マーム同行記17日目

 朝9時、ホテルを出て劇場に向かった。本当に雲一つない青空が広がっている。心地よい風が吹いている。9時15分に劇場に着いてみると、聡子さんが劇場の上手側にある扉を開けているところだ。今日は仕込みの日だから、皆マスクをしている。しまった、僕も大量にマスクを持ってきていたのに、今日に限って忘れてしまった。

 ホワイトボードには、こんなふうにタイムスケジュールが書き込まれていた。

9:00-12:30 set up{ stage, video}
12:30-16:00 set up { light, sound }
16:00-17:00 line check
17:00-20:30 focus

 1年前のフィレンツェ公演のとき、印象的だったのはのんびりとした現地スタッフのこと。仕込みの初日、午前中はあまりはかどらないままにお昼を迎えてしまい、そこから3時間はお昼休みの時間になってしまった。お昼は現地のスタッフもワインを飲んでいて、仕込みは大幅に遅れることになってしまった。

 今回のイタリア公演は大丈夫だろうか――少し不安に思っていたけれど、今日は朝からスタッフの人が劇場にいて、テキパキと作業を進めていく。そして、スタッフの中には、去年も手伝ってくれていたトーマスという男性がいた。

「チャオ!」とトーマスは陽気に挨拶をしてくれる。そして人差し指を立てて、「1年振りだね」と言う。イタリアでは、指で数を数えるとき、「1」は親指を立てて数える。つまり、トーマスは日本式の数の数え方も覚えていてくれたのだ。皆、日本語で「1年振りー」と返している。

 役者の皆は、床に線を引くために、メジャーを使ってピッチを取っている。

「600(センチ)の次は……720か」
「うん、720ね」
「720の次は――はさこ、何だっけ?」
「720の次は840だね」

 いつもは熊木さんの指示のもとで線を引いているのだけれども、熊木さんは今、他の作業をやっているので、そのあいだに役者の皆だけで線のピッチを取っているのだ。

「え、皆だけで線を引けるようになったの?」と藤田さん。
「わかんないけど、初めてやってみてるよ」とあゆみさん。さすがに実際に線を引くのは熊木さんの指示を待ってやっていたけれど、少しずつ皆でやれることが増えている。「この床だと、線がすごい目立つね」とあゆみさん。「ね。嬉しいね」と聡子さんは言った。

 扉のそばに立ち、背中に強い日差しを浴びながら、皆が線を引く様子を見守る。角田さんが「橋本さん、お父さんみたいですね」と言った。たしかに、授業参観にきたお父さんのような気持ちに少しなっている。

 線を引いていた荻原さんが、「壁から出てきた」と僕に何かを手渡した。見ると、それはカタツムリだ。中身は入っていなくて、殻だけが手のひらに乗っている。荻原さんは、ボスニアでも実のついた小枝を拾っていたし、メイナでも木の実を拾っていた。そうしてもらった物たちを保管しておいて、ツアーの最終日に手渡そうかと考えてもいたけれど、うっかりポケットに入れたまま洗濯してしまった。

 10時15分、プロジェクターの吊り込み作業が始まり、線を引く作業は一旦中断されることになった。役者の皆は休憩することになって、甘いお菓子を食べている。あゆみさんは、藤田さんにもお菓子を手渡そうとしたけれど、「何で渡そうとするの? 俺、甘い物は死ぬほど嫌いだから」と断っている。「ほんとにもう、先天的に嫌いなんだよ。誕生日も、弟のときはケーキが出てたけど、俺のときはイカ刺しだったからね」

「かわいそうだよ、お母さん。きっとチキンとか焼きたかったはずだよ」と尾野島さん。

「誕生日に出てくるのがイカ刺しって、ただの酒飲みじゃないですか」と僕。
「じゃがバターとかも好きだから。だから俺、赤提灯とか死ぬほど好きなんだよね。ほんと、天国でしかない」

「たかちゃん、『死ぬほど』って言い過ぎだよ」とあゆみさん。「たかちゃんが『死ぬほど』って言った回数、数えよう」

 少し休んだところで、あゆみさんが「じゃあ、石探しに行こっか」と切り出した。
「え、石探すの?」と波佐谷さん。
「じゃあスーパーに行ってみようか」と尾野島さんが――石を運ぶ係にされてしまっている尾野島さんがとぼけた様子で言う。
「え、スーパーで石が買えると思ってる?」
「ペットボトルなら売ってるからね。でかいペットボトルとかでもいいんじゃないかな」

 そんなふうに話していたけれど、結局石を探しに出かけてみることになった。まずは劇場の裏手にまわってみると、そこには野外劇場があった。「ここでも『てんとてん』できるじゃん」なんて話をしながら、最上段まで上がってみる。

「マジでゾンビ映画の世界だわ」と藤田さん。「ゾンビ映画だったら、ここにゾンビを集めれば一網打尽に出来るよね」
「もういいよ、ゾンビ映画の話」と尾野島さんは笑っている。「このままだと、あと3週間この話が続いちゃうよ」。たしかに、ゾンビ映画の話は、3日に1度くらいのペースで耳にしている気がする。

 再び石を探して歩き始める。本当にロードサイドとしか言い様のない街だ。舗装された道路から少し外れたところを歩いていると、ひときわ背の高い樹の下に、大きな石があるのが見えた。

「この石、理想的じゃん」
「ほんとだ、良いサイズだね」
「光が当たって、拾ってくれと言わんばかりだよ」
「でも――ちょっと意味がありそうな置き方じゃない?」
「たしかに。何かのお墓とかだったらどうしよう?」

 この石はキープすることにして、道端に少し避けておく。最初に石があった場所には、念のためにひとまわり小さい石を置いておいた。その後もしばらく歩いたけれど、ちょうど良いサイズの石は他に見当たらなかったので、あとでキャリーを借りてきて石を運んだ。

 石探しを終えて劇場に戻ると、プロジェクターの吊り込み作業は終わっていた。役者さんたちは小道具をフロアに散らして配置を決めると、今日の作業は終わってしまった。テクニカルの作業もとにかく順調に進んでいるようだった。

 16時半、同じ劇場で上演されるロベルト・バッチという劇作家の作品のゲネプロを観せていただく。あゆみさん、荻原さん、藤田さん、それに僕の4人で観る。作品は全編イタリア語だったから、細かな流れはわからないけれど、盲目のカップル(夫婦?)と盲目の兄弟の物語だった。

 18時過ぎに上演が終わると、スーパーに買い物に行き、ビールとワインを買い込んできて酒を飲み始めた。宿舎のことはともかく、仕込みに関してはすべてが順調に進んでいるようで、キッチンには和やかな雰囲気が流れている。

「え、明日が初日だっけ?」と藤田さん。
「いやいや、明後日だよ」と熊木さん。
「明後日か。じゃあ大丈夫だ」
「そうだね。明後日とかは遅入りできるぐらいだと思う」

 役者の皆も、スタッフの皆も、それぞれのタイミングでキッチンにやってきては、それぞれに料理を作り、片づけをして帰っていく。

「このキッチンの景色を見ながら死にたいわ」――ビールを片手にキッチンの様子を眺めていた藤田さんはそうつぶやいた。「死ぬ」という言葉を聞くのはこれで14回目だ。たしかに、キッチンの風景を眺めながら観るのは“死ぬほど”楽しくもある。ワークショップでも描かれていたように、そこにはいくつものタイムラインが――生活が混在している。それぞれがそれぞれの生活を営んでいる風景を眺めて過ごしていると、とても幸せな気持ちになってくる。