3月26日

 7時に目を覚ます。コーヒーを淹れて、洗濯物を干す。8時20分にアパートを出て、タクシーで「首都高の神田橋を目指してください」と伝える。15分ほどで目的地にたどり着き、神田の運転免許更新センターへ。朝イチだからかそこまで混み合ってもおらず、ソーシャルディスタンスを保つように貼られたバミリにしたがって歩き、お金を払って写真を撮影され、9時からの講習を受ける。席は満席にならなかった。講習は例によって淡々とした調子で進む。35分ほど口頭で話があったのち、DVDが再生される。こちらも淡々とした調子で進み、居眠りしている人も多い。この映像を、たとえば芸人やYouTuberを起用したり、映像作家や演出家に入ってもらったりして、もっとセンセーショナルで情感に訴えかけるものにすることだってできるだろう。でも、そうなってしまうと何かが失われてしまう気がするから、ずっとこの退屈な感じであってほしいなと思う。

 10時には新しい免許を受け取り、センターをあとにする。今日は「ポカポカ陽気に」とテレビが言っていたけれど、どこか肌寒い。約束の時間まで余裕があるので、一度アパートに戻り、スプリングコートから冬のコートに着替えて、マフラーも巻いて出直す。11時半に自由が丘駅前で待ち合わせて、企画「R」に出演する皆と散策。ずっとまっすぐな道を歩き、上野毛から二子玉川公園へと坂をくだる。二子玉川ライズにあるマクドナルドでお昼ごはんを買って、レンタサイクルを借り、河川敷でお昼ごはんにする。その意味を気づいていない人もいるだろうけれど、今日のお昼は――このコースを歩いてきたのであれば――マクドナルドしかないなと思っていた。食事を終えると、多摩川を遡るように自転車を走らせる。数ヶ月前と違って、堤を傘増しする工事が行われていて、堤の一部は通れなくなっていた。

 15時に京王閣まで辿り着き、近くのポートで自転車を返却する。ちょうど第1レースが始まるところだったので、まずはレースを観てから、「まくり屋」に移動する。表のテーブル席は、片側にだけ椅子が置かれている。これ、対面で座らないほうがいいですかねと尋ねてみると、どうなんですかねえ、外だし、別に平気だと思うんですけどねえ、それにこの時期に競輪場までくるお客さんはコロナ覚悟できてるんだろうしねえ、と言いながら、椅子を出してくれる。皆それぞれ食べ物や飲み物を注文して、頬張りながらそれぞれ予想を立てている。競輪って当てるのが難しいのだと、Fさんと一緒になって話していたら、A.Iさんがいきなり予想を当てる。配当は200円ぐらいのカタイ勝負だったとはいえ、いきなり当てるとは――と思っていたら、次のレースも的中させ、「当たった!」というので、ふてくされたふりをする。思いのほか皆夢中で予想を立てて車券を買っていたのでホッとしながら、ビールや日本酒を飲んだ。風が冷たくなってきたので、第5レースまで見たところで切り上げて、京王多摩川駅に引き返す。

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 ケータイを確認すると、WEB本の雑誌の連載「東京の古本屋」が更新されていた。今回取材させてもらったのは「北沢書店」で、神保町のお店を取材したのはこれが初めてだ。どうして「北沢書店」に話を聞かせてもらいたいと思ったのかには、いくつか理由がある。ひとつには、ひとつ前の回で「コクテイル書房」を取材したときに、店主の狩野さんから神保町にあった「」で働いていた時代のことを聞いたことの影響もある。その話から思い出されたのは、坪内さんの『人声天語』だ。『文藝春秋』2005年10月号(つまり9月10日ごろに発売された号)に掲載された回のタイトルは「洋書屋消滅」だ。

 

 明治、大正、昭和、戦前戦後を通じて、日本には、洋書文化というものが確かにあった。

 そういう伝統の中で私は知的成長をとげていった。

 私が学生の頃、神保町には、北沢書店だけでなく、東京堂書店の洋書部があり、米文学者蟻二郎の経営するワンダーランドがあり、古書の東京泰文社や松村書店があり、三星堂の洋書部も今よりずっと洋書屋らしかった。銀座にはイエナがあり日本橋には丸善があり、早稲田大学の地元の高田馬場にはビブロスがあり、渋谷大盛堂書店の洋書部も面白かった。

 実は、これらの洋書屋は、つい数年前までは健在だったのだが、ここ四〜五年で、殆ど消えた(丸善は丸の内に移り、洋書にもそれなりのスペースがとられているが、あの洋書コーナーは、日本の洋書屋というよりは国際ビジネス都市のブックショップという感じがする)。

 

 そうした「洋書屋文化」の消滅を決定づけるのが、北沢書店の「閉店」だと坪内さんは書く。

「今月(八月)の初め」に北沢書店を訪れた坪内さんは、「一階の店内で、全点七〇%オフのバーゲンセール」と出くわす。その数日後に出た『新文化』には、北沢書店の一階が「ブックハウス神保町」となることを知らせる記事が掲載されていた。「そのオープンに合わせて北沢書店も二階部分で新たなスタートを切るのかもしれないが、従来のオーソドックスな洋書屋ではなくなるだろう」とし、これは「北沢書店の事実上の消滅」だと、坪内さんは書いていた。 

 

 もともと私はたいして英語を読む力がなかった。

 そんな私が大学院に入る頃に、どうやら英語の本を読めるようになったのは、先に名前を挙げた洋書屋のおかげである。

 初めて北沢書店に足を踏み入れた時、私は、棚にずらっと並んでいる横文字の本の背表紙のタイトルと著者名をたどたどしく目で追うだけで精いっぱいだった。

 タイトルと著者名をすぐに認識できるようになったら楽しいだろうな、と私は思った。

 そうなるまでに一年以上かかった。

 それから一年ぐらいして、面白そうな本や著者を選ぶカンが生まれた。さらに一年後、立ち読みができるようになった。

 ネット書店では、洋書と、このようなプロセスをふむことができない。

 

 この原稿を『文藝春秋』で読んだ1ヶ月後、「ブックハウス神保町」がオープンし、2階で古書部門のみで「北沢書店」がリニューアルオープンした初日に、ぼくは神保町に出かけた。1階にはたしかテレビカメラもあり、賑やかだったけれど、ぼくは階段を上がってまっすぐ2階に上がった。そこでT.H.グリーンの洋書を買った記憶がある。その本を、ぼくはきちんと読むことができなかったし、大学院をやめてからは英語に触れる機会からも遠ざかってしまった。そうして15年が経って、読書委員になってみると、2次会として使われていたのが「ブックハウスカフェ」だった(コロナの影響で、2次会が開催できていたのは最初の数ヶ月だけだったけれど)。

 そうして数ヶ月が経ったころに、「北沢書店」の記事が炎上しているのを目にした。あの北沢書店が、ディスプレイ向けに洋書を販売するなんて――と。その日の日記にも書いているけれど、ぼくはとてもじゃないけどそのことを批判できる立場にないなと思った。ディスプレイ向けに洋書を販売するというアイディアは、洋書が売れなくなったなかで、どうにか店を存続させられないかと生み出されたものに違いない。だとすれば、その状況を生み出したのは、洋書文化を引き継がなかったわたしたちにある。そんな気持ちもあったことから、外側から勝手な判断をするだけでなく、お店を経営する方たちにしっかり話を伺って、記事を書きたいと思ったのだった。

 面識がなかったこともあり、取材の前に一度、ご挨拶に伺った。一郎さんは『市場界隈』を読んでくださっていて、「この方は、お店の業態ということ以上に、人間を描こうとしているんだな」と感じました。原稿に出すかどうかはさておき、橋本さんが質問されたことにはすべてお答えするつもりでいますから、どうぞ存分に取材してください」とまで言ってくださった。その言葉に応えられるだけの記事にしなければと、緊張しながら3日間取材させてもらって、半月かけて記事を書いた。かなり踏み入った話も記事として残したこともあり、一郎さんや妻の恵子さん、長女の里佳さんは、1ヶ月近くかけてじっくり原稿を確認してくださって、今日の公開にまでたどり着いた。一人でも多くの人に読んでもらえたらなと思う。