夕方、池袋芸術劇場シアターイーストにて、『タイムライン』観劇。作・演出=藤田貴大、音楽=大友良英、振付=酒井幸菜、写真・映像=石川直樹、衣装=suzuki takayukiによる、ふくしまの中高生が出演するミュージカル。今年で3年目で、最後となる上演だが、円熟と呼ぶしかない完成度がそこにある。それは冒頭ですぐに感じた。この作品は、中高生たちの1日の“タイムライン”を舞台化したものだが、まずは朝目覚めるところから始まる。自宅で目を覚まし、誰かと会話を交わし、学校に出かける。去年までの公演では、朝のシーンを観ていると、少し息苦しく感じる瞬間もあった。中高生たちが健やかに挨拶を交わしている場面を目のあたりにしていると、「自分は学校という場所にここまで居場所を見いだせていなかった」ということを感じてしまっていた。でも、今年はもっと風通しがよかった。たとえば、その登校のシーンでも、誰とも言葉を交わさず歩くだけの女の子がいたりする。

 これは最初の年から感じていることだが、冒頭の場面、中高生たちが横たわって眠っているシーンを観ていると、そこに仄暗さを感じる。そこに横たわるのは生命力に溢れた中高生であるはずなのに、いつか終わってしまう時間というものを強く感じるのはなぜだろう。その仄暗さというのは、今年の公演でいちばん強く感じさせられた。それと同じくらい、舞台に立つ中高生が何よりチャーミングに見えた。何より、そのひとりひとりの顔がはっきりと見えたのは今年の公演が初めてだった。音楽も、演出も、ひとりひとりのチャーミングさをより際立たせていたように感じる。

 そのチャーミングと無関係ではないと思うのだけれども、今年の『タイムライン』は出口がたくさん用意されていた。成人してしまえば一日の“タイムライン”は人それぞれになるけれど、中高生の頃は均一の“タイムライン”を生きることを強いられる。今年の『タイムライン』も、学校の時間を軸に構成されており、その意味ではある程度は均一の時間を生きているのだけれども、その外側を強く感じさせられる。教室の隅で誰かが話しているところから、その噂話を想像する時間。あるいは、誰もが寝静まった夜のシーン。そこで高校生たちがラップをするシーンはとても素晴らしかった。そこで歩いている河川敷には誰かの落書きが、つまり誰かがそこにいたのだという気配が漂っている。その気配は、学校における“タイムライン”の外側に存在しているものだ。

 この『タイムライン』という作品は、学校という時間を軸に中高生の日常を描きながらも、その外側にも世界があるということを描いている。舞台上にいるのはふくしまの中高生だけで、素朴に見えればただ愛おしい日常が扱われてはいる。でも、今年の編集を観ていると、彼らの日常のすぐ外側に、大人たちの騒々しい世界が横たわっていることが感じられる。この中高生だけの世界は、劇場という空間に守られているけれど、ここには外側がある。それは、舞台に立っている中高生たちも感じているだろう。学校を卒業して社会に出れば、そこには楽しいことだけが待ち構えているわけではないだろう。でも、彼女たちは、そこにも外側があるということを知っている。自分たちの時間にも外側があるということを、こうやって自分たちで演じた経験がある。その時間がある限り、彼女たちはどうやっても生きていけるだろう。

 何より印象的だったのは、カーテンコール直後の風景だ。舞台に立っていた彼女たちと、演奏を担当していた中高生たちがハケると、舞台上には一脚だけ、ポツンと椅子が残されていた。その椅子にスポットライトが当てられている。その姿に、しばらく客席から動けなくなってしまった。その椅子を眺めていると、そこにいなかった子を――そこにいたかもしれないのに、実際にはそこにいなかった子の姿を――想像させられる。

 終演後、セブンイレブンで缶ビールを購入し、西口公園で桜を眺める。2本飲み終えたところで「ふくろ」に移動し、ひとりで飲んでいると、KさんとN.Sさんがやってくる。えっ、と驚いていると、H.SさんやT.Sさんの姿もある。同じ劇を観ていたようで、一緒に飲むことになる。誰とも飲めないだろうなという気持ちになっていたので、嬉しい。しかも、ホッピーを飲んでいるうちに、T.Sさんが「橋本さんが前に、黒塗り問題について日記に書いてましたけど……」と話し始めて、とてもびっくりする。この日記に限らず、僕が書いたものを同時代で読んでいる人はいないだろうと思ってしまっているので、とても嬉しく、いつもより早いペースで酔っ払ってしまう。