マーム同行記3日目
朝8時半、ホテルのロビーに集合する。迎えのクルマは少し遅れているらしく、ソファに座って待機する。あんまり静かなものだから、「このメンツ、僕がいなかったらどうなってたんだろう」と藤田さんが笑っている。藤田さんは最初、『小指の思い出』の公演が終わるまで日本に残る予定だったから、そうするとボスニア公演は藤田さん抜きでやることになっていたのだ。
「もし俺がいなかったら、誰が一番しゃべってたのかな。やっぱ波佐谷さんかな」
「俺、今は結構抑えてるよ。橋本さんのフィレンツェ日記読んでたら、バカみたいなことばっかしゃべってるから」
迎えのクルマは10分ほど遅れて到着した。渋滞に巻き込まれていたのだという。門田さんがドライバーの男性に「よく寝れましたか?」と英語で訊ねると、男性は首を横に振る。彼は夜番で、一晩中働いていたそうで、僕らを送り届けるのが今日の最後の仕事。好きな食べ物は何かと門田さんが訊ねると、「肉が好きだ」との答え。彼のキッチンにはいろんな肉が常備されていて、野菜はまったく置かれておらず、肉がないならもう食事をしないと豪語する。「アイ・ライク・オール・ミート」と語る彼は肉食男子だ。――と、こうした話を引き出したのはすべて門田さんだ。門田さんはとても物腰が柔らかい。
朝9時、会場に到着した。ガラス張りの建物の入り口には「J.U.MEDUNARODNI CENTAR ZA DJECU I OMKADINU NOVO SAEAJEVO」と手書きの文字で書かれている。サラエボ、という言葉以外はわからないけれど、青少年センターといった感じの施設だそうだ。二階の窓には、いろんな国の国旗がこれも手書きで描かれている、一番左には日本の国旗らしき絵が描かれていた。少し色が禿げてきているから、もしかしたらバングラデシュの国旗かもしれないけれど。
さっそく会場となるスペースに入ってみる。昨日まで行われていた公演のバラシが行われているところだ。壁は黒く塗られ、床は緑色に塗られた不思議な空間だ。
「なんだここ(笑)。ちょっと体育館みたいじゃない?」
「そうだね、講堂みたいな感じだね」
「ああ、こっちがステージなんだ?」
最初はコンサート用の施設として建てられたものを、15年前にリニューアルしたらしいのだけれども、もとがコンサートホールだったようにはまったく見えない。ステージの奥行きはとても狭く、せいぜい2メートルほどだ。ステージの手前に台を置いて奥行きが足されている。ステージは高さが1メートル以上あるので、「落ちないように気をつけよう」と話し合っている。ステージの奥には扉があって、ちょっとした空間が広がっている。
「そこの扉も開けてやりたいよね」と藤田さん。「後ろの部屋も含めてコーディネートしたい」
今はまだ、現地のテクニカルスタッフは音響スタッフしか来ていないようだった。バラシにもまだ時間がかかりそうで、現時点ではあまり出来ることは多くないようだ。役者の皆は手持ち無沙汰な様子でロビーをぶらついている。
「思ってたより広いね」と荻原さん。
「この会場でやると、まったく別の作品になるとしか思えないんだけど」と藤田さん。「舞台上はテントで埋まっちゃうと思うから、フラットなところ(客席と同じ高さ)でやったほうが面白いシーンがある気がする」
映像の仕込みがある実子さんをのぞく出演者と藤田さん、それにタイダさんと僕の8人は30分ほどで会場をあとにして、クルマに乗り込んだ。
「今の時間で、色々悟ったわ。毎回全然違うことになるね、これは」と藤田さんが言う。
「藤田さんがいなかったら無理だったね」と聡子さん。
「思ってた以上に無理だね。この感じでたかちゃんがいなかったら、くまちゃんが演出家になるしかなかったよね」と亜佑美さんが言う。
「でも、ちょっと楽しみになってきたな。音楽はガンガン掛けるしかないよね」と藤田さん。
「字幕が出てるもんね」と亜佑美さん。
「音楽で台詞が聴こえなくなるのは嫌なんだけどね。聴こえなくていいって音響じゃないほうがいいとは思うけど、音楽はガンガン掛けたい。あの会場の雰囲気だと、そのほうが良い気がする」
午前10時、日本大使館に到着してレセプションが開催された。大使の方より、「政府の支援と、皆さんの草の根レベルの交流が一緒になってやっていくほうが効果的だとおもいますので、芸術関係の皆さんがボスニアに来られることは両国間の友好関係のためにも非常に意義があるのではないかと思います」とのお言葉をいただく。
11時20分に会場に戻ると、ロビーの端にあるピアノを弾いている女性がいた。予約を申し込めば誰でも弾けるのだろう。鼻歌まじりに演奏している。会場の中には、熊木さんが日本から持ってきたのか、ホワイトボードが置かれていた。そこに今日のタイムスケジュールが書かれている。
9:00-13:00 rigging・setup
13:00-14:00 lunch
14:00-17:00 video setting / stage setup (line tape)
ホワイトボードにはWi-Fiのパスワードが書かれた紙も貼られている。皆、スマホをWi-Fiに接続しようとトライしているが、なかなか接続できずに悪戦苦闘している。皆でパスワードを読み上げながら、何とか接続し終えると、舞台上にテープを貼る。本当なら仕込みが一段落したところでテープを貼る予定だったけれど、まだ仕込みに取りかかれないからか、役者の皆と熊木さんとで先にテープを貼ってゆく。
それが完成したところで12時半、熊木さん、角田さん、門田さん、南さんをのぞいた10名でランチに出かけた。「ホテル・ボスニア」まで、50分ほどかけて川沿いを散策した。会場は「ホテル・ボスニア」を挟んで宿とは反対側にあるので、この道を歩くのは今日が初めてだ。天気が良くて、半袖でも平気なくらいの陽気。昨日、列を組んで街を歩く子供達の姿を何度も見かけたけれど、今日も同じような子供達を何度か見かけた。あとで聞いたところによると、ボスニアの学校は午前の部と午後の部に分かれているから、おそらく登下校の列ではないかという。
川沿いはゆったりした空間が広がっていて、ところどころにベンチがあり、老人が日向ぼっこをしていたり、カップルや若者が語らっていたりする。郊外ならともかく、街の中心部にこんなにゆったりした空間があることが羨ましい。しばらく歩くと、大きなビルの裏手に荒涼とした空間が広がっていた。「このあたりはジプシーが住んでいるエリアです」とタイダさんが教えてくれる。ただ、このエリアは再開発が予定されていて、そう遠くない未来に、ジプシーの住処は更地になってしまうという。その一角に、ローラースケートを履いた小さな女の子が立っているのが見えた。何をするわけでもなく、彼女はただそこに立っていた。少し離れて、後ろには老婆が座っている。こちらを認識しているのだろうけれど、まったく無関心という様子で座っていた。
道を挟んで反対側では、大規模な工事が行われていた。僕の前を歩いていた聡子さんがカメラを向けると、作業員が親指を立ててポーズを取ってくれた上に、仲間に「おーい、写真取ってくれてるぜ! お前もこいよ!」といった調子で話しかけている。
「すごい優しいね」と荻原さん。
「ね。少なくとも、表立ってあからさまにバカにしてきたりはしないよね」と聡子さん。
道を歩いているうちに、ふと思い浮かんだことがある。内戦が起きていた頃、タイダさんはこの土地にいたのだろうか?
「内戦の話、誰かタイダさんに聞いてみた人っているんですかね?」と僕。
「たぶん、まだいないと思います」と藤田さん。
今日の「ホテル・ボスニア」のメニューは、キャベツの千切りと、挽き肉とトマトのリゾットだ。
「昨日、くまちゃんが言ってたんだよ。『包丁持ってこなかったことを公開してる』って」と亜佑美さん。「『今日1日過ごしてみて、絶対野菜不足になるってことがわかった』って言ってたけど、くまちゃんが来れないときに限って野菜が出たね。くまちゃん残念だね」
タイダさんはキャベツにコショウを振っている。僕も真似して振ってみると、これが思いのほかおいしい。
「タイダさん、日本の食べ物で嫌いなのありました?」と亜佑美さん。
「嫌いな物は何もない。納豆も好きです」
「ほんと? おいしい?」
「おいしい。あまりクサくない」
「納豆、クサいよ?」
「すぐに食べると、クサくない。だからいつも、開けてすぐに食べてました」
「あれは? 梅干しは?」
「梅干しも好きです。今、うちにあります。この9月に友達が日本に行ったから、梅干しを分けてもらいました」
穏やかな会話が途切れたところで、藤田さんが話を振る。
「タイダさんって、え、ボスニアに帰ってきて何年になるんですか?」
「去年の5月に帰ってきたから、もう1年になります」
「それまで日本にいたの?」
「はい。まだ日本に戻るかもわからないけど」
「タイダさんって――その、95年までのときって、ここで子供だったってこと?」95年というのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結した年だ。
「はい。私は今、35歳です。戦争が始まった4月のとき、私は12歳でした。で、その年――1992年の8月に13歳になりました。……うん、大変だったね。戦争のとき、私はサラエボにいました。私の家は――日本語で何て言うのかわからない、ファースト・ラインのあたりでした」
「家が最前線にあったってこと? そうなんだ」
「はい。人が死ぬとこも見ました。In front of my house, 家からあまり出られない状況だった。2年間、出られない状態だった」
「家族全員で、ずっと?」
「マイ・ダッドはアーミーにいました。それで、私の弟はすごく小さかったから、マイ・マムは私たちと一緒にいました。…Scarely. なんか、信じられないね。夢の中にいたみたい。ただ、そのことを作品の中で語りたいとは思わないです」タイダさんは、日本語が話せるということで通訳をしてくれているけれど、彼女の本業は版画家だ。「その経験は、すごくパーソナルなものです。すごくすごく――私の中にあります。だからあまり外に出したくない。それを売りたくないです。もしそれを売れば、皆共感してくれます。それを売ってるボスニア人のアーティストもいます。戦争のあと、ボスニアの映画は全部戦争の映画になりました。それをやれば有名になれます。でも、何でそればっかり? ボスニアには別の側面も、あります。ボスニアの文化には、面白いところがいっぱいあります。残念なことに、今回は時間がないけど、ボスニアのトラディショナル・ハウスだとか、博物館だとか、本当に皆さんを連れて行きたいです」
少し間を置いて、タイダさんは再び話を始めた。
「でも――今は次の作品のことを考えてます。次はボスニアの社会問題のことを作品にすると思います。なぜなら、それは大きな痛みだから。この街のすべてのシステムは本当に酷いものです。ボスニアの法律も憲法も、すべてEUとアメリカによって作られたものです。この状況では、新しい何かを作り出すことは不可能です。この社会が発展するためには、皆で憲法を変えなければいけません。旧ユーゴは、本当に素晴らしい国でした。ポーランド人の友達とかも、中学生の頃にスクール・トリップでユーゴを訪れたことがあるけど、『素晴らしい国だった』と言っていました。でも、戦争が起きて、この25年は――イッツ・ゴーイング・ダウン」
かつてユーゴスラビアは、資本主義と社会主義をミックスした「第三の道」を体現する国として注目されていたという。今から30年前、1984年にはサラエボオリンピックも開催されている。その“豊かな国”は紛争で一変した(もちろん、その紛争だって突然立ち現れたわけではないだろうけれど)。サラエボは山に囲まれた盆地だが、山脈沿いにセルビア軍に包囲されたのだという。サラエボで一番大きな通りは、当時「スナイパー通り」と呼ばれていたそうだ。外務省の情報によると、ボスニアの失業率は27パーセントにものぼる。若者に至っては半数近くが失業者だ。平日の昼間から外を歩いている人が多いのは、失業率も影響しているのかもしれない。
タイダさんの話を聞きながら、僕は昨年のイタリア公演――マームとジプシー初となる海外公演の際、フィレンツェで記者会見のときに藤田さんが語っていた言葉のことを思い出していた。藤田さんは、こんな話をしていた。
「二つの悲劇的な出来事を扱っているわけですね。私たちの文明は今、とても難しい時代にあるわけですけれども、若い日本の人たちはそれらとどう対峙しているのですか?」
「今回の作品は、悲劇的な出来事を扱ってはいるんだけど、その悲劇と、僕らの生活・日々・現実みたいなものの距離を描きたいんですね。悲劇は悲劇としてあるんだけども、僕らはそれとはちょっと無関係なところで生きてたりする。そのことを描きたいと思っていて」
「悲劇と日常との違いですか? その距離ですか?」
「違いじゃなくて、距離ですね。悲劇は悲劇として、悲しいとは思うんです。だけど、僕らは普通にモノを食べたり、生活をしてるわけですよね。だから、悲劇がかわいそう、悲しいということを描くんじゃなくて、その距離を描きたいと思ってます」
ボスニアで公演すると聞いたとき、僕はこの作品がどう受け止められるのだろうかと勝手に心配をしていた。悲惨な出来事と私たちとの距離を描くこの作品が、わずか25年前に紛争が勃発した国でどう受け止められるのだろう――と。でも、タイダさんの話を聞いているうちに、一刻も早く彼女に作品を観てもらいたいという気持ちになった。“あやちゃん”の語る「今日の朝さ、先生が言ってたじゃん」「私たちは被害者にもなれるし、加害者にもなれるって」「人として、まっとうな人間として、どちらにもならないようにしろって言われたじゃん」「私もいつか殺されるかもしれないし、人を殺すかもしれないってこと? 何でそんなことを想定して生きていかなくちゃいけないの?」という台詞は、タイダさんにどう響くだろう。そして、最後に語られる「光」という言葉は、どんなふうにタイダさんに届くだろう。
帰りは3台のタクシーに分かれて会場まで引き返し(5.6マルク)、残っていた4人にお昼ごはんを届ける。4人が食事をしているあいだ、近くのカフェに出かけた。会場の周りは団地になっているのだが――しかしボスニアの街を移動していると団地ばかり見かける――団地の裏手にカフェやちょっとしたスーパーマーケット、謎のカジノ(?)が点在している。今日は全員、ボスニアン・コーヒーを注文する。そして全員ケーキも注文した。
「はさっちのケーキ、何なんだろう?」
「これ、謎だよね。クッキーだって言ってたけど」
「何ではさっちの好きそうなケーキがわかったんだろう?」
ほぼ全員がタイダさんお薦めのくるみのケーキを注文したけれど、波佐谷さんは別のケーキ――ボスニア語で「ハリネズミの子供」という意味のケーキをお薦めされていた。ボスニアは物価がとても安いけれど、このカフェは特に安く、ケーキとコーヒーで2.5マルクだ(約175円)。この値段でお茶会を堪能できるのは嬉しいけれど、どういうわけだか周りの人にじろじろ見られている気がする。
カフェを出ると、「じゃあ、石を探そっか」という話になる。今回の作品には、テントが重要な小道具として登場する。今年は、昨年より一回り大きなテントが使われているのだが、8月5日に一夜限りの国内公演を行った際、テントを固定するのに大きめの石を使っていた。今回も石で固定できないかということで、石を探して会場の近くを歩く。
「尾野島さん、あの石いいんじゃない?」
そう言われた尾野島さんは石を持ち上げ、皆のほうに振り返って「このぐらいの重さでいい?」と石を差し出す。
「どう? そんな重くない?」と皆。
「いや、ちょっとわかんない。持ってみる?」と尾野島さん。石を探しているところを写真に収めていると、尾野島さんの写真ばかり増えていく。石を探す尾野島さんの写真たち。
石が転がっていないかと芝生の中を歩いていると、大量の栗が落ちていた。その風景に、どこか違和感をおぼえる。何がおかしいのだろうかと、しばらく考えて気がついた。イガイガに包まれておらず、栗の実がゴロンと落ちているのだ。よく探してみると殻付き(?)の栗も見つけたけれど、日本の栗に比べると全然イガイガしていない。それに、栗の実自体も、日本のそれと比べると、何か塗っているのではと思うほどツヤツヤだ。皆、石のことを忘れて栗を拾い始める。
「この栗、イタリアに持ってって茹でてみる?」――ボスニアの宿にはキッチンがついていないけれど、イタリアの宿の中にはキッチン付きの宿もあるのだ。
「ちょっと、ほんとに茹でてみたくない?」と聡子さん。
「うん」と亜佑美さんは返事したけれど、そっけない響き。
「私が茹でるから。お願いだから」
「うん、いいよ聡子。じゃあいっぱい拾っていく?」
一緒に栗を拾っていた波佐谷さんは、栗の匂いを嗅いでいる。「でもこれ、あんま良い匂いしないね」
「そうそう、匂いはあんまり良くないんだよ」と亜佑美さん。「栗ってさ、雨の匂いがするんだよ」
「でもこれ、ほんとに綺麗だね」と聡子さん。「小道具の謎の木の実と一緒に置いとこうよ」
「そのままでも食べれそうだよね」と、荻原さんはそのまま齧りついている。荻原さんはほんわかした雰囲気を漂わせていると、意外とワイルドというのか、パンクというのか、そんなところがある。
栗拾いにも飽きると、再び石探しが始まる。気がつくと、荻原さんはずんずん遠くまで行っていた。
「まる、結構冒険家だよね」と波佐谷さん。
「大丈夫なの、あれ。すぐ近くにめっちゃ若者がたむろしてるけど」と藤田さん。「まる、石あったの?」と声をかけると、遠くで荻原さんはこくりと頷く。同じように亜佑美さんが「石、あったの?」と声を掛けると、荻原さんはまた遠くでこくりと頷いていた。
16時、石探しを中断して会場に戻ると、ちょうど仕込みが一段落して舞台上があいたところだ。熊木さんから「小道具を散らしてみようかなと思います」とアナウンスがあり、小道具の配置を決めていく。テントを組み立てて配置を調整していると、さっきよりも少し真剣なトーンで「やっぱり、石が必要かもね」と話し合っている。そうして再び石探しの旅に出て、4つほど大きな石を収穫した。
石を探す尾野島さん。
猫に夢中になる皆。
石を手にして会場に戻ると、「まさか本当に拾ってくるとは」と熊木さんが笑う。
「いいじゃん、いいじゃん」と藤田さんは嬉しそう。「マームのこういうところ、ほんとに信頼してる」
「皆で拾ったっていうか、拾ったのはほとんど尾野島さんだけどね」
そうこうしているうちに18時になり、日が傾き始めていた。「全然進まないっす」と藤田さんがこぼす。会場では照明のフォーカス作業が続いているけれど、現地スタッフはなぜか爆笑しながら作業している。高い作業台に乗ったまま会場が真っ暗になるので、「おい、怖えよ!」みたいなノリで大笑いしているようだ。「南さんはあそこで、どんな気持ちで作業してるんだろう?」と藤田さんが言った。
今日はやれることがなさそうなので、役者陣と藤田さんは18時半で退館することになった。外に出ると、巨大な満月が出ている。
「今日は正直、食って、ケーキ食って、で、終わったよね」と藤田さん。
「まあ、尾野島さんは石を拾ったけどね」と亜佑美さん。
「拾ったっていうか、拾わされてたけどね」と尾野島さん。
2台のタクシーに分乗して「ホテル・ボスニア」に行き、夕食を食べてからホテルに戻る。歩いていると、焼き栗を売っている屋台を見つけた。昼に拾った、生で食べれるんじゃないかとさえ思える美味しそうな栗のことを思い出して購入する。歩きながら食べてみると、露店でずっと炒られ続けていたせいか、炭の味しかしなかった。
ホテルに戻ると、波佐谷さんと藤田さんの部屋に集合して、ワインを飲みながらミーティングが始まった。
「ボスニア公演の会場は、テントから舞台っつらまでの距離がないわけだけど、テントと近過ぎたらおかしいシーンとかってあるわけじゃん。たとえば、聡子の最初の長い台詞とかも、テントからだいぶ離れた森の奥で言ってるはずなわけだよね。どこのシーンをステージ上でやって、どこのシーンを客席と同じ高さでやるかっていう、そのルール作りをしておきたい」
話してるうちに、どのシーンで下に降りるかが固まってくる。もう一つの問題は、昨日買ったボスニアン・コーヒーの茶道具をどう扱うかだ。いや、「どう扱うか」というよりも、「どういう心持ちでそれを舞台に上げるのか」といったほうが正確かもしれない。
「ボスニアのコーヒーカップ、いいよね。わかりやすいよね」と亜佑美さん。
「キャッチーだよね。ただ、変なサービスに見られたくないんだよ」と藤田さん。
「でも、きっと見えるよね。日本でさ、外国の人が湯呑みとお茶を舞台に出してたら――」
「うん、ちょっと気持ち悪いかもね」と波佐谷さん。
「それはそうだね。正直、相当危ういことだと思うよ。去年はさ、露店で買ったピノキオとかをライブカメラで映して見せてたけど、そういう小道具を毎回買う必要はないと思うんだ」と藤田さん。
「外国の人が刀を使ったり、お殿様のかつらをかぶってくれたりしたら、『ああ、喜ぶと思ってやってくれたんだろうな』って思うじゃない? でもさ、たかちゃんの場合はそうじゃなくて、普通にあの食器に惹かれて『使いたい』と思ったわけでさ」と亜佑美さん。
「それ、伝わるかな?」
「でもさ、きっと想像すると思うんだよね。『日本にいるときは、最後の台詞が違うんだろうな』とか、『今はボスニアで撮った映像を使ってくれてるけど、他の街では違うんだろうな』とかさ」
「それぐらいドライな感じでやったほうがいいのかもしれない。実際、それぐらいドライに映るよね、きっと。でも、僕らはこの土地にとってまぎれもなく外なわけだよね。 僕らは結局、ボスニアって国に対して『内戦があった国』ぐらいの感じで来てるけど、それは別にケンカを売ろうとしてるわけじゃなくて、『知ってるふりをしたくない』ってことがあるんだよ。僕はこの街のことを知らないけど、でも、この2日間歩いたこともまた事実なわけだし、そこであの食器とも出会ったわけだよね。それを舞台に載せるってことは、はっきり言ってしまうと恥ずかしいことかもしれないけれど、でも、それを『あえてやる』ってことも大切なのかもしれない」
果たして、ボスニア公演はどんな仕上がりになるのだろう――そのことを楽しみに思い浮かべつつ、僕は帰路についた。