2月14日

 イヤホンをつけたまま眠っていたのだが、誰かの声で目が覚めた。いつのまにか痛みは消えている。ケータイを確認すると2時を過ぎたところだ。どうやら同室さんがナースコールを押し、処置してもらっているようだ。イヤホンを外してやりとりを聴いていると、どうやら尿がうまく排出されず、尿を押し出しているようだ。最初から聴いていたわけではないので、具体的な方法はわからないけれど、痛がる声からしカテーテルではないかという気がする。ごめんねえ、いっぱい水飲ませちゃったねえ、とナースが謝っている。消灯前にいちどだけ排尿できたものの、それ以降は出ず、お腹の張りを訴えたらしかった。そりゃ、あんなふうに急かされたら「水をたくさん飲んで尿を出さなければ」となるだろう。同室さんに同情するのと同時に、「相部屋の人に迷惑かも」みたいに変な気を遣わずナースコールを押してくれてよかったなと思う。僕は僕で尿が出そうな感じがあったので、トイレへ。ついでにナースに声をかけ、「前に飲んで5時間経つけど、今この時間に痛み止めを飲んでも大丈夫か」と確認する(「手術当日は3回まで」とあり、日付が変わっても「当日」に含めてよいのかの確認)。ええ、大丈夫ですよと言われ、念のために痛み止めを飲んでおき、ふたたび眠りにつく。

 次もまた、話し声が聴こえて目が覚めた。もう外は明るくなっている。ケータイを確認すると6時半だ。そんなには痛みも感じず、昨晩のことが嘘みたいだ。話し声というのは、ナースが同室さんにその後の様子を尋ねている声だった。写真立て――なんてものは今日び持ち込まないか、ケータイの待受画面でも視界に入ったのか、「あら、娘さん⁈」とナースが言う。「娘さんは可愛いわよねえ、でも、いつかお嫁さんに行っちゃうのよ」と。そこからナースの方は、自分が結婚したときの記憶を語り、「娘さんをください」と言われた父親が二つ返事でOKしたことが許せなかった、ちょっとくらいもったいぶって欲しかったと話を続け、「それから三日間家出したのよ」と笑っている。まだ起床時刻じゃないんだけどなと思いながら寝相を変えると、アルクマがこちらを見ている。顔と頭を水で洗い、タオルを絞って体を拭く。

 8時が近づいたところで、朝食の準備が整いましたとアナウンスがある。待ちに待った食事だ。どうせおかゆなのは目に見えているけれど、やっぱり嬉しいものだ。そんなことをかんがえながら、箸とカップを取り出し(持参するようにと入院のしおりに書かれていた)、3階の食堂へ。エレベーターを降りたところで気がついたけれど、食堂は手術室の前を通り過ぎた先にあった。手術の時間を思い返し、その向こうでこれから食事をするのかと思うと、不思議な感じがする。ということは、僕が手術を受ける少し前にも、同じフロアで食事してたんだなあと考える。同じフロアなのに、まるで違うタイムラインだ。そして僕も明日からは人ごとのように手術室を通り過ぎるんだろう。

 食堂に入ると、他の入院患者たちはもう食事をとっている。えぇと、これはどういう仕組みなんだろう。入ってすぐのテーブルに、まだ誰も手をつけていない食事がある。ただし、そのお盆に並んでいるのはパンが2個、ヨーグルト、もやし炒めにウィンナーにかりかりベーコンと、それはビジネルホテルの朝食といった感じの並びだ。昨日は食事をとらなかった人間の朝食ではなさそうだけど、よく見るとお盆の端に僕の名前が書かれたプレートが置かれていた。なんとなく、この食堂の勝手を掴みたくて部屋を見渡していると、すぐ近くに座っていた男性が「あ、お茶はあっちですよ」と教えてくれる。スリッパからして、おそらく同室さんだ。ありがとうございますとお礼を言って、ボタンを押してカップにお茶を入れる。持参しなかった人のためか、定食屋みたいな箸箱もあった。

 あまり視線を向けるわけにもいかないからはっきりとはわからないけど、想像したより同世代が多い感じがする。入院前に通った時、待合室にいたのは圧倒的に高齢者が多かった。席に戻り、食事をとる。手術が終わると、次のハードルは便通だ。排便時に痛みを感じるのが恐ろしく、なるべく肛門に負担がかからずに済ませられるようにと、よく噛んで食べる。食べているうちに、なるほど便通に向けた食事だというのがわかる。胃への負担やらを考えればおかゆがベターなのだろうけども、それだとしっかりした便通に至るまで時間がかかる。7泊の入院期間中に、術後のしっかりした排便習慣に至らしめて、排便によって瘡に悪影響が出ていないか毎日経過観察するには、早めに普通の食事に戻したいのだろう。そのための炭水化物と、するっと排便できるように脂気のあるおかずになっているのだろう。特に説明はないので(そしてよく噛んで食べている間ひまなので)そんなことを考える。窓の向こうには外の世界が広がっている。セブンイレブン前のバス停にはバスを待つサラリーマンの姿が見える。外の世界は普通に動いているから不思議だ。あのセブンイレブンに行きたいなあ。

 部屋に戻り、ベッドに横になる。同室さんが薬を取り出す音が聴こえて、「ああ、薬だ」と思い出す。今日から毎日薬を飲まなければならない。朝昼晩に飲む薬が2種、朝晩に飲む薬が2種。迷わず飲めるように、置く場所を分けておく。その薬のほかに、痛み止めもあるし、便通コントロールのために飲む粉末ジュースもある。これをコップに溶かしてみると、全然美味しくなかった。しかも、まずくてしばらく放置しているあいだに固まってゼリーになってしまった。スプーンがないので食べられず、流しに捨てにいく――と、背中に電流が走る。この懐かしい痛みは、もしやぎっくり……と考えながら、よろよろとベッドに戻る。ここ最近は、お尻に負担をかけないようにと、ソファに寝そべりながら作業をする時間が多かった。あきらかに腰に悪い姿勢である。そこにきて、手術と麻酔でからだがガチガチになっていたのだろう。

 9時過ぎにナースがやってきて、点滴が始まる。ベッドに横になっていると、久しぶりの食事に刺激されたのか、お腹がぐるぐるする。しばらく我慢していたものの、これはどうにも駄目だとトイレに駆け込むと、下痢というより、内視鏡検査前のときのように液体だけが流れてくる。これも昨晩水をたくさん飲んだ影響なのではと不安になる。ただ、ほとんど水だからか、排泄時の痛みはなくてホッとする。シャワートイレを当ててみても、こちらも痛みはなくてほっとした。

 点滴が終わったところで、すみません、排便があったんですけど、ほとんど水で――と伝える。術後の便秘と下痢は避けるべきこととしてどの病院のサイトにも(この病院の案内にも)書かれていたので、だいぶまずい状況なのではと思っていたが、「ですよね、まだお腹の中カラですからね」とナースは平然としていて、心配しすぎだったのかと冷静になる。

 どうやら今日もまだ細かい文字を読むのはNGらしかった。ぼんやり芸人のラジオを聴いていると、お昼近くにメールが届く。新刊に載せる地図の確認だ。すぐにiPadを取り出し、修正が必要な点を書き込んで、返事をする。ほどなくして昼食の準備ができたとアナウンスがある。お昼は茄子入りのミートソーススパゲティだ。健康的な献立で嬉しい限り。お昼も、みんなあっという間に平らげて、部屋に戻っていく。普段なら人より早く食べ終わるほうだけど、じっくりもぐもぐ噛んでおく。

 部屋に戻る頃には、校閲からの指摘もPDFで届いていた。ベッドに寝そべったままiPadを開き、指示を書き込んでいく。あまりきれいな字ではないけれど、こればっかりは仕方がない(本来は昨日が校了日だったから、この日程で入院することにしたのだし)。途中、16時ごろにアナウンスがあり、入院患者は診察があるので1階に降りてくるようにと言われる。1階には外来の患者さんたちが座っていて、まだ入院2日目だというのに、シャバっけに触れたような心地がする。執刀医ではなく、別の医師に瘡を確認され、「ああ、きれいですね」と言われて、少しほっとする。

 部屋に戻り、返事を書いたPDFを戻し、ほっとする。これでどうにかなるだろう。16時50分には夕食ができたとアナウンスが流れる。「入院中はお腹が減るのでは」とおやつのクラッカーを買い込んできたわけだけど、お腹が減る隙はなさそうだ。晩御飯は、ごぼうの豚肉巻きと、ほうれん草のおひたしと油揚げ、もやしの味噌汁だった。ごはんがたっぷり盛られている。ゆっくり噛んで食べていると、やっぱりまた最後になる。窓の向こうに外の世界が見える。ヘリコプターが二機、連なるように飛んでいく。ヘリが見えたら反射的に怯えざるをえない病院もあるんだよなと、ふと考える。

 部屋に戻ってからはiPadで動画を観ていた。19時過ぎから、また同じ点滴を打たれる。昨日とは違う夜勤の方だ。点滴を打たれているあいだ、入院のしおりと、入院時にもらった入院の工程表みたいなのを熟読する。明日からお風呂に入れるということで、それも楽しみにしていたのだけれども、よく読むと「手術後2日目、医師の診察後に入浴できるようになります」とある。あれ、ということは、明日は明日でも夕方までシャワーを浴びれないのかと不安になり、点滴を外しにきてくれた方に確認すると、「どうでしょう、おそらくそうなるんじゃないかと思います、詳しいことはナースさんに聞いてみてください」と言われる。夜にいる方はナースではないのだろうかと思いつつ、iPadParaviを立ち上げ、『水曜日のダウンタウン』の過去回を(笑いを堪えながら)観た。21時の消灯時刻を迎えても寝付けず、YouTubeで芸人のネタの動画を再生しながら音声だけ聴く。