8月12日

 8時に起きる。昨日より喉の具合が悪化している。薬を飲んで、シャワーを浴びる。知人と一緒にアパートを出て、「往来堂書店」に行ってみると、もう10時半だというのにシャッターが下りていた。そうだ、今日は祝日だったんだと思い直し、スーパーで食材を、「やなか珈琲」でコーヒー豆を買って、開店を待つ。アパートを出た頃には霧雨くらいだった雨が、強く降り始めている。11時ちょうどにシャッターが上がり、柴崎友香さんの『待ち遠しい』を購入する。

 普段は滅多に小説を読まないせいで、柴崎さんのお名前は知りながらも、読まないまま生きてきてしまった。今年の春にウララさんから薦められて(?)『わたしがいなかった街で』を読んだのが、最初の一冊だった。2ヶ月近くかけてチビチビ読んだ『わたしがいなかった街で』がとても印象深く、『市場界隈』の刊行記念トークイベントのゲストに出演いただけないかと柴崎さんに依頼して、ご快諾をいただいた。ただ、一冊だけ読んでトークに臨むというのも失礼極まりなく、ここ最近はずっと柴崎さんの小説を読んでいた。どれも面白く、「一冊でも多く読んでからトークに臨もう」と思っていたのに、じっくり読んでしまって、4冊しか読むことができなかった。トークは明後日に迫っているので、最後に最新作を読んでおこうと、『待ち遠しい』を読み始める。

 昼は納豆オクラ豆腐そばを食す。薬を飲んでもあまり効かなかった。160ページあたりまで読んだところで、知人が帰ってくる。今日は具合が悪いので、知人に買い物して帰ってもらって、調理も任せる。餃子を食べながら『エンタの神様SP』を、笑うでもなく眺めたり、ドラマ『サ道』の最新話を観たり。

 22時、NHKスペシャル『かくて“自由”は死せり ある新聞と戦争への道』をリアルタイムで観る。「治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した戦前最大の右派メディア『日本新聞』」治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した戦前最大の右派メディア『日本新聞』」が戦争への道を開いてしまったという構成だが、その新聞の存在自体よりも、その新聞が注視した下伊那の話が何より興味深かった。当時の下伊那青年団の活動が盛んであり、「日本のモスクワ」とも呼ばれていた。『日本新聞』はその動向に危機感を抱き、「日本主義的な傾向に青年を導かなければ」と下伊那で集会を開催。その際に、「若い衆に歌の指導を」と依頼されたのが、小学校の音楽教師だった小林八十吉。八十吉は大正デモクラシー時代に自由教育を推し進めた人物だったという。だが、昭和恐慌が起こると、地場産業の養蚕業が壊滅的な打撃を受ける。教員の給料を払うことも地域の重荷となり、「芸術教育どころじゃなくなった」のだと、八十吉がのちに語った音源がテープに記録されている。「気がついてみたら時代は去った」「芸術教育を、俺の時代は駄目だったなという気がした」と感じた八十吉は、既成政党による議会政治に不信感を抱き、「日本新聞」の主張に共鳴し、戦時中は大政翼賛会の一員として県内をまわり、戦争への協力を呼びかけていたという。その「転向」を見るに、右派メディアが存在したこと以上に、経済的な打撃と、そこから生じる挫折感や無力感が大きかったのではと思えてくる。

 番組を眺めながら知人は眠ってしまった。テレビを消して、『待ち遠しい』を200ページあたりまで読み進めて、眠りにつく。