1月31日

 ソファで眠っていると足を伸ばせず、途中で何度も目が覚める。朝になってみると、知人は昨晩のことを何もおぼえていなかった。昼、トマト缶と鯖缶のパスタを作ってもらって、ビールを飲みながら平らげる。昨日に引き続き、『池袋ウエストゲートパーク』を観る。このドラマは2000年に放送されたものだけれども、当時ぼくは高校3年生で、ドラマを観る習慣がなく、観ていなかった。最初に観たのは2002年、上京して一人暮らしを始めて、再放送で観たのだと思う。住んでいたのは高田馬場だったから、池袋は歩いて行ける場所ではあったのに、このドラマに描かれているのはどこか遠い場所のように感じていた。でも、今ではもう、ああ、このシーンはあそこで、これはあそこだ、と手に取るようにわかる。単にロケ地がわかるという以上に、そこが「私鉄のターミナルがある、大都会」ではなく、「そこに昔から暮らしてきた人たちが住んでいる、誰かにとっての地元」であるということが、この20年のあいだに出会った人たちによってわかった、ということでもある。

 もうひとつ、雑にまとめてしまえば「ストリート」と言うのか――路上の知恵、ストリート・ワイズと言ってもよいのか――というものが、この時代にはまだ存在し得ていたのだなと思う。たとえば、人探しをするシーンで、彼らはビラを大量に貼ってまわり、人海戦術で探していく。ある車両を追うときも、ハッキングしてその当該車両がレンタカーであり、現在も返却されていないことまでは突き止めるものの、そこから先は人海戦術だ。そこでは「池袋のことであれば、彼らは隅から隅まで知っている」ということが前提としてあり、その知恵、肌感覚が活用されている。ハッキングするというのであれば、今のドラマであればもう、警察のシステムに侵入すれば、そのナンバーの車がどこにいるかまで(そんな知恵とは無関係に)突き止められてしまう。

 署長(渡辺謙)がマコト(長瀬智也)たちにBMWを渡したのはなぜだったんだろうなとぼんやり考える。20年前に観たときは、署長は何かを企んでいる人だという印象が強かった。実際、ドラマの後半では「不良たちには潰し合いをさせて、一掃してしまえばいいんだ」という言動に至るけれど、序盤からそうした考えの持ち主だったように見えていた。でも、今見返してみると、ああして車を渡した段階では、彼ら(ストリート)に淡い期待を寄せていたのだろうなと思う。行政という組織ではたどり着くことができないところに、彼らならアクセスし、街をよりよくしてくれるのではないか、そのために彼らに足を提供しよう――と。今になって観ると、そうとしか見えない演出だというのに、どうしてあの頃はそう感じられなかったのだろう。

 もうひとつ驚いたのは、第一話でマコトたちが次々犯罪を犯すところ。もしかしたら1話をちゃんと観たことがなかったのかもしれないけれど、「カラーギャングたちの行動が先鋭化していくなかで、朝廷役のようにして、その過激な振る舞いを諌めようとするマコト」というイメージがあった。でも、第1話の段階で、コンビニの商品をごっそり強奪したり、コインランドリーごと運び出したりと、「軽犯罪」という言葉で済ませられる範囲ではなく、普通にニュースで報道されるレベルの事件だ。それが「コラー!」と怒られて済むことのように扱われている。マコトやG BOYSの行動と対比するように、新たにやってきた男がコンビニで物品を強奪するときに店員に怪我を負わせたりする行動だけが「一線を超えた振る舞い」として描かれているけれど、もともとの行動だって店を潰してしまうような行動だ。でも、マコトたちの行動が「しょうがねえやつらだなあ」という感じで済んでいるのは、「それがドラマだから」ということを除けば、それだけ地元という共同体がまだ強固にあり、そのコミュニティの中で問題を片づけることができていたのだろう(そして、多少の問題行動には目を瞑れるぐらい、経済的にも社会的にも余裕があったのだろう)。

 もうひとつ、このドラマを観ていると、野木亜紀子の『MIU404』はとても意識的にドラマをアップデートさせているのだなと、あらためて感服する。

 ドラマの再生を途中で止めて、開店時刻の15時に根津のバー「H」へ。ぼくたちが口開けの客だ。ハイボールを2杯飲みながら、ドラマの感想を語る。帰宅後も『池袋ウエストゲートパーク』を観続ける。夜は知人の作るシュクメルリ。シュクメルリがどこの料理かもわからないけれど、ウマイ。ただ、ぱくぱく食べてしまうので、ツマミというより食事向きだ。最終話まで見届けて、眠りにつく。