12月18日

 7時過ぎに目を覚ます。界隈を散策すると、「ポーたま」に少し行列ができている。観光客が戻ってきているようで何より。11時に「かどや」へ。いや、昨日は寒かったですねと伝えると、「東京からきても、寒いと感じます?」とお店の方が笑う。いや、私たちはすっごく寒く感じるけど、観光できてるお客さんなのか、半袖で歩いている人もいてびっくりして――と。ロースそばをいただく。宿に引き返して、原稿を書き始める。ベッドに腹這いになって書いたり、仰向けになって書いたり、たまにテーブルで書いたり。15時過ぎに完成し、ファミリーマートで出力して、取材させていただいた方に手渡しにいく。

 界隈を散策しながら、今後の取材のことをぼんやり考える。Uさんのお店は別の方が店番をしている。霧雨が降ったりやんだり。のうれんプラザに向かうと、ちょうど「丸安そば」の前に店主のNさんの姿があり、ご挨拶。過去の記事のコピーを渡していたものの、「あんなに大きく載るとは思わなくて、びっくりしました」とNさんは笑う。いろんな人から「新報に載ってたね」と言われて嬉しかったとおっしゃっていただき、ほっとする。付き合いのある銀行員の方が、僕のことを知ってくださって(『市場界隈』も読んでくださって)いたらしく、「ええ、この方に取材してもらったんだ?!」と驚いていたそうだ。自分の書いたものを銀行員の方に読んでもらえるのは、新報で書かせてもらっているおかげだろう。

 昨日から冷え込んでいることもあり、ほとんど外飲みに近い市場界隈のせんべろのお店は空いているかと思っていたけれど、どこも大賑わいだ。16時50分、「パーラー小やじ」に行ってみると、表のテーブル席が空いている。店員さんに尋ねてみると、やはりNさんが電話をかけて予約しておいてくれたテーブルだったので、そこに座ってビールを注文。17時ちょうどにNさん夫妻がやってきて、「乾杯」。近況をしばらく話したあとで、やはり「オミクロン株、確認されましたね」という話になる。Nさんはさまざまなイベントを担当されているが、緊急事態宣言が取り下げられてからも、「絶対にまた感染が拡大するときがやってくるから、感染症対策を徹底して、客席を間引いてイベントを開催するように」と上司から言われているという。

 18時半から予定が入っていたNさん夫妻と別れ、ひとりで栄町市場まで歩き、「東大」。昨晩「よいお年を」と言っておきながら、結局今日もきてしまった。最近は17時オープンとあって、もう食事を終えて会計をしているお客さんもいる。僕はカウンター席に座って、ミミガーとマメの刺身をツマミながら、iPadで再校を読み返す。ボトルを半分近く飲んで、最後におでんも平らげる。あらためて「良いお年を」と挨拶して、市場界隈まで引き返す。

12月17日

 5時過ぎに目を覚ます。7時過ぎに散歩に出てみると、かなり強い風が吹いていて、ちょっと歩きづらいほど。ローソンでホットコーヒーと鮭のおにぎり、それに豚汁を買って帰る。10時にホテルをチェックアウトし、博物館を覗く。前にも見たことがあるけれど、何か重大な見落としがないか、もう一度常設展を見ておく。今日は夕方に那覇に戻ればいいだけなので、せっかくだからと町営市場にも立ち寄る。オープンしたばかりの「きしもと食堂」にするりと入れそうだったので、駐車場に車を停めて、そば(大)を注文。食後に市場でコーヒーを買いたかったのだけれども、「みちくさ珈琲」はシャッターがおりたままだ。

 

 ナビの目的地を残波岬にセットして、沖縄自動車道を南下する。石川インターで降りて、読谷村へ。途中で眞栄田岬のあたりを通りかかると、妙にアメリカな雰囲気が漂っている。瀬名波の交差点、道がちょっと複雑で、前に通りかかったときと同じように右折しそびれてしまう。細い道を抜け、どうにか正しいルートに戻り、「Cape Zanpa Drive-In」へ。まだお腹が減っていないので、自家製コーラ(500円)だけ注文。インスタグラムをフォローするとステッカーがもらえるようなので、フォローして受け取る。「いつオープンされたんですか?」「ドライブインってつけたのは、何かきっかけがあったんですか?」と、ついつい質問してしまう。

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 テラス席でコーラを飲みながら、再校に赤字を入れていると、オーナーの方が話しかけてくださる(さっき質問した店員さんが伝えてくださったのだろう)。沖縄は昔ながらのドライブインが数多く残っているものの、新しくオープンしたドライブインというのは聞いたことがなかったので、珍しくて気になったんです。そう伝えると、関東だと「Pacific Drive-Inn」もありますけど、ここで何かお店をとなったときに、ドライブインというイメージがパッと浮かんだのだと、オーナーの方が教えてくださった。「Pacific Drive-Inn」は湘南にあるおしゃれなドライブインで、ドライブインの取材をしていた時期だと、この10年で新規オープンしたドライブインといえばそのお店くらいだったように記憶している。

 『ドライブイン探訪』を出したあと、いくつか取材をしてもらったときに、「ドライブインの今後は?」と尋ねられることもあった。多くのドライブインには後継者がいなくて、「これからの時代はドライブインで食っていくのは厳しいと思うから、こどもたちには継がせない」とおっしゃる店主もいた。だから、「ドライブインの今後は?」と質問されても、ごにょごにょと言葉を逃していた。でも、ドライブインの黄金時代が過去に遠かったことで、巡り巡って、ドライブインが古くて新しい文化として、(かつてほどではないにしても)各地にオープンする可能性も、ひょっとしたらあるのかもしれないなと思う。その「ドライブイン」は、かつてのように和風に翻訳されたものではなく、現地の雰囲気に限りなく近いのではないかと思う。

 30分ほどテラスで過ごして、店をあとにする。天気は悪くても、こども連れのお客さんで賑わっていた。車を走らせていると、残波でおなじみの比嘉酒造の前を通りかかり、「いつもお世話になってます」と会釈して通り過ぎる。読谷のパン屋「水円」に立ち寄って、スコーンと黒糖パンを買う。しばらくロバを眺めて、国道58号線を南下し、那覇市泊に先月オープンしたばかりの「古書ラテラ舎」へ。以前はりうぼうの「リブロ」で店長をされていたTさんが夫婦で始めたお店。真新しい店舗に、沖縄本や文芸書、音楽や映画、思想・哲学系の本、漫画や絵本と幅広いジャンルが並んでいる。棚をじっくり見つめていくと、『月刊ドライブイン』の創刊号が棚の上に陳列されていてびっくりする。『HB』(vol.2)もあって、ふたたび驚く。古本屋さんに自分がたずさわった本が並んでいると、自分がいなくなったあとでも誰かが本を手に取ってくれるような感じがして、嬉しくなる。

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 ホテルにチェックインしたのち、レンタカーを返却し、タクシーで市場界隈へ。まずはUさんのお店に立ち寄る。「12月はいらっしゃらないのかと思ってました」とUさん(11月の滞在中に、1月に掲載する回まで取材を終えていたので、「来月はこないかも」と伝えていた)。白い長袖シャツの上にアディダスのジャージを羽織っていたら、「学生みたいですね」とUさんが言う。前回の滞在のあとに、公設市場のリニューアルオープンが一年延期になると発表されているけれど、Uさんも「ショックだった」という。あれこれ話し込んでいるうちに小一時間経っていて、あれ、そろそろ閉店の時間かもと、話を切り上げておいとまする。

 「パーラー小やじ」に入り、生ビールを注文。“離れ”のようになっているカウンター席を広々使わせてもらう。今日は風が冷たく、3杯目は熱燗にした。いちどホテルに引き返し、『水納島再訪』の「はじめに」と「おわりに」の修正案を練ったのち、21時過ぎにふたたび外に出る。コートを羽織ってもまだ少し寒いくらいだ。沖縄で取材を始めた3年前には、沖縄に暖房器具があるのが信じられないと思っていたのに、これは一体どういうことだろう。「東大」を除くとカウンター席には先客がいらして、奥の広いテーブル席に案内される。いつもひとりだから、このテーブル席に案内されるのは、数年前に『みえるわ』という作品のツアーで沖縄を訪れたとき、スタッフも含めて皆で訪れて以来だ。テーブルには透明なビニールが敷かれていて、ビニールとテーブルのあいだには名刺がずらりと並んでいたけれど、今はすっかり片付けられている。ただ、そこに新聞記事の切り抜きが挟まれていて、その新聞記事というのは、僕が『市場界隈』を出版したときにタイムスに掲載された記事だった。この席に座る機会がなかったから、ずっと気づかなかったけれど、そうか、こんなふうに記事を貼ってくれていたのかと、しみじみした気持ちになる。

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12 月16日

 6時に目を覚ます。シャワーを浴びて荷造りをして、7時にホテルをチェックアウト。この時間帯でも、西原インターのあたりは少し渋滞していた。芸人のラジオをBluetoothスピーカーで聴きながら車を走らせ、8時半には本部町に辿り着く。コンビニでミックスサンドとどん兵衛(特盛)、それに缶ビールを買って、今晩宿泊する宿に車を駐車し、歩いて渡久地港へ。9時発のフェリーには、観光客が3、4組だけ乗船していた。僕はカメラを手にデッキに立ち、水納島の写真を撮っておく。4月から5月にかけて何度か水納島を訪れたときにも写真を撮っていたけれど、その時期は晴天の日がなくて、きれいな海と空を写真に収められずにいた。

 9時15分に水納島に到着してみると、砂浜が黒く煤けた感じになっている。漂着した軽石が打ち上げられている。桟橋を覆うほどではないとはいえ、波打ち際には少し軽石が漂っていて、薄茶色く濁っている。Yさんの車に乗せてもらって、「コーラルリーフ・イン・ミンナ」へ。宿泊するわけでもないのに(本当は宿泊したかったけれど、明日は船の結構がほとんど確定している)、お世話になってばかりで恐縮する。今日はトートーメー(位牌)のお引っ越しがあるそうで、いつもより少し忙しない雰囲気が漂っている。今回水納島を訪れたのは、「予定通り年明けに本が出せそうです」という報告と、本に掲載する地図を確かめるためだった。国土地理院の地図は、どうも記憶と少し違っている箇所があったのと、井戸の位置がGoogleマップなどでは把握できなかったのとで、地図を確認したかったのだ。荷物を置かせてもらって、島を散策してまわる。

 地図の確認が終わると、カメラを手に海に向かう。今更間に合わないかもしれないけれど、晴天の日の海を撮影して送れば表紙の候補になるかもしれないと、いくつかの構図で何枚か写真を撮っておく。しばらく海辺で過ごしていると、11時過ぎ、小型船がやってくる。トートーメーのお引っ越しのために、船をチャーターして、ユタにきていただいたそうだ。12時過ぎ、Yさんに連れられて、Nさんのおうちに出かける。Yさんは一度家に戻り、Nさんとふたりでお話しする。以前は夜の浜で釣りをして過ごすことも多かったそうだけど、最近は回数が減ったそうだ。軽石が漂着したことで、かつては月夜の晩には白く輝いていた浜がどんより暗くなり、ちょっと不気味な感じがして、夜釣りの回数が減ったという。

 Nさんは今年、古希を迎えた。学校の教員をしていたNさんは、定年退職を機に「ゆっくり過ごそう」と、水納島にも家を構え、沖縄本島水納島を行き来しながら暮らしている。その生活を始めて10年が経ち、平均寿命まで生きると考えるとあと10年かと、少し寂しく思うこともあったという。でも、少し前に、自分よりパワフルな年長者と出会ったことで、勇気をもらったのだと、Nさんは顔をほころばせる。「今から10年後に、この島がどんなになっているか、見届けたいなと思っているわけよ。橋本さんも、これから年に1度でも島に通ってみたら、貴重な記録になるんじゃないかと思いますよ」と。

 トートーメーのお引っ越しに向けて、ユタの方と一緒に、親族の方達が車で井戸に向かうのが見えた。しばらくすると、車が引き返してきて、今度は拝所のほうに進んでゆく。しばらくすると、半パンからジーパンに着替えたYさんが戻ってきて、「もう少ししたら行きましょうかね」とNさんに声を掛ける。トートーメーのお引っ越しは、親族だけでとりおこなわれるのではなくって、この島に暮らしている人たちも参列しておこなわれるのだというこの島に長らく暮らしてきた故人が、亡くなっているとはいえ遠く離れた場所に引っ越すとあって、皆でお見送りをするのだ。これまでは那覇に暮らす遺族の方が、行事ごとのたびに島に帰ってきて位牌を見ていたけれど、それも大変だからと引っ越しをすることになったそうだが、あらためて、位牌というものの存在の大きさを感じる。

 Nさんちをあとにして、宿に引き返す。島の方たちがお引っ越しのある家に集まり始めている。法事ではないので喪服を着るわけでもなく、ただいつもの普段着とは違って、暗めのトーンの服に着替えている。お昼用にどん兵衛を買ってあったものの、勝手に台所に入ってお湯を沸かすわけにもいかないので、缶ビールを飲んで腹を満たす。さっきNさんが言っていた言葉を反芻する。10年も経てば、島の風景は大きく移り変わっているだろう。変化の様子は未来の自分に任せるとして、現在の様子をもう少し写真に撮っておこうと、撮りそびれていた場所を探すように島内を散策する。トートーメーのお引っ越しをしているおうちの前を通りかかるときは、カメラを反対側に隠して、おうちに視線を向けないようにして通り過ぎる。海辺に佇んでいると、お引っ越しの儀は終わったようで、ユタの方と親族の方が桟橋にやってきて、チャーター船に乗り込んで出港してゆく。

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 宿に帰ると、精進落としみたいなものだろうか、Yさんがお弁当を1個分けてくれる。巻き寿司2個と、いなり寿司1個、かまぼこ、卵焼き、唐揚げが入っている。それをツマミにビールを飲んだ。15時過ぎ、同じ便で本島に渡るYさんと一緒に桟橋に向かう。朝はわりと穏やかだったのに、午後から強い風が吹き始めて、水納港に入ってくるときにフェリーは一度切り返していた。デッキに立って過ごしていようと思っていたら、出港した船は揺れに揺れ、しゃがみこんで手すりを掴む。港でYさんと別れ、本部町営市場近くの魚屋さんで刺身の盛り合わせを買って、宿まで20分近くかけて歩く。チェックインして、ベランダから横目に海を眺めつつ、地図に修正を加えたデータと、追加で撮影した写真をメールで送っておく。

 18時過ぎ、Yさんから電話がかかってくる。夕方には用事が終わるので、よかったら飲みましょうと誘ってもらっていたのだ。海運会社の方にも声をかけてくださっていたらしく、その方の行きつけだという酒場に向かう。普段は満席で入れないこともあるそうだけれども、今日はまだ先客がおらず、奥のテーブル席に座り、ビールを注文。最初のツマミとして注文したのは、フライドポテト、ほうれん草のサラダ、それにTボーンステーキ。「沖縄では〆にステーキを食べる」という話はよく聞くけれど、こうして初っ端から頼むこともあるのかと圧倒される。Yさんがステーキを切り分けてくれて、ふたりともぺろりと平らげる。ぼくも取り箸で何切れか自分の皿に取り分けて、冷めないうちにと食べていると、ふたりは続けて、霜降り牛のステーキを注文している。海運会社の方はしばらく勤務がないということで、ビールをひたすら飲み続けている。ぼくとYさんは泡盛を1本半飲んだ。今日は他にお客さんがやってくる気配もなさそうだから早く閉めると店主が言うので、21時過ぎにはお開きとなり、ホテルに引き返す。

12月15日

 7時過ぎに目を覚ます。午前のうちに検査結果が届き、無事陰性だとわかる。11時半にタクシーを拾って日暮里駅へ。スカイライナーは残り346席で、たっぷり余っている。11時45分発のスカイライナーに乗り、成田空港にたどり着く。やっぱり早朝よりこの時間のほうが人が少ない気がする。チェックインして荷物を預け、マスクを外して談笑する人がちらほらいるなあと怯えつつ、リンガーハットのちゃんぽんを平らげる。飛行機はがらがらで、並びの3席をひとりで使っている状態だ。今日は乗客が少なそうだったので、窓側の席を選んであった。フライト中はiPadで『ロッキー』を観ながら、ときどき窓の外に目をやる。富士山がとても綺麗だった。窓側を選んだのは、上空から水納島を眺めたかったからだけど、今日の航路からは水納島は遠くにしか見えなかった。

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 16時半に那覇空港に到着し、ゆいレールで県庁前に出て、スカイレンタカーで車を借りる。特にナビは使わず、国道58号線から松山の交差点を右折し、県庁前を通り過ぎ、開南方面に左折する。右車線を走ってしまっていたので、開南の交差点を右折し、「まあ、ここで右折しても、どっちにしても330号戦に出るから問題ないだろう」と思っていたら――これが大失敗だった。時刻は17時10分、330号線は大渋滞で、ほとんど動く気配が見えない。数分に一回、車数台ぶんだけ前に進める。たった1キロの距離を1時間近くかけて進んで、ようやく「HOTEL AZAT」にたどり着く。この道路はきっと、いつも混むのだろう。国際通り〜蔡温橋を右折というルートを選べば、ここまで酷い渋滞には巻き込まれずに済んだはずで、今後はこのルートを避けるようにおぼえておく。去年の11月に知人と一緒に沖縄を旅したときにもこのホテルに宿泊して、この地下駐車場への入り口がわからなかった上に、本当に駐車できるのかという狭いスペースしか残っていなくて大変だったなあと、地下の駐車場を目にした瞬間に懐かしく思い出す。

 ホテルにチェックインして、シャワーを浴びたのち、「うりずん」を覗く。ちょうど開店時にやってきたお客さんが帰り始めたタイミングのようで、カウンターが空いていたので入店。店長のSさんから「橋本さん、ずっとこっちにいるんですか?」と尋ねられ、いえいえ行ったり来たりしてますと答えて、1杯目のビールを飲んだ。ビールを2杯飲んで、白百合を2合。あとから隣に座ったお客さんはプロスポーツ選手らしく、すらりとした姿に、テーブル席で模合をしていたお客さんに声をかけられ、一緒に写真に撮られている。カラカラを飲み干したところでお店を出て、隣の酒屋さんの前を通りかかると、ゴン太の姿は見当たらなかった。ベッドがわりの段ボールも見当たらず、少し動揺しながら「東大」に流れ、カウンターでおでんをつまんだ。カウンターに置かれたテレビでは、「新たな沖縄振興法は5年に」とニュースが報じられている。

 おでんを食べ終えたところで酒屋に引き返し、「あれ、ゴン太は」と尋ねる。ああ、ゴン太はね、3週間ぐらい前だったかな、そこの道路で事故に遭って、とお店の方が言う。昔からずっと放し飼いになっていて、夏の暑い日にはクーラーの効いたATMに入り込んでいることもあった。酒を飲んだ帰りにその姿を見つけ、「これ、ゴン太! ここはもうすぐシャッターが閉まるけ、帰れんようになるで!」と話しかけて、どうにか外に出させたこともあった。最近はすっかり年老いて、ほとんど寝たきりになっていた。でも、最後にその姿を見た一ヶ月前には、よろよろと表を歩き回っていた。その頃にはもう、ほとんど目は見えなくなっていて、慌ててお店の方が止めていた。轢かれてしまって、ゴン太は苦しかっただろうか。それともそんなに苦しむこともなく逝けたのだろうか。缶ビールを買って、宿に引き返す。

12月14日

 17時過ぎ、クリーニング屋でジャケットとコートを受け取り、それを羽織って出かける。まずは秋葉原PCR検査。もうすっかり慣れたつもりになっていたけれど、受付方式が変わっていて、「もう情報はご登録いただいてますか?」と尋ねられて慌てる。過去に感染したことはあるか、発熱などはあるか等のアンケートに加えて、もしも陽性だった場合に指定の医療機関にかかることへの同意書。これまでは現地で書類に記入していたけれど、ウェブで事前に手続きをする方式に変わっていたようだ。急いでフォームに記入したのち、唾液を提出する。

 山手線で神田駅に移動し、Googleマップに従って歩く。駅に向かって歩いてくるサラリーマンが大勢いる。道の両脇にはずらりと飲み屋が続いている。こういう場所もあるのだなあ。普段見ているのとは別世界のようだ。サラリーマンの姿が見えなくなったあたりで大通りに出て、信号を超えると、KKRホテル東京が見えてくる。今日はここで読書委員会の懇親会が開催される。去年は感染が拡大している時期だったので、いつもの会議室に集まってそれぞれ挨拶をしただけで終わったけれど、いつもはここで開催されるのだという。

 立食ではなくテーブルにつくスタイルだというので、一番隅っこの円卓に座る。隣になったのは、同じく去年から委員を務めてきた方で、年少寄りだったこともあり、隣の席になる機会も多かった。まわりには記者の方が座り、18時半になると乾杯の挨拶。シャンパンで乾杯すると、次から次へと料理が運ばれてくる。早く皿を片づけなければというのと、テーブルマナーに慣れないのと、張り巡らされたアクリル板で声がかき消されるのとで、とても忙しない気持ちになる。しばらくビールを飲んだあと、白ワインに切り替える。まずは来年も続投される委員の方の挨拶があり、間を置いて、今年で任期を終える委員の挨拶がある。委員の任期は基本的に2年なので、ぼくもこちら側で、どんな話をしようかと緊張する。そんなことで緊張している委員は僕ぐらいのものだろう。

 最初に打診があったとき、「ご都合のよい場所まで伺います」と言ってもらったものの、きっと別の誰かと間違えて依頼があったのだろうと思うと足を運んでもらうのは申し訳なくて、こちらから新聞社に出向いたこと。どうやら間違いではなかったことがわかり、身を引き締めつつ、毎回15分前には会議室に到着して、一番乗りでじっくり本を眺めたこと。また、委員会の端っこには缶ビールが数本置かれていて、(委員の何名かは)ビールを飲みながら議論するのが伝統らしく、その伝統を絶やさないようにと、いつも編集委員のH.Gさんがビールを手に取り、続いてN.Tさんがプシュッと開けたのを確認してから、缶ビールをそっと取ってきて飲んでいたこと。去年まで委員を務められていた方だと、S.Yさんもビールを飲んでいたひとりで、Sさんはよく自分で本を持ち込んで、自分で書評するつもりがなさそうな本でも皆に回し、回覧してもらっていたこと。去年の懇親会の場で、その理由を尋ねたところ、そうしてたくさん回覧してもらうことで活性化させられたらと思っていたのだと語っていたこと。今年はリアルで開催される機会が少なく、「たくさん回覧させる」という部分は引き継げなかったけど、委員会に並ばなそうな本でも「これは」というものを書店で探してきて、回すようにと心がけていたこと。緊張しながら話す。

12月10日

 6時過ぎ、知人が身支度をする音で起きる。昨日は飲んで帰ったから話をしっかり聴きそびれてしまったけれど、なにか仕事の用事があって早く出かけるようだ。昨晩はわりと酒を飲んで、酒を飲むといろんなことをぐるぐる考えてしまうので、その余韻を引きずったまま午前中は過ごしていた。昼、ボンゴレソースを買ってきてお昼にする。残念な気持ちになりつつ食器を洗い、新宿に出る。14時、『CYCLE』観る。いわきのプロジェクトに参加していたHさんも観劇にいらしていたので、終演後は一緒にお茶をする。サザンテラスのスタバはほぼ満席だったけど、その向こうにあるイタリアンダイニングはガラガラだったので、そこに入店。

 ふとケータイを確認すると、RK新報の担当記者の方からメールが届いている。開いてみると、先月末の記事について、抗議の電話があったとの由。視界が暗くなる。吹っ切ることは難しく、すみません一本電話していいですかとHさんに断って、記者の方に電話。電話を切り、Hさんと1時間半ほど話す。17時に店先で別れ、ひとりで思い出横丁「T」へ。ぐるぐる考えながら、やっぱりここは、わざわざ電話をかけようという気持ちにまで至った方に話を聞きに行くしかないのではという気持ちに落ち着く。

 19時半、『DELAY』を観劇。最後のレクイエムがずしりと残る。客席にうっすら灯りがつくシーンが2回あり、観客に誤解を与えるのではないかという気も残るけれど、あれはいつか思い出す日に向けて灯されているのだろう。終演後、Fさんにすっと黒ラベルを手渡される。これは持ち帰るのではなくてこの場で飲み切ろうと、ハンカチでくるみ、隅っこでプシュっとあける。終演後もマーケットのような物販コーナーはしばらく開いていて、そこで靴やグッズを物色しているお客さんたちの姿をぼんやり眺めつつ、ビールをゆっくり飲んだ。途中で少しFさんとも言葉を交わす。インタビュー、チェックも終わって、明日から公開します、ありがとうございます、とFさん。また話したくなるかもしれませんけどと言うので、ぜひぜひと伝えて、LUMINE 0をあとにする。

 中央線と千代田線を乗り継ぎながら、ケータイを眺めていると、12月29日に梅田の蔦屋書店でトークイベントが開催されるとの情報を見つける。こんな時期だともう新幹線は予約で埋まっているかと思ったけれど、時間帯を選べば空きがありそうだ。使い勝手の悪いインターフェースをぽちぽち我慢強く操作して、最後列に空席がある便を探し、予約しておく。帰宅後、シャワーを浴びて、知人と『浅草キッド』を観る。ビートたけしに関心は湧いたけれど、その時代の人がそんな歌い方を、そんなしゃべりかたをしたのだろうかと気になってしまう。漫才をやろうと思うと告げるたけしに、師匠が「漫才なんて」と語る場面が印象的だった。

 コント/軽演劇の道を歩んできた師匠から出た言葉だから、すんなり聞き流してもよいのだけれど、この時代に漫才はどういう印象を持たれていたのだろうかと考えてしまう。1970年代前半はコント55号ドリフターズが大人気だったはずで、その時代はコント/軽演劇の軽妙さ、モダンさ、洒脱さ(そこには舶来の匂いがある気がする)が受けていたのだとすると、日本の伝統的な演芸である漫才は結構古くさいイメージを帯びていたのではないか。そして、それをひっくり返したのが漫才ブームだと考えると、そのインパクトの大きさを思う(ただ、自分がこどもだった頃を振り返ってみると、その時代もまた漫才よりはコント番組のほうが目立っていた気がするから、M-1グランプリがふたたびイメージを転換させたのだろう)。『浅草キッド』を観終えたあと、「THE MANZAI」で披露されたツービートの漫才の動画を探して見る。この舞台セットや、「THE MANZAI」という文字面は、同時代にどういう印象を与えていたんだろう。フライデー襲撃事件後の会見動画を見て、その姿に引き込まれる。

12月9日

 7時過ぎ、上の階からこどもが飛びはねる音がして目が覚める。こう書くと、どうしても騒音に不満を抱いているようになってしまうけれどそんなことはなく、朝からあんなにエネルギーを爆発させられるんだなあと思うのと同時に、もう洗濯機を回しても大丈夫だなと思うだけだ。今日は洗濯物がかなり溜まっているので、早々に洗濯機をまわして、ゴミを出す。昨日整理した領収書を机に並べて、未登録のままになっているデータを「freee」に登録していく。

 もうちょっとお腹が減ってからたまごかけを食べようと思っているうちに、気づけば10時半を過ぎている。これならもう、朝ごはんは食べなくていいかとコーヒーだけ飲んだ。ここ数日は自分の食欲を意識しながら過ごしている。数日だけでも感覚は変わるものだなと思う一方で、自分の意識や身体を管理したところで何になるのかという気持ちも湧く。12時にパスタを茹でて、落合シェフのカルボナーラソースと和えて平らげる。まずくはないのだけれど、ベーコンがやっぱりレトルト食品で、自分で作っていたキャベツとベーコンのパスタのほうが満足感はある。

 午後は風呂に湯を張り、入浴しながら『言葉を失ったあとで』を読む。少し読んでは閉じ、少し読んでは閉じと繰り返しているので、ようやく半分ぐらい。16時半に家を出て、新宿へ。今日は久しぶりの観劇なので、ちょっと浮かれた気分のまま思い出横丁「T」。瓶ビールを注文して、さてツマミは何にしようかとメニューを見る。壁に貼られていたメニューは姿を消していて、黒板に書かれた本日のおすすめと、あとはラミネート加工されたメニューがカウンターに数個置かれている。黒板に目をやるとたこさんウィンナーがあり、おお、今日これから観る作品でも「たこさんウィンナー」が登場するんだよなと注文。瓶ビールを3本飲んだ。

 18時50分に「LUMINE 0」へ。19時になると開場し、特に整列させられることもなく、ぞろぞろ入場する。下手の端っこの最後列にマフラーを置き、展開されているtrippenの靴を眺めたり、別作品の舞台装置を眺めたり。19時半、『BEACH』が開演。一ヶ月ちょっと前に善通寺で観た上に、台本と記録映像も送ってもらってここ10日間ぐらいぐるぐる考えていただけに、前回とは違った解像度で作品が見える。耳に残ったのは音だった。終演後、ZAZEN BOYSの「ASOBI」を聴きながら街を歩く。イルミネーションが灯っている。甲州街道明治通りの交差点を通りかかり、ああ『トーキョードリフター』のオープニングはここだったなと思って立ち止まり、写真を撮り、前野健太「鴨川」を再生する。

 新宿三丁目「F」で焼酎の水割り。店員以外マスクなんて誰もしていない。真隣りに座ったお客さんがマスクをカウンターに置き、しゃべりだしたことにそわそわしてしまう。小一時間ほど過ごしたのち、地下鉄を乗り継いで根津のバー「H」に入ると、今日も賑わっている。端っこの席に座り、無言のままハイボールを出してもらったあとで、「すみません、そこにあるビフィーターを使って、何か甘めのカクテルを作ってもらえませんか?」とお願いする。Hさんはジンフィズを作ってくれた。ここでもお客さんは誰もマスクをしていなくて、楽しそうに飲んでいる。そんなことに神経質になる人間はもう、酒場に足を運ぶべきではないのかもしれない。夕方、チャンネルをTBSに合わせていると、ニュースキャスターが「ゼロリスクはありえない」「他にも気にするべき感染症はある」と強調してから、新規感染者数を発表している。帰り際、Hさんに、こないだ読んだ小説に、ビフィーターばかり飲んでいる男が、それもたっぷり砂糖を溶かして飲んでいる男の小説が出てきて、それを読みながら、今度ここにきたら甘いカクテルを作ってもらおうと思っていたんですと伝え、お店をあとにする。