3月26日

 7時に目を覚ます。コーヒーを淹れて、洗濯物を干す。8時20分にアパートを出て、タクシーで「首都高の神田橋を目指してください」と伝える。15分ほどで目的地にたどり着き、神田の運転免許更新センターへ。朝イチだからかそこまで混み合ってもおらず、ソーシャルディスタンスを保つように貼られたバミリにしたがって歩き、お金を払って写真を撮影され、9時からの講習を受ける。席は満席にならなかった。講習は例によって淡々とした調子で進む。35分ほど口頭で話があったのち、DVDが再生される。こちらも淡々とした調子で進み、居眠りしている人も多い。この映像を、たとえば芸人やYouTuberを起用したり、映像作家や演出家に入ってもらったりして、もっとセンセーショナルで情感に訴えかけるものにすることだってできるだろう。でも、そうなってしまうと何かが失われてしまう気がするから、ずっとこの退屈な感じであってほしいなと思う。

 10時には新しい免許を受け取り、センターをあとにする。今日は「ポカポカ陽気に」とテレビが言っていたけれど、どこか肌寒い。約束の時間まで余裕があるので、一度アパートに戻り、スプリングコートから冬のコートに着替えて、マフラーも巻いて出直す。11時半に自由が丘駅前で待ち合わせて、企画「R」に出演する皆と散策。ずっとまっすぐな道を歩き、上野毛から二子玉川公園へと坂をくだる。二子玉川ライズにあるマクドナルドでお昼ごはんを買って、レンタサイクルを借り、河川敷でお昼ごはんにする。その意味を気づいていない人もいるだろうけれど、今日のお昼は――このコースを歩いてきたのであれば――マクドナルドしかないなと思っていた。食事を終えると、多摩川を遡るように自転車を走らせる。数ヶ月前と違って、堤を傘増しする工事が行われていて、堤の一部は通れなくなっていた。

 15時に京王閣まで辿り着き、近くのポートで自転車を返却する。ちょうど第1レースが始まるところだったので、まずはレースを観てから、「まくり屋」に移動する。表のテーブル席は、片側にだけ椅子が置かれている。これ、対面で座らないほうがいいですかねと尋ねてみると、どうなんですかねえ、外だし、別に平気だと思うんですけどねえ、それにこの時期に競輪場までくるお客さんはコロナ覚悟できてるんだろうしねえ、と言いながら、椅子を出してくれる。皆それぞれ食べ物や飲み物を注文して、頬張りながらそれぞれ予想を立てている。競輪って当てるのが難しいのだと、Fさんと一緒になって話していたら、A.Iさんがいきなり予想を当てる。配当は200円ぐらいのカタイ勝負だったとはいえ、いきなり当てるとは――と思っていたら、次のレースも的中させ、「当たった!」というので、ふてくされたふりをする。思いのほか皆夢中で予想を立てて車券を買っていたのでホッとしながら、ビールや日本酒を飲んだ。風が冷たくなってきたので、第5レースまで見たところで切り上げて、京王多摩川駅に引き返す。

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 ケータイを確認すると、WEB本の雑誌の連載「東京の古本屋」が更新されていた。今回取材させてもらったのは「北沢書店」で、神保町のお店を取材したのはこれが初めてだ。どうして「北沢書店」に話を聞かせてもらいたいと思ったのかには、いくつか理由がある。ひとつには、ひとつ前の回で「コクテイル書房」を取材したときに、店主の狩野さんから神保町にあった「」で働いていた時代のことを聞いたことの影響もある。その話から思い出されたのは、坪内さんの『人声天語』だ。『文藝春秋』2005年10月号(つまり9月10日ごろに発売された号)に掲載された回のタイトルは「洋書屋消滅」だ。

 

 明治、大正、昭和、戦前戦後を通じて、日本には、洋書文化というものが確かにあった。

 そういう伝統の中で私は知的成長をとげていった。

 私が学生の頃、神保町には、北沢書店だけでなく、東京堂書店の洋書部があり、米文学者蟻二郎の経営するワンダーランドがあり、古書の東京泰文社や松村書店があり、三星堂の洋書部も今よりずっと洋書屋らしかった。銀座にはイエナがあり日本橋には丸善があり、早稲田大学の地元の高田馬場にはビブロスがあり、渋谷大盛堂書店の洋書部も面白かった。

 実は、これらの洋書屋は、つい数年前までは健在だったのだが、ここ四〜五年で、殆ど消えた(丸善は丸の内に移り、洋書にもそれなりのスペースがとられているが、あの洋書コーナーは、日本の洋書屋というよりは国際ビジネス都市のブックショップという感じがする)。

 

 そうした「洋書屋文化」の消滅を決定づけるのが、北沢書店の「閉店」だと坪内さんは書く。

「今月(八月)の初め」に北沢書店を訪れた坪内さんは、「一階の店内で、全点七〇%オフのバーゲンセール」と出くわす。その数日後に出た『新文化』には、北沢書店の一階が「ブックハウス神保町」となることを知らせる記事が掲載されていた。「そのオープンに合わせて北沢書店も二階部分で新たなスタートを切るのかもしれないが、従来のオーソドックスな洋書屋ではなくなるだろう」とし、これは「北沢書店の事実上の消滅」だと、坪内さんは書いていた。 

 

 もともと私はたいして英語を読む力がなかった。

 そんな私が大学院に入る頃に、どうやら英語の本を読めるようになったのは、先に名前を挙げた洋書屋のおかげである。

 初めて北沢書店に足を踏み入れた時、私は、棚にずらっと並んでいる横文字の本の背表紙のタイトルと著者名をたどたどしく目で追うだけで精いっぱいだった。

 タイトルと著者名をすぐに認識できるようになったら楽しいだろうな、と私は思った。

 そうなるまでに一年以上かかった。

 それから一年ぐらいして、面白そうな本や著者を選ぶカンが生まれた。さらに一年後、立ち読みができるようになった。

 ネット書店では、洋書と、このようなプロセスをふむことができない。

 

 この原稿を『文藝春秋』で読んだ1ヶ月後、「ブックハウス神保町」がオープンし、2階で古書部門のみで「北沢書店」がリニューアルオープンした初日に、ぼくは神保町に出かけた。1階にはたしかテレビカメラもあり、賑やかだったけれど、ぼくは階段を上がってまっすぐ2階に上がった。そこでT.H.グリーンの洋書を買った記憶がある。その本を、ぼくはきちんと読むことができなかったし、大学院をやめてからは英語に触れる機会からも遠ざかってしまった。そうして15年が経って、読書委員になってみると、2次会として使われていたのが「ブックハウスカフェ」だった(コロナの影響で、2次会が開催できていたのは最初の数ヶ月だけだったけれど)。

 そうして数ヶ月が経ったころに、「北沢書店」の記事が炎上しているのを目にした。あの北沢書店が、ディスプレイ向けに洋書を販売するなんて――と。その日の日記にも書いているけれど、ぼくはとてもじゃないけどそのことを批判できる立場にないなと思った。ディスプレイ向けに洋書を販売するというアイディアは、洋書が売れなくなったなかで、どうにか店を存続させられないかと生み出されたものに違いない。だとすれば、その状況を生み出したのは、洋書文化を引き継がなかったわたしたちにある。そんな気持ちもあったことから、外側から勝手な判断をするだけでなく、お店を経営する方たちにしっかり話を伺って、記事を書きたいと思ったのだった。

 面識がなかったこともあり、取材の前に一度、ご挨拶に伺った。一郎さんは『市場界隈』を読んでくださっていて、「この方は、お店の業態ということ以上に、人間を描こうとしているんだな」と感じました。原稿に出すかどうかはさておき、橋本さんが質問されたことにはすべてお答えするつもりでいますから、どうぞ存分に取材してください」とまで言ってくださった。その言葉に応えられるだけの記事にしなければと、緊張しながら3日間取材させてもらって、半月かけて記事を書いた。かなり踏み入った話も記事として残したこともあり、一郎さんや妻の恵子さん、長女の里佳さんは、1ヶ月近くかけてじっくり原稿を確認してくださって、今日の公開にまでたどり着いた。一人でも多くの人に読んでもらえたらなと思う。

3月25日

 7時過ぎに目を覚ます。9時にアパートを出て、荻窪に向かう。千代田線はそこそこ混んでいたけれど、中央線の下りはガラガラだ。再び修正希望が届いていたので、それを反映したテキストを最終稿として取材させてもらった方に送信する。荻窪駅に電車が到着すると、ホームのベンチに座って作業を続ける。それから、昨日のバージョンから加筆した箇所をわかりやすく表示したワードファイルを、担当記者に送信しておく。もしかしたら昨晩送ったデータはもうチェックして、ゲラの修正に取り掛かっているかもしれないので、昨晩のデータからの違いだけをわかりやすく表示しておく。パソコンを閉じて改札に向かうと、もうほとんど全員揃っていた。

 北口に出て、まずはF.Tさんと最初に出会った飲み会の会場だった「鳥もと」に行く。話しているうちに、A.Iさんもその飲み会にいたのだと知る。Fさんが近くのセブンイレブンでウィスキーと炭酸水、氷、プラカップを買ってきて、皆にハイボールを作る。乾杯して、歩き出す。炭酸水だと思って買ったのはサイダーで、不思議な味がする。前回は10人以上だったけれど、今日は都合がつかなかった人がいて、8人なので比較的歩きやすい気がする。途中で立ち止まって説明するときも、声が届きやすい(これまでのルートのときは、ぼくが説明し始めたときに、わりと近くに立っている人も近寄って耳をそばだてているのを見て、「あれ、自分の声ってこの距離の相手にも届いてなかったのか」と愕然とした)。青梅街道を歩き、環八を越えて少し進んだところで左に折れ、善福寺川を越えて進んでゆく。

 1時間ほどで西荻窪に出て、遅れていたO.Fさんと合流する。ここでトイレ休憩を挟んで、ウィルキンソンの炭酸を買って、今度こそハイボールを作って飲みながら歩く。A.Iさんが、昨日おばあちゃんに都電のことを聞いてみたのだと話してくれる。かつて都電が走っていたところの近くに戦没者の慰霊碑があり、都電に乗っていると車掌さんがその慰霊碑のことをアナウンスして、「黙礼」と言っていた――おばあちゃんがそんなことを話していた、とAさんが教えてくれる。かつて都電が走っていたことも、そのころは戦争もまだ近い記憶であったであろうことは、知識としては当然知っている。でも、自分の友人の祖母の言葉として、そういった歴史を聞くと、ぐにゃりと風景が歪んだように感じる。

 井の頭公園にたどり着いたところで、柳橋江戸川橋で通りかかった神田川の源流はここです、と説明しておく。井の頭公園でお昼を食べてから、玉川上水まで歩き、三鷹駅に引き返す。そこから新宿に出て、小田急百貨店の屋上に上がって東口の駅前広場を見下ろし、思い出横丁から大ガードに抜け、小田急百貨店の屋上を見上げる。小雨が降り始めてきたので地下道に入り、副都心線に乗ってみなとみらいに出る。雨で気温が下がったせいか、昼間からハイボールを飲みながら歩いたせいか、体調が下り坂だ。海外移住資料館を見学したのち、ホテルニューグラントまで歩いて解散となる。何人かは中華街で食事をして帰るようだったけれど、体調に不安があるのでまっすぐ引き返す。

 メールを開くと、最終版のゲラが届いていたのだが、修正が反映されていない箇所がいくつもあった。今日の午前に送付した修正箇所は反映されているけれど、昨晩のものは反映されていないようだった。最終稿のテキストと付き合わせてゲラを読み返し、修正が漏れている箇所を指摘してメールで伝えておく。帰宅後すぐに湯に浸かり、とり野菜みそ鍋を食べて体を温める。19時45分に再度ゲラが届き、もう一度読み返し、一点だけ修正漏れを電話で伝えて、校了としてもらう。これまでの連載の中でいちばんバタバタしたけれど、無事校了を迎えられてホッとする。

3月24日

 6時に目を覚ます。コーヒーを淹れてたまごかけごはんをかきこんで、書評を書き始める。9時にはおおむね書き終えて、今度はRK新報の連載の原稿に、取材させてもらった方からの修正を反映して、少し言い直しを推敲し、メールで送信する。そのあとで書評をもう一度読み返す。最初の原稿では「しみったれた」という言葉をあえて用いていたけれど、それは、あえてであっても用いるべきではないのではと思えてくる。特定の店を指す言葉でなくとも、「しみったれた店」という言い方を、お店を取材することの多い自分がするのは間違っているのではないか、と。結局、言葉を書き換えてから原稿を送信する。

 キャベツが冷蔵庫に残っていたので、昼は焼きそばにする。締切の迫った原稿はなくなったので、ホッとして、しばらくぼんやり過ごす。今後の日程のことを考えていたところで、免許の更新期限が迫っていたことを思い出す。ほんとは1月3日までだったのだけれども、コロナの影響で更新期限の延長ができるようになっていたので、4月5日までに延長してもらっていたのだ。27日から5日までは沖縄に出かけてしまうので、それまでに更新に出かけなければならない。更新の受付は8時半から15時までで、時計を確認すると14時33分、急いで身支度をして、タクシーを使ってギリギリ間に合うかどうか――。今日が無理なら、明日も明後日に行くしかないけれど、どちらも10時から企画「R」として街を散策することになっている。制作のKさんに相談し、明後日の散策は11時スタートに変更してもらって、その日の朝イチに更新することに決める。

 夕方になって、RK新報のゲラと、取材させてもらった方からの修正希望とがそれぞれ届く。ゲラが出たということは、レイアウトが決まったということでもあり、どうすれば修正希望を行数に収められるかと頭を悩ませる。19時に「こんなふうに修正するのでいかがでしょう?」とメールで送信したのち、日暮里駅へと急ぐ。日暮里駅の向こう側にある「又一順」の2階に上がると、ムトーさん、セトさん、サキ先輩、それにKさんが円卓を囲んでいる。おつまみセットを注文し、乾杯。2階にはお客さんがもうひと組だけいる。スーツ姿のサラリーマンで、ときどき大きな笑い声が起きる。不安になってちらりと振り返ると、全員マスクをつけたまま会食していて、妙に感動する。全員がこんなふうに過ごしていれば、飲食店もつつがなく営業ができるだろうに。21時ごろに店を出て、スーパーで各自お酒を買う。修正案に対するさらなる修正希望が届いていたので、電話をかけて少し相談させてもらう。谷中霊園に移動してみると、桜は見事に咲いているのだけれども、枝が切られていてこぢんまりしている。墓も区画整理(?)が進められているのか、空き地になった場所をちらほら見かけた。セトさんが「谷中霊園には広津和郎の墓がある」というので、セトさんがそらんじた住所を頼りに探し歩き、広津和郎の墓を見つける。散文精神。23時頃に解散し、アパートまで戻ると、修正案をRK新報の担当記者と、取材させてもらった方と、それぞれにメールで送信しておく。

 

3月23日

 10時、上野の西郷隆盛像で待ち合わせ。企画「R」、昨日で最終回を迎えたのだけれども、出演者の皆と歩き直す作業は続く。上野公園の入り口には警察の大型車両が停まっていて、どこか物々しいが、一年前の春とは違って人で賑わっていた。不忍池まわりも大賑わいで、サングラスに黒いマスクをした修学旅行生が、4人並んで水鳥を写真に収めている。修学旅行にきて、不忍池にこようと思うんだね、とFさんが言う。湯島から神保町に出て、「新世界菜館」で弁当を買う。ぼくは近くのコンビニに走ってアサヒスーパードライを2本買って、愛全公園に移動。ぼくが中華風カレーを選んだせいか、半数以上はカレーだった。九段坂を歩き、靖国神社に出る。武道館では大学の卒業式が開催されているのか、袴姿やスーツ姿の若者たちがあちこちにいる。卒業式が終わったあとに靖国神社で写真とか撮ろうと思うんすね、とFさんが言う。「宴会禁止」という看板だけ出ているのかと思ったら、「アルコールの持ち込み禁止」と書かれていたので、残っていたビールを慌てて飲み干し、ビニール袋にしまう。しかし、アルコールの持ち込み禁止とはどういうことなのだろうと、献酒会の樽酒を横目に鳥居をくぐる。

 1年前は道が塞がれていたけれど、今年はフェンスが撤去されていて、桜の開花の標準木の前にはひとだかりができていた。それを横目に歩き、招魂斎庭跡を見に行く。神社を抜け、飯田橋に出る。お濠端には「花見禁止」と貼り紙があったが、レジャーシートを広げてお昼を食べている人の姿があった。「あとで違うアングルでここを見ることになります」と説明しながら飯田橋の陸橋を渡り、後楽園にたどり着く。ここからようやく2ルート目。東京ドームシティアトラクションズのメリーゴーランドをしばらく眺めて、小石川を歩く。植物園の前を歩いていると、A.Iさんが小さい頃の記憶をぽろぽろと話してくれる。護国寺の陸軍埋葬地を見てから雑司ヶ谷霊園に向かい、そこから神田川のほうに下る。同じ大学出身のT.Sさんが「私、よくこのあたりを散歩してて、この坂を歩くのが好きでした」というので、当初は別の坂を歩くつもりでいたけれど、幽霊坂を選んで歩く。神田川沿いの桜は満開で、大勢の花見客が行き交っている。江戸川橋に出たところでタクシーに分乗し、かつて都電が走っていたコースを走って日比谷公園まで。東京駅の丸の内側にある広場では、新郎新婦が記念写真を撮影していた。海外の方のように見えたけれど、どんな思い入れがあってこの場所を選んだのだろう。17時半、東京駅丸の内北口で解散する。ぼくは入場券で構内に入り、駅弁屋「祭」をのぞく。取り扱う商品が年末年始に歩いたときよりも少なくなっていて、売り場の一部が閉じられている。エキュートにある寿司屋で10巻セットを2個買って帰途につく。今日が書評の締め切りで、帰宅してすぐに書評を練り始めたものの、今日は20キロほど歩いたせいか頭が働かず、担当記者のMさんにお詫びのメールを送信して、知人と寿司を平らげた。

3月22日

 3時半に目を覚ます。どうにかちゃんと寝ることができて、寝坊をすることもなかったなとホッとする。二度寝してしまわないようにとテレビのスイッチを入れると、カラフルな画面が斜めに流れ続けている。シャワーを浴びて歯を磨き、KさんとJさんにLINEを送っておいて、徒歩2分の場所にある日産レンタカーへ。昔は24時間営業のレンタカー屋がもっとあったように思うけれど、今では数店舗に減ってしまっている。手続きをして、車体の確認をする。ボディに水滴がついていて、昨日は大雨でしたからね、と店員さんが言う。いつも微妙に手間取ってしまうので、店員さんに確認して、iPhoneの音楽を流せるように設定しておく。

 4時15分にホテル・京王プレッソインの前でKさんとJさんをピックアップし、ここ数日間考えて続けていたプレイリストを再生しながら、Fさんの自宅の近くを目指す。プレイリストに入っているのは、ライブのSEとして使われる「マーキームーン」をのぞけば、すべて向井さんの作った曲だ。Fさんをピックアップしたところで、この1年続けてきた企画「R」として街を走り、目指していた場所にたどり着く。7時半ごろにFさんを送って別れ、Kさん、Jさんと一緒にレンタカーを返却し、ホテルに戻る。朝食付きのプランだというので、3人で朝食会場に向かい、カレーライスを食べながらしばらくしみじみ話した。

 チェックインまでの2時間で書評を練るつもりでいたけれど、ほとんど何も考えられないままチェックアウト時間になり、11時にホテルを出た。中央線で御茶ノ水に出て、開店直後の「ランチョン」に入り、入り口のすぐ近く、窓側の2人がけのテーブル席に座る。まずはビールを頼んで、窓の外を眺める。何か先にツマミでもと思ったけれど、おそらくそれだけで満腹になるだろうからと、メンチカツだけ頼んだ。2杯目のビールを飲み干したところでメンチカツが運ばれてきて、3杯目を頼む。昼間からビールを飲んでいる人は案外少なかった。高齢の一人客が、店員さんと「お元気でしたか」と挨拶を交わしながら会計を済ませ、帰ってゆく。なにひとつ変わっていないせいですぐに忘れてしまいそうになるけれど、今日で緊急事態宣言が取り下げられたのだった。最後にハーフ&ハーフを飲んで、店をあとにする。「東京堂書店」で新刊を何冊か買ったのち、「成城石井」で春雨サラダにオリーブ、麻婆豆腐、それにチーズ(ブリー)を買って帰途につく。書評のことをぼんやり考えながら(つまり具体的には考えられないまま)知人の帰りを待ち、数日ぶりに乾杯。

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3月21日

 6時過ぎに目を覚ます。昨日はミニストップまで歩いたけれど、すぐ近所にファミリーマートがあることに気づき、そこでハムのサンドウィッチとホットコーヒーを買って帰り、撮影のイメージを膨らませる。取材の一環として、今日は物撮りをすることになっている。いつも基本的にドキュメントとしてしか写真を撮らないので、セッティングをして配置を決めて撮影するとなると、勝手が違ってどぎまぎする。10時にホテルをチェックアウトして、小雨が降るなか会場を目指す。まずはM&Gが用意しておいてくれた照明をセッティングする。ええと、物撮りの場合の光源はと、ネットで検索した知識をもとに照明を立てる。昨日のうちに持ってきてくれていた参加者の思い出の品々から、まずは撮影を始める。

 あっという間にお昼になり、「スタンツァ」というイタリアンでお昼ごはん。一足先に会場に戻り、取材の準備を整えながら、昨日持ってくるのを忘れていた参加者の方たちから品物を預かり、撮影に取り掛かる。撮影を終えたところでワークショップの場に戻り、合間の時間を縫うように参加者の皆さんひとりひとりにインタビューする。昨日も10人近くに、今日も10人近くに話を聞かせてもらった。ひとりあたりの時間は5分ほどとはいえ、質問を練り、相手の話す感触を探りながら話をする、ということには変わりはなく、こんなにたくさんの人に話を聞いたことってなかったなと思う。

 18時にワークショップが終わり、後片づけをして、20時16分発の特急ひたちに乗り込んだ。今日はホテルに到着してすぐに眠らなければならないので――しかし車内で眠ってしまうと目が冴えてしまいそうなので――タオルで視界を塞ぎ、音楽を聴いて過ごす。最後に10数分うたた寝してしまって、22時40分、Jさんに肩を叩いて起こされる。ぴかぴかした照明を視界に入れないようにタオルで視界の大半を塞いだまま、東京駅八重洲口を出て、同じホテルに宿泊するKさん、Jさんの足元だけを見て歩く(KさんとJさんには申し訳ないけれど、ぼくは運転があるので、とにかくすぐに寝なければならない)。ホテルにチェックインし、とにかくケータイだけは充電器に繋いで、すぐに寝る。

3月20日

 7時過ぎに目を覚まし、コンビニに出かける。駅の近くにミニストップがあり、近所には店舗がなくてほとんど利用することもないので、せっかくだからとミニストップまで朝ごはんを買いに出掛けてみる。店舗で作っているというおにぎりがあったので、明太子と玉子のやつと、それにホットコーヒーをテイクアウト。11時半にワークショップ会場に移動し、まずは皆でお昼ごはん。駅前ビル・ラトブの1階にある(元・回転)寿司屋「おのざき」に入り、まずはいわき5品盛と瓶ビールを頼んだ。もちろんこんなタイミングで飲んでいるのは僕だけだけれども、寿司屋に入って酒を飲むなというのは無理だ。

 12時50分に会場に戻ると、すでに参加者の皆さんが到着し始めている。M&Gの皆は13時半からだと勘違いしていたけれど、13時からだったようだ。いそいそと取材の体制を整えているうちに、ワークショップが始まる。今月は2階と3階に分かれての作業になるのだけれど、自分の身を置けるのは片方のフロアだけだ。2階にはiPhoneの録音アプリを、3階にはICレコーダーを回しておき、3階のF.Tさんのワークショップの様子を見届ける。18時にワークショップは終わり、3階でひとり地図を眺めていると、誰かが階段を上がってくる音が聴こえてくる。とれと同時に、ギュインギュインギュインギュインと不吉な音が響く。階段を上がってきていたのは制作のKさんで、鳴り響いているのは地震速報だった。数秒後に建物が大きく揺れ始め、おーお、と揺れの状態を探りながら立ち尽くす。しばらくふたりで立ち尽くしていたのだけれども、おそらくほぼ同じタイミングで、同じことを考えつく。この建物はかなり古く、もしも3階と2階を結ぶ階段が塞がれてしまったら――顔を見合わせ、2階に降りると、皆が縁を描くように並び、身をかがめていた。

 ほどなくして揺れは収まり、劇場のTさんの運転するクルマで劇場まで移動する。控え室に案内されたところで、だけどこれ、トークイベントは開催するにしても、配信はやめておいたほうがいいんじゃないのとFさんが言う。地震があったときには、トークイベントの開始まで1時間を切っていた。この1時間のあいだに、今の地震で大きな被害が出た土地はなかったのだろうかとか、津波は大丈夫だろうかとか、トークイベントの会場は無事だろうかとか、いろんな心配をそれぞれがしていただろうけれども、地震が起きたばかりの土地からトークイベントの配信をするのはどうだろうかというところまで、あの時間の中で考えていた人がどれだけいただろう。ぼくは、ただ同席するだけの立場だったこともあるけれど、そんなところまで考えは及んでいなかった。結果的に、配信は後日アップされることになった。