゃんとナプキンを変えていれば、毎回洗い流す必要はないのだと教えてくれる。

 9時半を過ぎると、入院患者がやってくる。ひとりは大部屋で、あとのふたりは個室である。リッチだ。大部屋であれば、入院・手術代で7万円だ。でも、個室を選ぶと、それにプラスして14万近くかかる。今日までのところ、個室に入院しているのはポリープの手術のために1日か2日入院していく患者が多かった。その日数なら、個室代は3万で済むから、まだわからないでもない。でも、痔の手術となれば、合計で20万を超えてしまう。そんなにお金があるなら、僕ならもっと別のことに使いたくなりそうだ(この話については、あとで知人から「入院費用も保険で支払われるからやろ」と言われて納得が行った。保険というものと無縁に生きているせいで、そんな発想が浮かばなかった)。

 ここまでのわずか数日間の印象に過ぎないが、個室に対する印象はあまりよくない。夕方に検診のアナウンスが流れると、入院患者は皆、1階に降りていく。1階では名前を呼ばれるわけでもなく、「入院中の方」と呼ばれるだけだ。番号カードなんかもないし、外来の患者もたくさんいるから、一列に並ぶわけでもなく、なんとなく順番に診察室に入っていく。二人部屋か大部屋に入院している人は、大抵の場合、「自分はこの人たちより後にやってきた」というのをおぼえていて、譲り合って入っていく。ただ、個室に入院している患者のほぼ全員が、「俺が先だろう」という感じで我先に入っていく。単に高齢の男性が多いと言うだけの話かもしれないけれど。

 部屋に戻ると、ちょうど同室さんも自販機で缶コーヒーを買って戻ってきたところだ。「ちょっと、痛みが強くなってきました」と、顔をしかめている。大丈夫ですか、痛み止め飲んだ方がいいですよと言って、自分のベッドに戻る。カーテンの向こうから、いたたたたた、と小さな声が聴こえてくる。きっつ、という声も。僕は一日一回しか排便していないけれど、同室さんは日に何度かしていると言っていた。どこかの病院のサイトには、排便が始まって数日後に痛みを感じる患者も多いと書かれていた。これから排便を重ねるとそんなに痛くなるのかと、戦々恐々とする。ただ、痛み止めが効いたのか、小一時間が経った頃には寝息が聴こえてきたのでほっとした。

 便意がやってくるのを待って、6階のトイレで用を足し、シャワーを浴びる。コインランドリーをまわし、さっぱりした気持ちで部屋に戻ったところで、薬が目に留まる。しまった。朝ごはんを食べたあとに薬を飲んでいなかった。治癒が遅れるのではと不安になり、ナースに相談に行く。「もう手術して日が経ってるから、大丈夫だと思うけど」と前置きした上で、次のお昼ごはんのあとに朝のぶんを飲んで、夕食のときにお昼のぶんを飲んで、ほんとは食後がいいんだけど、寝る前に晩のぶんを飲んだらいいんじゃないかと提案される。

 自分の病室がある5階に戻ると、今日入院してきたおばあさんが廊下でお茶を飲んでいた。つい2時間前に、「水分をとるのは11時まで」と案内されているはずだが、もう12時近い。大丈夫だろうかとこちらが不安になる。11時58分になると、食事の用意ができたので、入院中の患者は食堂へ、とアナウンスが流れる。朝でひとり退院したので、同じ日に手術を受けた3人だけが残った。今日の昼食は麺ではなく、牛肉の――なんと呼べばよいのだろう。もぐもぐ咀嚼していると、さきほどのおばあさんが手術着姿のまま顔をのぞかせる。えっ、と驚いていると、あたりを見渡し、「これ、どこかボタンを押して食事を出してもらうんですか」とつぶやく。同室さんが「今日入院された方ですよね? 入院された日は、お昼も夜も食事はなくて、明日からだと思いますよ」と、柔らかい物腰で教えている。

 外から燦々と陽射しが差し込んでくる。暖かくて気持ちのいい午後だね、という言葉が頭をよぎる。入院中はずっと天気がよくて、気が晴れる。天気がいい時期でよかったし、寒い時期でよかった。そのおかげで、シャワーを浴びれない期間も、想像したほどには苦しくなかった。そして、暖房が強めにきいているので、寒いと感じる時間は少ない(ベッドの頭の側にすりガラスがあるので、頭だけ少し冷えるけど)。食堂を出て、洗濯物を乾燥機にかけ、部屋に戻る。入院に向けてザッと作ったプレイリストを聴きながら原稿を書く。途中で「悲しみの果て」が流れ、最後の歌詞に急に胸を打たれる。思わずリピートして、原稿を書く手をとめて、曲に聴き入る。13時49分になると、がらがらとストレッチャーの音が聴こえてくる。ひとりめの手術が終わったのだろう。

 Y.Fさんの原稿を2本書き上げて、送信する。ちょうど夕方の診察の時刻となり、エレベーターで1階に下りる。同室さんは「リハビリのために」と、5階から階段で降りてきていた。診察に呼ばれるのを待っているあいだ、「入院は月曜までですか?」と同室さんに尋ねられ、きょとんとする。僕は自動的に7泊8日で設定されたし、入院のしおりもその日程がベースになっている。だから、質問の意味をとらえられなかったのだが、「僕は日曜で退院なんです」と同室さんは言う。月曜から日曜まで、まるっと一週間ならギリギリ休みが取れるけど、次の週までまたぐのは無理だったそうで、先生に相談して日曜退院にしてもらったのだそうだ。そんなことも可能だったのかと思う。ただ、意外と「うらやましい」とは思わなかった。まだ長時間座ることは避けたほうがよいと言われているから、一日の大半は寝て過ごすほかない。ベッドテーブルがないので、原稿を書くときは腹の上に布団をのせ、そこにパソコンを置いて作業するしかなくて、やりづらさはある。ただ、可動式ベッドだから、姿勢を変えながら作業できるから、おしりへの負担を調節できる(自宅だとソファに横になるしかないから、同じ姿勢で作業し続けることになる)。日曜に退院と聞いて思い浮かんだのは、部屋の今後のことだった。

 今日の朝にひとり退院して、今日から3人だけになると知ったとき、「これできっと、退院まで新しい患者が同じ部屋に入院してくることはないだろうな」と思っていた。この病院に大部屋(3人部屋)は2つだけだ。僕と同室さんが、そのひとつに入院している。今朝退院した人は、もうひとつの大部屋に入院していた。その人が退院すると、もうひとつの大部屋は空になる。現状の部屋の配置を見る限り、「なるべくひとつの部屋に詰めていく」という方針ではなく、「なるべく分散させる」という方針のようだから、これから大部屋に入院する患者がいても、もうひとつの大部屋になるだろうなと予想していた。ただ、その部屋に女性が入院したことで、その部屋はもう女性部屋になっただろうし、新規で大部屋を希望する患者がいれば、この部屋に入院することになるのだろう。

 「入院患者の方」と呼ばれ、診察を受ける。昨日までは目視(?)だけだったのが、今日は肛門の周囲、ちょっと離れたあたりをぽつぽつ押され、痛みがあるか確認される。痛み止めは早朝に飲んだきりだが、ピッと微弱な電波ぐらいの感覚が走るだけで、痛みはなかった。「いいですね、順調ですよ」と言われ、嬉しくなる。気になっていたシャワートイレのこと、医師にも尋ねておく。しおりにはナプキンを交換するごとにシャワートイレできれいに洗うようにと書かれてあるけど、洗い過ぎもよくないのか、と。たしかに長時間あてるとよくないけど、汚れが残ったままだと傷口に影響があるので、短い時間洗うとよいとのことだった。診察が終わると、ひとつ下のフロアに立ち寄り、病室の空き状況を眺める。ただ、ひとつ下のフロアは二人部屋だけだから、このフロアに空きがあろうがなかろうが、明日以降に大部屋を希望する患者が入院すれば、同じ病室に入ることになるのだけれども。

 16時59分にアナウンスが流れ、食堂へ。話し合ったわけでもないが、今日は全員カツ丼である。同室さんが、「僕らは昨日麺を選んで失敗しちゃったから、その反省を生かしてどんぶりにしました」と、もうひとりの患者さんに話を振っている。「手術の前に、どんな症状で、どんな手術をするのか、説明ってありました・・?」と、同室さんが僕ともうひとりの患者に尋ねる。ああ、特に説明がなかったのは僕だけじゃなかったのかと思う。初診で痔瘻と判断されたとき、時に関する小さな冊子を渡され、あなたは痔瘻で、手術しないと根治しないから、手術をしましょうとは言われたものの、家に帰ってパンフレットを見ると、痔瘻にも大きく分けて4種の症状があり、それに応じて3種類の手術方法がある、と書かれていた。はたして自分はどのタイプなのかもわからないまま手術を受けていた。

 もうひとりの患者さんは、いぼ痔と痔瘻の両方があり、10日間入院するらしかった。「おふたりはどうやって気づいたんですか」と、同室さんが尋ねる。同室さんは長年患っていたいぼ痔を、いよいよ手術しようと決めて入院したようで、痔瘻はどうやって自覚に至るのか不思議に思っているようだった。もうひとりの患者さんは、12月からおしりにしこりがあり、違和感をおぼえていたところ、正月に痛みが激しくなって膿が出始めて、1月4日には来院し、手術が決まったそうだ。同室さんも、最初からこの病院を訪れたのだという。「調べてみると、『日帰りで手術できます』ってところと、ここみたいに『一週間入院です』ってとこしか出てこなくて。なんでそんなに開きがあるんだって思いながらも、何かあったら大変だから、こっちにしたんです。でも、手術を受けて思いましたけど、これは日帰りで手術受けても次の日には診察してもらいにきてたきがします」と。そして、当然ながら皆、Googleマップで「対応が冷たい」と酷評されている口コミも見た上で来院し、「ああ、こういう感じか」と思っていたことが判明し、おかしかった。ただ同じ日に痔の手術を受けたというだけで、痔のタイプもそれぞれ違っているのに、こうして3人きりでカツ丼を食べていると、少し気が和らぐ。