2月16日

 昨晩は22時過ぎには眠りに落ちていた。日付が変わる頃にいちど起きて、また眠りにつく。日記を書くために記憶をたどり、手術室の状況を思い出したせいか、妙な夢を見た。同じような場所に、僕は紙パンツ一丁で立たされており、まわりを囲む謎の集団に、「今からわれわれが言うことを反復しろ!」と脅されている。わけのわからない言葉を言わされている途中ではたと目が覚めた。すぐに意識が覚醒し、あれ、今、実際に口に出してたんじゃないか?と不安になる。なんだか喉にはしゃべったような感触が残っている気がする。もしも実際に声に出していたら、ちょっとやばいやつだと思われただろう。病室は静かだった。

 6時過ぎに起きて、昨日遅くに届いていた再校をiPadで開く。パソコンの画面には初校に自分が入れた赤字のデータを開き、正しく反映されているかを確認する。それが終わると、今度は校閲とのやりとりを開き、こちらも正しく反映されているかを確認する。

 途中で朝食の時刻となり、食堂へ。いつのまにか入院患者がひとり増えている。朝食は昨日と同じ内容だった。僕以外の患者は、なにやら紙を熟読している。いったい何だろうと思っていると、食堂のおばちゃんが僕のところにも紙を持ってやってきて、「今日の夜も出前になるので、希望のメニューに印をつけてください」と言われる。おそらく昨日と同じ蕎麦屋なのだろう、そばとうどん、それに丼物が数種書かれてある。

つめたい(うどん・そば)

   おろし

   とろろ

温かい(うどん・そば)

   おかめ

   かき玉

   カモ南蛮

   肉カレー南蛮

   牛丼
   親子丼
   かつ丼

 

 この日記を書いている今、手元に紙が返ってきたからメニューを書き写せているけれど、紙を見た時点で「カモ南蛮」と「肉カレー南蛮」のふたつしか目に入っていなかった。どちらにしようか、いやせっかくだからパンチの効いたカレー南蛮にしようかと考えながら朝食を咀嚼していると、先に食べ終わった同室さんが帰り際に、「やっぱり出前でしたね」と声をかけられる。「選べるとなると悩みますね」と返す。「たしかに――僕も最初はカレー南蛮にしようと思ったんですけど、おしりによくないかと思って、違うのにしました」と同室さんが言う。ああ、たしかに。これはいいことを聞いたと、カモ南蛮に丸をつけて提出する。「カモ南蛮はおそばにしますか、おうどんにしますか?」と尋ねられる。そうか、うどんでも鴨南ばんになるのか?

 部屋に戻ってみると、一晩だけ入院した人はもう姿を消していた。ベッドに横になり、作業を続ける。確認を終えると、ミスがあった箇所だけピックアップして、ひとつのデータにまとめる。今日の正午が校了とメールに書かれていたから、ミスが生じないようにと、赤字を入れた箇所について、言葉でも説明書きをする。これで大丈夫だろう。9時半にメールを送信しておく。しかし、入院中に校閲からの疑問点に返事をして、再校を戻すというのはかなり珍しい経験という感じがする。もう体験せずにすむことを祈るばかり。

 ナースがやってきて、検温をうける。今日からはもう熱の確認だけだ。「頭痛とかないですね?」と確認されたので、はい、と答えた上で、ひとつ気になっていたことを質問する。手術してからというもの、手術痕から浸出液というのが分泌されている。これはもう、傷跡からは出るものだという。それは仕方ないとして、問題は量だ。今も別に、溢れるように染み出しているわけではないのだけど、股に当てているナプキンに沁みてくる。仰向けになって動かずに寝ているあいだは平気でも、姿勢を変えたりしていると、微妙にナプキンがズレるせいもあるのだろうけど、ちょっと沁み出して寝巻きに付着して臭くなる。

 退院したあとも、この感じで出続けるのだとしたら、なんらかの対策が必要だ。まず、寝ているときに、お尻の下に小さめのバスタオルでも引いておかないと、しみだすたびにシーツを洗わなければならなくなって面倒だ。それに、外出時にズボンにしみ出すと、まわりに臭いが立ち込めてしまう。今もわりとぴったりめのボクサーブリーフを履いているのに、それでずれるとなると、どうすればいいんだろう。オムツでも履けばよいのか。昨晩あたりからそんなことを頭の片隅で考えていたので、看護師に尋ねてみたのだが、「人によります」という答えが返ってきた(質問をシャットアウトされたというより、そうとしか言えないんです、という表情だった)。それはそうだろう。とりあえず無印良品で小さめサイズのバスタオルを探し、4枚セットで割引になっているものがあったので、退院の日に届くように買っておく。それを敷いて寝れば、とりあえずはどうにかなるだろう。

 原稿も手を離れたところで、いよいよ念願のシャワーを浴びにいく。シャワールームに行くと、その手前にあるコインランドリーで同室さんが洗濯をしていて、「お、いよいよですね」と声をかけられる。シャワールームに入り、服を脱いだところで、便意が近づいているのを感じる。久しぶりのシャワーを浴びた直後にトイレに行くのも勿体無いので、もういちど服を着て、トイレに行く。サイトによっては「手術直後より、数日後に痛みのピークが」と書かれていることもあり、緊張していたけれど、今日も痛みはなく、そして快便だ。

 シャワールームに戻り、念願のシャワーを浴びる。お湯を浴びるだけで、どうしてこんなに気持ちがよいのだろう。患部は石鹸であらわないようにと注意書きがあったので、泡が流れることすら心配になって、上半身を洗っては流し、今度は足先から洗って流す。自宅でシャワーを浴びる時はいつも音楽かラジオを聴いていて、今回も防水スピーカーを持ってきていた。シャワールームはわりと広々したつくりになっているし、同じフロアにはコインランドリーがあるだけなので、あまり音漏れを心配する必要もないので、入院に向けてつくっておいたプレイリストをランダムで再生する。2曲目に流れてきたのは「と、おもった」だった。軽バンを貸してもらってドライブイン巡りをしていたとき、日本海側をずうっと走りながら、この曲が入ったアルバムを延々再生していたことがふいに思い出される。

 部屋に戻り、ベッドに横になって一息つく。久しぶりにシャワーを浴びると、さっきまで気にならなかった枕の臭いが気になり、「入院中はシーツを替えてもらえないんだろうか」と気になりだす。11時ごろに入院患者の診察のアナウンスが流れ、1階に下りる。木曜は午後が休診になるから、入院患者の診察も午前になるらしかった。順番を待つ間、病院の玄関から外の通りを眺める。快晴だ。シャワーを浴びると、今度は外の景色を見ていたくなる。昨日の夜には灘を旅した記事が公開されたけど、あちこち出かけていたのが遠い昔のことのように思える。ほどなくして診察を受ける。医師が一目見て、「おお、いいですね」と言っていて、何がどう良かったのかまるでわからないけど、経過はいたって順調のようで嬉しくなる。

 部屋に戻ると、校了目前の書籍について、数件疑問点が届いていたので、すぐに返事をする。11時54分に昼食の準備ができたとアナウンスが流れ、食堂へ。今日のお昼は鶏そぼろ丼だ。これもじっくり咀嚼して平らげる。食事を終えて部屋に戻り、書評する本のゲラを読んで過ごす。多少は体を動かしたほうが傷の回復にも良いし便通にもつながると「しおり」に書かれてあるので、トイレに行きたくなるたび4階まで階段を下りる。ここだと男子用の便器があり、ナプキンをつけている身としては用が足しやすくもある。きまぐれに血圧を測る。上が127で下が83。入院前にも何度か血圧を測るタイミングがあったけど、やっぱり基本的に高めだ。毎日サッポロ一番塩らーめんに野菜炒めをのっけて食べているのが確実に効いている感じがある。

 ベッドに戻り、Y.Fさんの原稿を考える。考えているうちに夕食の案内が流れる。今日は自分で選んだ料理とあって、いつもより早めに食堂に向かう(普段は、ひとりだけやたらと咀嚼しているのが申し訳ないような感じもあり、数分遅れで向かっている)。食堂のおばちゃんが、ごめんねえ、ちょっと時間経っちゃったから、麺がのびちゃってるかもしれないんだけど、いちおう看護師さんには「もう届いちゃったから、早めに伝えてもらえますか」ってお願いしたんだけどねえ、と申し訳なさそうに言う。蓋を開けると、たしかに麺が膨らんでいて、あまり汁が見えないぐらいになっているけれど、いや、でも、嬉しい。注文したものが食べられる。鴨南蛮のお肉は鶏肉で、そういえば坪内さんは鶏肉の鴨南蛮が好きだったなと思い出す。もちろん美味しい鴨南蛮は美味しいけど、美味しくない鴨を使ったものよりか、鶏肉の鴨南蛮の方が好きなの、といつだか言っていた。蕎麦屋というと坪内さんが頭に浮かぶ。鴨南蛮とカレー南蛮の二択になったのも、どこかに必ずその影響はある。

 今日の晩は痔の手術以外で入院中の方もいるようで、ヨーグルトとスープだけを食べているお年寄りが何人かいた。最後まで居残って、夕食を食べ終える。食堂のおばちゃんはまだ申し訳なさそうにしている。「早めに届いちゃったから、看護師さんにお願いしたのよ。でも、部屋にいないっていうから。夕食が近いから、そんなはずないんじゃないかと思ったんだけど、わたしたちは病室に行けないから。申し訳なかったねえ」と、何度も言っている。正直なところ、麺が伸びているかどうか判別がつく舌を持っていないので、かえって恐縮してしまう。

「明日も出前になるんじゃないかと思うから、明日は違うの頼んでみて」と食堂のおばちゃんが言う。その言葉に好奇心(?)がわき、「ってことは、明日急なオペが入らない限りは、明日も出前ってことですか?」と尋ねてみる。明日も出前かどうかも知りたいけど、この病院がどんなふうに動いているのか、入院二日目ぐらいから興味が生まれている。「もう、明日は3人だけになるのよ」とおばちゃん。「今日の夕食は4人だったけど、そのうちのお一方は明日の朝で退院になるのよ。明日から3人入院するみたいだけど、手術の当日は食事がないから、明日は3人だけね」と。執刀医の先生も、普段から外来の診察もおこなっているから、どれぐらいの頻度で手術しているんだろうかと気になっていた。そりゃ毎日外来も手術もやってたら持たないよなあ。そして、明日は誰かが手術を受ける直前に、同じフロアで食事をとるのかとぼんやり考える。