マーム同行記9日目

 朝8時、ホテルのロビーに集合すると、ほどなくしてバスがやってくる。8時半に出発の予定だったけれど、送迎バスが意外と大きく、ホテルの前に長時間停めておくことができなそうなので、皆でいそいそと乗り込んだ。8時21分、バスは次の土地に向けて走り出した。「さよなら、ヘッコ」と誰かがつぶやく。ヘッコというのは、皆が宿泊していたホテルの名前だ。

 バスは、座席を内側に向けたり、外側に向けたり、自由に角度を調整できるようになっている。が、尾野島さんの椅子は真横に向いた角度から動かすことができず、内側を向いている。

「尾野島さん、景色楽しめないね」
「景色見るのも波佐谷君越しっていうね。見慣れた顔が視界に入ってくる」

 20分と経たないうちに、あたりにはのどかな風景が広がってくる。深い渓谷のあいだをバスは行く。ごつごつとした岩肌が見えていて、あちこちに採石場がある。一体何が採れるのだろう。

「オオカミが出そうだね」
「クマもいるらしいよ」
「落石注意だな、これは」

 オオカミもクマも、『てんとてん』という作品の中に登場する動物だ。紅葉の広がり始めた渓谷を抜けると、なだらかな高原に出た。馬、牛、羊……。いろんな動物が放牧されていて、草を食んでいる。もともと日差しが強い地域である上に、朝日が強く差していて、馬の毛並みが光って見える。どこまでも波のようになだらかな高原が連なっていて、神々しい風景だ。このあたりのことを、一度は世界地図で目にしたことがあるはずだけれども、「こんなふうになっていたのだなあ」としみじみ思った。


 2時間近く走ったところで、バスはドライブインのような建物の前に停車した。セルビアとの国境が近づいているので、ここで書類を記入しておく必要があるらしかった。建物の脇には芝生が広がっていて、遊具がいくつか置かれている。門田さんと運転手が手続きをしてくれているあいだ、芝生に横になったり、遊具で遊んだり、サッカーボールを蹴って遊んだりする。ドライブインの裏には薪がたくさん積み上げられていた。聞いた話によると、ボスニアのエネルギー事情はかなり逼迫していて、平均月収は日本円で4万円ほどだけれども、ガス暖房で冬を過ごそうとすると月に3万円もかかるのだそう(夏は数百円ほど)。だから、冬をガス暖房で過ごす人は、夏のあいだに「ガス貯金」をしておくし、一般的な家庭では薪で暖を取るのだという。

 20分ほど休憩してドライブインを出発する。背の高い穀物(枯れているようにしか見えないけれど何の植物なのだろう)が続く田畑や小さな町をいくつか抜け、川沿いの道に出た。川沿いを北上してくと、橋が見えてくる。どうやらこの川が国境線になっていて、橋を渡った向こうがセルビアのようだ。

「国境を越えたら違う国になるのか。それは――戦争にもなるよね」

 国境を越えたら違う国になる。それは当たり前の話だ(だから「国境」と言うのだから)。でも、僕もやはり、泳いでも渡れそうな川を隔てた向こう側は別の国だということを、頭ではわかっていても、いまいちピンとこなかった。陸路で国境を越えるのは、今日が初めてのことだ。

 橋には2つゲートがあった。おそらく1つ目のゲートがボスニア側の出入国ゲートで、2つ目のゲートがセルビア側の出入国ゲートなのだろう。ボスニア国境警備隊は少し陽気な雰囲気を漂わせてバスに乗り込んできたけれど、セルビア国境警備隊は肩をいからせ歩いている。いずれにしても大きなピストルを持っていた。

 セルビアに入ると、ボスニアよりも田舎町の風景が続く。農業地帯なのだろう、少し古ぼけていて、こぢんまりした建物たち。知らない町の、これまで見たことのなかった風景が流れていく。ふと、死にたくないなという気持ちになった。何かに関わることができなくなってもいいから、目だけでも生き延びさせて、こうして延々風景を眺めていたいと思う。

 13時50分、運転手おすすめのレストランで昼食をとることにする。背の高い木造の建物に入ってみると、名画の複製画がいくつも飾られている。他にはお客さんがいなかったこともあって、まずは皆で内装やインテリアを眺めていく。

「これ、うちらが使ってるヤツと完璧に同じやつじゃない?」と、本の上に無造作に置かれていた双眼鏡を見つけて藤田さんが言う。『てんとてん』には、荻原さんが小道具として双眼鏡を手にするシーンが登場する。その荻原さんも近づいて確認して、「ほんとだ、同じだ」と言っている。たまたま立ち寄ったレストランで、そんな偶然が起こるだなんて、話が出来過ぎていて怖いくらいだ。

 何人かは最初にビールを注文して、料理が運ばれてくるのを待つ。普段はさほどお客さんがこないのか、出てくるまでに30分以上かかり、そのあいだにビールを2杯飲み干してしまった。最初に運ばれてきたのは、4人が注文した仔牛のステーキだ。「すごい量が出てきたらどうしよう」と冗談みたいに言っていたけれど、本当に特大サイズの肉が運ばれてきた。そして、たしかに「ステーキ」と書かれてあるはずなのに、運ばれてきた肉はどこからどう見てもビフカツだ。日本の店で頼んだときの2倍はゆうにあるサイズのビフカツ。「ペルシャ風ステーキ」という謎のメニューを注文していた僕も急に不安になっていると、ペルシャ風ステーキも仔牛のステーキとほぼ同サイズの肉だった。どこか見覚えがあるような気がすると思っていたら、波佐谷さんが「チキン南蛮みたいですね」と言った。


 
 気合いを入れて食事を終えてバスに戻る。満腹過ぎて、バスが走り出して30秒としないうちに眠ってしまっていた。

 16時18分、バスはベオグラード国際空港に到着した。いそいそと搭乗手続きをする、僕の荷物は3キロ超過してしまっていた(朝に荷造りをするとき、重い荷物を機内持ち込みのリュックに分けるのを忘れてしまっていたのだ)。血液が内臓に集中してしまっているせいか、もう一度スーツケースを開いてみるのが面倒くさくなって、超過分をクレジットカードで支払ってしまった(50ユーロ)。同じくオーバーウェイトだと言われたあゆみさんは、ちゃんと荷物を整理し直し、無事手続きを終えていた。

 ゲートが開くまで、しばらくロビーで待機する。バスに乗って移動しただけなのに、妙にくたびれた感覚がある。
「わかってたことではありますけど、このツアー、結構過酷ですね」。隣に座っていた実子さんに話しかける。
「いやー、過酷ですよ。移動日は休みのつもりだったけど、結構疲れてるわ」

 18時15分に飛び立ったセルビア航空314便は、20時ちょうどにミラノミラノ国際空港に到着した。この飛行機では機内食として軽食が出たけれど、食欲おう盛な僕も、あのランチのあとでは何も口にする気になれなかった。

 空港のロビーで新たな運転手と待ち合わせて、ミニバスに乗り込んでメイナを目指す。バスが走り出すと同時にICレコーダーの録音ボタンを押し、藤田さんに話を聞いた。

――ボスニア公演、どうでしたか?

藤田 ボスニア公演はちょっと、今考えても反省点があるんですよね。今、僕らは1年に1回海外にくるってペースになってるわけですけど、やっぱちょっと間が空いてる感じがするんですよ。そうしたときに、「海外で公演をする」ってことに対しての準備が足りなかったなって気はしてます。

――準備の足りなさってことで言うと、去年は去年でタイトなスケジュールでしたよね。去年は完成したばかりの作品を持ってイタリアにきたわけですから。

藤田 そうですね。でも、去年の準備の足りなさと、今年の準備の足りなさのニュアンスは違いますね。今年のほうが準備はあるはずなんですよ。海外公演もやってるし、海外に対して免疫がついてるところもあるから、今回のほうが良い意味でブラッシュアップされてるはずだし、この『てんとてん』って作品も「海外の人に聞かせる」ってことで変更を加えてきたんだと思うんです。その変更を、もうちょっと聞かせることができたはずなのに、ボスニアではちょっと音量頼みになってしまったところもあるし、空間を全部使おうとしてお客さんに見えづらくなってしまったところもあるし――そういうところが普通に拙いな、と。これは最近いつも考えてることなんだけど、「20代前半ぐらいでやってるような演出してんじゃねえよ」って自分に対して思うんですよね。「やりたいことはわかるけど、その演出は若いよね」と。ここ2、3年、そういうことを思う機会が増えてきたんですよ。それはいろんなサイズの劇場でやってきたからそう思うのかもしれないけど、音量一つ取っても「全然場数を踏んでないヤツの演出じゃん」と自分自身に対して思っちゃうことがあって。波佐谷さんの台詞じゃないけど、マームは踏んできた場数がすごいから、だからこそ僕は挑戦的に発言したりもするんです。「場数も踏んでないのに、何を偉そうなことを言ってんだよ」と思ったりするんですよ。でも、それは誰かに対してというよりも一番は自分自身に対して思うんですよね。そういう意味で、ボスニア公演は悔しかったです。

 ただ、最初がボスニアで良かったなってことも日に日に思いますね。というのは、去年ツアーをしたフィレンツェとかサンティアゴでも、たとえば2001年の(9月11日の)話とか2011年の(3月11日の)話はまあ伝わると思うんだけど、それ以外の内容が、土地に対してすごくはまってるって感覚はなかったんですよね。たとえば日本だと、人が死ぬって話をすると、地震とか津波に繋げられちゃう部分があったりしますよね。そうやって大きい何かに繋がることって、去年の公演だとなかったと思うんですけど、ボスニアであの作品を発表したときに、「この土地の人にはこう聞こえるかもしれない」ってことが細かいところでも感じられたし、お客さんのほうでも細かいところまで繋げて考えてくれた気がしたんですよね。それがすごい、面白かった。

――『てんとてん』って作品自体についても話を聞いておきたいんですけど、昨年の初演があって、今年のこのツアーがあるわけですけど、このツアーの前――8月5日に一夜限りの国内公演があって、そのあとに何度か後悔リハーサルをやりましたよね。で、その最後のリハーサルのあとにも、いくつか変更が加えられてますよね。それは、何に向けて何を削ったんですか?

藤田 そこで削ったのは前半に出てくる言葉なんだけど――『てんとてん』という作品は去年作ったわけですけど、そこには去年の僕っていう上京が大きく影響しているわけですよね。『てんとてん』を作る前、大多数の役者さんがマームの人じゃなかった北九州でのクリエイション(『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』)をやってたんですよ。それが東京でどのぐらい話題になったのかわからないけど、あのクリエイションは僕にとってすごく重要だったんです。それは知らない役者さんと関わるということでも重要だったし、聡子、あっちゃん、尾野島さんとの作業ってことでもすごく重要で。その作業が終わったときだったから、とにかく疲れてたんですよね。あと、それは岸田戯曲賞を獲ってから1年目の話でもあったわけですけど、その間僕らが何をやっていたかというと、「子供を描かない」っていう枷をかけてたんですよ。

――それは何の枷だったんですか?

藤田 何だろう。当時はそんなふうにインタビューで答えてなかったと思うけど、26歳のときに(岸田戯曲賞という)一つの評価があったとき、「今まで描いてきたことを脱皮しなくちゃいけないな」っていう意識はあったんだと思う。だけど、『てんとてん』を作るまでの時期って、僕が北海道の伊達っていう町で見ていた海であるとか、上京の話であるとかっていうことが、いろんな土地に置き換えられるってことを考えてたんだと思うんですよね。それでいろんなバージョンを生み出してた時期だったと思うんだけど、「やっぱり自分しか持ってない原風景を描きたい」っていうことに思い至ったときに、『てんとてん』って作品を書いたんです。

――置き換え可能ではないものを描きたい、と。

藤田 そうそう。それで『てんとてん』は純粋に田舎町が舞台の作品だったんですよね。久しぶりに子供時代を描ける機会だったってこともあったし、そういう喜びが多かったんですよ。あと、その当時、僕は『新潮』に「N団地、落下。のち、リフレクション」って小説を書いていて、そのテキストを『てんとてん』でガーッと使ってたりしてたんです。それはそれで大切な作業だったし、そのテキストと聡子とかの身体が繋がっていく感じが面白かったんだけど、やっぱり1年経ってみると「そこばっかじゃないよね」って話になって。

――『てんとてん』という作品は、去年のバージョンに対して結構変更が加えられましたよね。その変更はなぜ加えられたんですか?

藤田 去年の『てんとてん』は“さとこ”と“あゆみ”の話だった気がするんだけど、今年は6人の話にしたいっていうのがあったんです。まあシンプルに、(去年は生死が不明だった)“あやちゃん”が決定的に死ぬ設定にしたっていうのが一番の変更だと思うんですけど、“あやちゃん”の最後っていうことに対しての向かい方が違ってる気がするんですよね。

――その「6人の話にしたい」っていうのはどういうことですか?

藤田 『てんとてん』は吾妻橋ダンスクロッシングで3人のバージョンで発表をして、その後1週間ごとに違うバージョンを発表しながら、出演者も増えて行ったわけですよね。その創作形態ってことも大きかったと思うんですけど、どうしても吾妻橋に出てた3人のウェイトが重かった気がする。これはチリ公演のときに橋本さんにも言ったと思うけど、去年のバージョンをやってみたときに「6人全員で話してるシーンがないよね」って話をしたんですよ。そこから今回の変更が始まった感じですね。

――去年の『てんとてん』を観たとき、印象的だったシーンの一つはキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』が流れるシーンなんですね。あのシーンはすごく美しいシーンだったし、イタリア公演のときにもその曲のことを話してたじゃないですか。「即興で演奏された楽曲と、演劇というものは相性がいいはずだ」って話もしてたし、“記憶”というモチーフを扱っている作品の中で、藤田さんが実際に何度となく聴いて育った曲をかけるってことは大きな意味がある、と。でも、その曲をかけるシーンを、今年のバージョンでは削ったわけですよね?

藤田 そうですね。それは僕の変化でもあるんだと思います。もちろんキース・ジャレットをかけたいなって気持ちは今もあるんだけど、あれをかけてしまうことによって、上京するってことが良い話になっちゃうのが危険だったと思うんですよね。去年は“さとこ”が上京することに対して、皆が送り出してる感じがあったと思うんです。

――そうですね。温かく送り出されてる感じはありましたね。

藤田 それがあるし、聡子が言ってることの具体性が変わったと思っていて。去年は「この町で3歳の女の子が殺された」ってことに漠然となってたと思うんですけど、去年は「“あやちゃん”が死んだ」ってことは決定してなかったじゃないですか。それを決定したときに、“さとこ”の言う「こんな町」って言葉の現実感が変わった気がするんですよね。そのリアル感が増したとき、あのメロディを流しちゃうと駄目な気がして。あと、最後に、“さとこ”が「ごめん」て言うシーンがありますよね。

 それはエピローグに登場する台詞だ。町を出ていく“さとこ”を、“あゆみ”が駅で見送るシーン。

さとこ あゆみちゃん。
あゆみ おお。遅いよ。ギリギリだよ。
さとこ ごめんごめん。
あゆみ 出て行くのはさとこちゃんでしょ。だから「ごめん」とかはないよ。
さとこ そっかそっか。ごめん。

 このシーンは、エピローグで2度リフレインがかけられる。

藤田 あそこで「ごめん」って言うとき――“さとこ”はその前に、「出て行けることになってホッとしてるんだ、こんな町」って言っちゃってるわけですよね。あえて「こんな町」って言ってしまうぐらい“さとこ”も傷ついてるし、それに対して「この町に残る」ってことを言う“あゆみ”も傷ついてるってことになるわけですよね。そこでキース・ジャレットのあの曲を掛けてしまうと「どっちが正しいのか」っていうシーソーの原理が働いてしまう気がするんですよ。そうなると、今年のバージョンの変更が効いてこなくて。というのも、僕が描いてることって、シャレにならないと思うんです。

――シャレにならない?

藤田 たとえば人が殺されることを絵がkとか、自殺することを描くとかっていうことは、笑って済まされることではないと思うんです。そういうことはどの街にもあるわけだし、それをその街の人に聞かせるときに、変な意味で美化しちゃいけない気がするんですよ。とはいえ、去年の僕が美化してたとは思いたく亡いんだけど、“さとこ”が「こんな町」と言ってしまう時いつと、そうして町を出ていくっていうことの現実感が変わったんだと思います。

――たしかに、あそこで2回目に「ごめん」と言うときの響きは変わりましたね。去年は皆に温かく送り出されてる感じがあったぶん、待たせてしまったことに対して「ごめん」と2回も言ってしまったって受け取り方もできたと思うんですけど、何に対して「ごめん」と言ったのかっていう響きがハッキリした印象はありますね。

藤田 あそこで町を出ていく“さとこ”は、その町の中だけで見たら敗者でもあるわけですよね。その町に残る“あゆみ”のほうが実は強いのかもしれないし、でも、残ることしか選択肢がない“あゆみ”だって敗者と言えるかもしれなくて――だから、わからないんだけど、そこはあっき言ったシーソーみたいなことなんですよね。

――この『てんとてん』という作品には、「わからないなあ」とか「わからないことだらけだよ」とか、「わからない」という言葉がよく出てきますよね。「わからない」ってことの響きが、今年は違う気がしますよね。

藤田 ああ、それは違いますね。去年は「わからない」ってことがわからなかったんです。海外っていう土地のこともわからなかったし、当時の僕の現状としても「どうして行こうか」と考えてる部分はぶっちゃけあったんだと思うんですよね。でも、今年はもう海外公演を経験してるし、「わからない」ってことがちょっと現実味を帯びてきてるというか……。たぶん、それがあるから、最初に言った悔しさもあるんですよ。

――ああ、わかってたはずのことが出来なかった、と。今回のボスニア公演に関して僕が思ったのは、タイダさんと出会えたことは大きかったなということなんです。タイダさんからボスニアの話を聞いたのも大きいことだったと思うし、彼女が「これまで私はそれを描いてこなかったけど、作品の中で社会問題を考えなきゃいけないと思っている」と話してましたよね。この『てんとてん』も、それに近いとまでは言えないかもしれないけど、去年と比べたときに、そういう雰囲気を感じたんです。世の中で起きた出来事と私との距離を描いている作品ではあるんだけど、たとえば悲惨な事件が起きたことに対する、“あやちゃん”のあのフラストレーションに満ちた感じっていうのは、去年の「わからない」っていう態度とは違う距離感にある気がして。

藤田 そうかもしれない。この作品を今年のバージョンに作り直しているときに、佐世保の事件があったりしたわけですよね。もちろん、この作品の中で佐世保の事件のことを引き合いに出してるわけじゃないんだけど――何だろう。僕の中で、大人になることへの畏れっていうのは本当にあったんですね。それは「中二病」とかって言葉で済まされてしまうのかもしれないけど、いまだに根強くあるんですよ。「こんな大人にはなりたくないよね」っていう大人はすごくたくさんいるし、だけど僕も大人で、そういう大人が形成した国に子供たちをいさせてしまっているのは一つの責任でもあるし……14歳とか15歳の自分に訊ねたいぐらいの気持ちなんですよね。「こんな人になりたかったか?」って。たぶん、なりたくなかったんだと思うんですよね。

――藤田さんの役割は、別に政治家になることではないにせよ、そこに対して無関係ではいられないってことですよね。

藤田 そうですね。僕は「劇の中で記憶を描いてる」って昔から言ってきたけど、僕がちらほら未来に向かってる部分はあるんですよ。そうしたときに、未来のことを描くのが怖いってところもあって。なんかね、結構、『てんとてん』って包み隠さずいろんなことを言ってるじゃないですか。日本で言っちゃうのは恥ずかしいぐらいのことを言ってる気がするんですよ。でも、この作品があるから言えてる言葉もあるし、前も話したように海外にくることで完成する作品だなと思うんですよ。だから、このツアー自体、自分たちのこれからの作品へのチューニングでもある気がしてるんですよね。ワークショップとかやってても日本じゃ得られないインスピレーションがあるし、ここにいたら「日本って何なんだろう」と思う機会もあるじゃないですか。

――折に触れてそういう話はしてますよね。

藤田 そうそう。あと、『てんとてん』はすごくミニマムな世界を描いてる作品なんだけど、それをモノローグで無理やり大きいところに繋げてる部分はあって。だから僕は「駄作かもしれない」って言い方をしてるんですけど、そういう意味では小さい作品だと思うんです。ただ、これから先、僕が国内で挑む作品は、広いところに届くようなことも描いていく気がするんですよね。そうしたときに、一方では『てんとてん』という作品があるってことが重要だと思っていて。このキャスト6人というのは――スタッフもそうだけど――僕のことを究極的にわかってる人たちですよね。青柳さんとかはいないけど――青柳さんは「僕のことをわかってる」っていうふうにとどまって欲しくない人でもあるから――この6人っていうのは僕のことを厳密に守ってくれる人たちだと思っていて。その人たちとちゃんとツアーをする期間っていうのは大切になってくる気がするし、それがこの作品の、このツアーの役割だと思ってます。

 ……と、こんな話を聞いていたのに、僕はICレコーダーをバスの中に置き忘れてしまった。翌日になって問い合わせてみてもらったけれど、レコーダーが出てくることはなかった。だから、この内容は、後日改めて話してもらったものである(本当に申し訳ないことをした)。

 話を聞いているうちに、バスは小刻みにカーブを繰り返し始めた。ほどなくしてバスは停車し、扉が開く。外は真っ暗で何も見えないけれど、ホテルに到着したらしかった。ここはミラノからクルマで40分ほどの場所にある、メイナという町だ。人口は2500人ほどの、とても小さな町だ。

「これは……これは大丈夫なの?」

 あまりにも真っ暗で、本当にここで生活できるのか、不安になってしまう。が、クルマを降りてみると、そこには去年のフィレンツェ公演で制作を担当してくれたルイーサが待ってくれていた。懐かしい顔を見て、皆少し心が和らぐ。

ホテルは3カ所に別れているのでそれぞれのホテルまで送り届けてもらって、最後に僕のホテルへと向かった。僕のホテルにはルイーサも泊まっているらしい。無事チェックインを済ませてベッドに横になっていると、突然、窓の外から大きな音が響き始めた。驚いて窓を開けると、目の前を貨物列車が走っている。あまりに暗くて気づかなかったけれど、僕が泊まっているホテルの目の前は駅になっているのだった。