1月30日

 7時過ぎに目を覚ます。枕元に置いてあった『大阪』を少し読む。「汚いスナック」という言葉が登場し、「汚い」という言葉を用いたことがあとから回収されるのかと思っていると、その言葉はそれきりだった。どうしても「汚いスナック」という言葉が気にかかる。「汚い」という言葉が存在するのであれば、それを使うことを引き受けるというのも、文学者の言葉としてありうるかもしれない。それを「くたびれた」と言い換えるのは、おためごかしかもしれないし、「汚い」と直感的に感じたことを引き受ける、ということもありうるかもしれない。

 セブンイレブンに出かけ、卵と納豆を買ってくる。土曜日だけれど登校する高校生たちで歩道は溢れ返っていて、流れに逆らうように歩く。高校生たちはこちらのことなんて気にせず広がって歩いてくる。むっとしながらも、自分が高校生だったときの記憶が甦ってくる。ぼくが通っていたのは広島駅から2駅離れたところにあり、最寄駅から学校まで10分近く、普通の住宅街の中を歩いていく。あのころ、学校まで歩くときに、そこに暮らしている地元の人のことなんかほとんど目に入っていなかったなと思う。ごはんを解凍して、たまごかけごはん(納豆入り)を平らげる。

 午前中は溜まっていた日記を書いているうちに時間が流れ、お昼はサッポロ一番塩らーめん。13時、劇場で開催されているトークイベントの配信を眺めながら家事をしていると、その最後に、企画「R」の話になったのだけれども、それを紹介するときに劇場の方が「マームマニアの橋本さん」と口にし、落胆する。偶然近くにいた知人も、「ほら、もふのこと、そんなふうにしか認識されてないんだって」と言う。誰かを取材して、言葉に書き残す。ドライブインであれ、那覇の市場であれ、古本屋であれ、ミュージシャンであれ、演劇であれ、ジャンルとして観ているわけではなく、つまり何かのマニアというわけでもなく、同時代を記録することが自分の仕事だと思っているのだけれども、そんなふうには理解されていないのだろう。そのことがよくわかったので、その点ではよかった。

 昨日の夜に公開された「路上」と、今日のお昼に公開された「東京の古本屋」と、宣伝ツイートをつぶやきながら、知人と一緒にアパートを出る。湯島で地下鉄を降り、御徒町を目指す。今日はよく晴れていて、街は賑わっている。パルコヤを冷やかし、アメ横を歩く。ガード下の飲み屋には、肩と肩が触れ合う距離でお客さんが飲んでいる。マスクをしているわけでもなければパーテーションがあるわけでもなく、その風景にぎょっとする。あの人たちはどういう感覚でいるのだろう。感染してしまうこと、そこから誰かに感染させてしまうことがおそろしくないのだろうか。

 ヨドバシカメラに入り、ソーダストリームのガスシリンダーを交換してもらう。ここは今でもカメラのフロアが1階にあるのだなあ。ついでに地下のカメラ用品うりばをのぞき、こまごました道具を見る。上野公園下のセブンイレブンで缶ビールを買って、除菌シートで拭き、飲みながら歩く。根津のバー「H」をのぞくと、微妙に混雑している。微妙に声が大きい人たちがいたので躊躇してしまい、入らず。ドラッグストアと「往来堂書店」に立ち寄り、家に帰ってくるころには3時間が経過している。「もう17時や」と、知人が残念そうに言う。夜は『池袋ウエストゲートパーク』を観る。日付が変わるころまで観続けて、再生を止めて歯磨きをしていると、あるアイドルが出ており、ぼくがぶつくさしたことを口にすると、「まあ、世間的にはもふのほうが誰にも知られてない存在だけどね」と知人が言い、それはどういうつもりで言ってんだと猛烈に怒ると、「わたしの仕事のことだって馬鹿にしてるくせに」と、ぽろぽろと涙を流す。いつそんな話になったんだよ、勝手に昂って涙を流して、気持ちよくなってんじゃねえよと言い捨て、寝床から毛布だけ引き剥がし、ソファで眠りにつく。