朝8時に起きて、まずは洗濯をする。その後、ホテルにあるツアーデスクに行き、盧溝橋に行きたいのだと『地球の歩き方』を見せると、「ルーコウチャオ」と、デスクにいた女性は確認するように読んだ。中国語の発音だと「ルーコウチャオ」になるようだ。女性はスマートフォンの地図で乗り換えを検索してくれた。バスに乗れば盧溝橋まで行けるようだが、それだと3回も乗り換えが必要な上、1時間半かかるようだ。3回も乗り換えるというのは不安だから、結局タクシーを拾うことにした。

 身支度をして、朝10時にホテルを出た。さっそくタクシーを拾おうとしたのだが、またしても乗車を断られる。盧溝橋というのは、かつて北京の出入り口にあたる場所で、北京から江南に向かうには(水路をのぞけば)盧溝橋を渡るしかなく、旅人を見送る際にはこの橋で別れを惜しむのが習わしであったと、これも『地球の歩き方』に書かれていた。そんな郊外まで車を走らせるのは面倒なのだろうか。どうしよう、金額の交渉をして乗せてもらおうか――そう思いながら6台目のタクシーを停めると、すんなり盧溝橋に向かってくれてホッとした。

 まっすぐ伸びる片道4車線の道路を走っていると、信号待ちのときに運転手が窓を開け、隣の車と会話を始めた。見ると同じ会社のタクシーだ。運転手同士の会話に、「ルーコウチャオ」という音が混じった。向こうの運転手は笑っている。向こうの乗客も笑っている。にやついている。そういう笑みを浮かべられたのは、北京滞在3日目にして初めてのことだった。一体何が理由で彼らは笑ったのだろう。5台の乗車拒否を考えるに、北京中心部を走らせている運転手は長距離を嫌うのかもしれない。でも、それだけだろうかと勘ぐってしまう。僕は呑気な顔をして過ごしているけれど――でも結局のところ呑気でいることしかできないけれど――日本人が「盧溝橋に行ってくれ」と言うことが、どういう印象をもたらすのか、わからなかった。盧溝橋は、言うまでもなく日中戦争のきっかけとなった場所だ。

 中国のことを考えていると、今日もまた日本のことが思い浮かんだ。僕は広島出身だ。広島市内を歩いていると、原爆ドームの観光に訪れているのであろう外国人を見かけることがある。中にはアメリカ人だって――原爆を投下した国に生まれた人だっているだろう。でも僕は、アメリカ人が広島を訪れていることに対して悪いことだと思わなかったし、多くの人がそうではないかと思う。でも、なぜそう思うのだろう?

 原爆ドームの近くにある平和記念公園には、「過ちは繰り返しませぬから」と書かれた碑がある。原爆を投下した側ではなく、投下された側が「過ちは繰り返しませぬから」と言っているというのは、よく考えると不思議な構図でもある。そのことに「なぜ殺された側がそんなことを言わなきゃいけないんだ」「アメリカの責任を問え」と主張する人たちもいる。ただ、「過ちは繰り返しませぬから」という言葉は、多くの街が焦土と化し、無条件降伏という形で敗戦を迎えた日本という国において、あるリアリティを持った言葉であるのだろうということは想像に難くないし、「憎しみは負の連鎖しか生まない」という観点からも真っ当な言葉だと僕は思う。

 でも――と考える。もし日本が、原爆を投下されたにもかかわらず奇跡的に戦争に勝ってしまっていたら、どうなっていただろう。原爆ドームは、過去の過ちを反省し、世界に向けて核兵器のない世界を、平和を訴える施設になっていただろうか? そうではなくて、アメリカの残酷さと、それにも負けずに勝利した日本の象徴になっていた可能性は、ゼロとは言えないのではないだろうか――。

 そんなことを考えているうちに、タクシーは盧溝橋に到着した。北京中心部から30分で、タクシーのメーターは58元(約1200円)だった。乗車拒否が続いて心細い気持ちになっていたところに乗せてもらえてホッとしたこともあり、感謝の気持ちを込めて料金とは別に10元を手渡した。28元の見学料を支払って、盧溝橋を歩く。橋を観光しているのは、僕をのぞけば全員中国人だろう。若者は少なく、40代以上の人が圧倒的だ。盧溝橋に立ってみても、特に何か思い浮かぶことはなく、すんとした気持ちで川を眺めた。思ったことと言えば、獅子が可愛いということぐらいだ。欄干には石彫りの獅子がずらっと並んでいる。500体もあるそうだ。ひとつひとつ表情が違っていて可愛らしい。親子の獅子もいた。

 橋を渡りきると売店があった。印鑑を掘る屋台。古本を売る屋台。ジュースやアイスを売る屋台。土産物を売る屋台。万里の長城で売っていた土産物に比べると、手榴弾や薬莢、それに銃をモチーフにした土産物の数が多く感じる。近くの広場には大砲も置かれていた。僕はオレンジサイダーを買って、ベンチに座って少し休んだ。昨日は半袖でも平気な暑さだったのに、今日は涼しい。サイダーを飲むと余計に風が冷たく感じられる。売り子の女性は、冷凍庫からアイスを取り出し食べている。こう涼しくなると、アイスはもう売れないだろう。

 盧溝橋の東に進むと、「威厳門」と書かれた巨大な門が見える。門の中には、四方を壁に囲まれた城塞都市が広がっている。ここは宛平城といって、日中戦争で日本軍が最初に占領した場所だと『地球の歩き方』に書かれている。一歩足を踏み入れると、清潔で整然とした、テーマパークのような街並みが広がっている。軒先にはずっと中国国旗が掲げられていた。史跡を復元させた、本当にテーマパークのような場所なのだろうかと思って歩いていると、「盧溝橋第一小学」と書かれた看板を見かけた。大きな門に閉ざされて中の様子は見えなかったけれど、あとで通りかかったときには門の前に小学生たちがいてアイスを頬張っていたから、ここはテーマパークではなく、今も人が住んでいるのだろう。野良犬も見た。

 この「城内街」を歩いていくと巨大な建物が見えてくる。中国抗日戦争史学会と北京中国抗日戦争史研究会の看板が掲げられたこの建物が、中国抗日人民戦争紀念館だ。外観を見るだけで気が重くなる。権力というものを感じさせる佇まいだ。入り口で身分証を見せると、無料で中に入ることができる。入ってすぐの場所、展示の「セクション1」のパネルにはこう記されていた(僕のへっぽこな翻訳力だとこうなる)。

近代における日本の中国侵略および極東における戦争の温床の形成

 日本の中国侵略の歴史は、長い時間を遡ることができます。1868年の明治維新以降、日本は近代化を加速させる一方で、侵略と拡張を通じて軍国主義の道を歩んできました。中国と韓国に対する侵略を目的とする大陸政策――日本の軍国主義者のための行動計画です――を策定し、1870年代以降、日本は極東地域を戦争の温床とし、中国に対する一連の侵略へと歩みを進めたのです。

 つまり、明治以降の日本の近代というのは、中国に対する侵略の歴史であるというわけだ。日清戦争を端緒に、日本の侵略の歴史がひたすら展示されている。川崎三郎という人物による『日清戦史』のキャプションには、英語では「日本で出版された日清戦争に関する書籍」とある。英語だけ読んで通り過ぎそうになったが、中国語のキャプションにも目を通すと、「日本の侵略を美化」「侵略の歴史を歪曲」という文字が見える。日清・日露戦争に関する展示は少なく、すぐに満州事変――ここでの表現に倣えば九一八事変に関する展示になった。

 途方もない量の展示が続く。日本語音声ガイドもあるのだが、ガイドを借りなくてよかったと思った。音声ガイドを聞きながら展示を観ていたら、3時間はかかっただろう。キャプションは中国語と英語で、英語がすらすら読めるわけでもないから、途中からはざーっと展示を眺めて、気になる写真のところだけキャプションを読んだ。行進や戦闘の写真が続く。ところどころセットが組まれていて、戦う中国兵の人形が置かれている。1930年代中頃に活動した抗日パルチザン組織「東北抗日聯軍」に関する展示があるエリアでは、メロドラマのようなBGMが流れている。パネルに描かれているのは、雪が降り積もる雑木林の中、銃を構えるパルチザンの姿だ。厳しい状況に耐えながら、抗日戦を戦う姿がドラマチックに演出されている。

 印象的なのは(中国共産党政権下にある施設なのだから当然かもしれないが)中国国民党の影の薄さだ。この博物館にも、当時の勢力図はときどき登場する。中国共産党が支配する地域がわずかであるのに対し、中国国民党は広い地域を支配している。だが、ここで描かれる抗日戦争の物語の主人公は、一つには八路軍共産党)と、人民が自主的に立ち上がって組織した抗日ゲリラだ。日中戦争が勃発して間もない時期の展示でも、日本軍に対して戦闘を繰り広げる勇ましい八路軍の姿が、人形を使って展示されている。

 歩みを進めていくと、物悲しいBGMが流れてくる。そこでは“ジャパニーズ・インベイダーズ”――この言葉は繰り返し登場する――による残虐行為の数々が展示されていた。そこを抜けると、“ジャパニーズ・インベイダーズ”に徹底して抗おうとした勇敢で猛烈な戦士たちの姿が展示されている。女性も、外国に移住していた人民も立ち上がり、戦線に加わる。日本人からすると――これは僕が無知なだけだと言われるかもしれないが――日中戦争は「日中戦争」という大きな一括りの出来事になってしまっているけれど、ここではいくつものセクションに分けられ、一つ一つに「××事変」や「△△大戦」と名付けられて展示されていることに驚く。

 孤軍奮闘が続いた。しかし、次第に西側諸国も「反ファシズム」を軸に連帯し、アメリカ空軍も中国軍とともに戦い、フランス人は「アイ・ライク・ザ・チャイニーズ」と書いた絵を描いてくれた。果たして中国は抗日戦争に勝利し、戦後も中国共産党は世界平和に貢献し続けている――と展示は締めくくられる。

 展示を観ているうちに、僕は何とも言えない気持ちになった。中国の愛国主義者からは「“ジャパニーズ・インベイダーズ”が何を言う」と言われるだろう。日本の愛国主義者からは、「あんなプロパガンダを真に受けてどうする」「日本の残虐行為として展示されている写真だって、その真偽が怪しいものはある」と言われるだろう。でも、この博物館からも、それをプロパガンダだと斬って捨てることからも――何だろう、未来はおろか、私たちが立っている現在すら見通せないと感じた。この展示に「日本は酷い国だ」と思うにしても、「これはただのプロパガンダだ」と言ってしまうことも、どちらの場合も過去は過去として現在から切り離されてしまっている。

 1時間ほどで博物館を出た。最後のエリアは床がガラス張りになっていて、ガラスの下には――つまり足元には――日の丸や旧日本軍の銃や食器や手帳が並べられていた。表に出ると、見物を終えた人たちが、持参した国旗とともに記念撮影をしていた。城内街を出て、タクシーを探して彷徨っていると、修学旅行生らしき団体を見かけた。また別の場所では街路樹のふもとで何かを拾っている4人組を見かけた。近づいてみると、銀杏を拾っているのだった。彼らは本当は5人組で、ひとりは樹の上のほうにまで登り、樹を揺さぶって銀杏をばらばらと落下させていた。うまい飯を食おうと思った。それも北京ど真ん中のうまい飯を食おうと思った。30分かけてタクシーで前門まで戻ると、ひとりでレストランに入り、ビールと北京ダッグを注文した。12切れほど食べたところで満腹になってしまったが、まだ半分も平らげていない。結局、北京ダッグを完食することはできなかった。

 14時、ホテルに戻ってもたれた胃を休める。15時過ぎに再び街に繰り出し、劇場を目指す。この日は16時から通し稽古が予定されていて、そこで写真を撮らせてもらうことになっていたのだが、役者のコンディションが厳しく、通し稽古は見送られることになった。無理もない話だと思った。昨日のアフタートークでも語られていたように、『カタチノチガウ』という作品は、役者に相当負荷のかかる動きをさせている。そうした作業を通じて、身体ということを――今回であれば、3人の出演者がいて、同じ動きをしていたって三者三様に形の違ってくる身体ということを――突き詰めて考えたいと思っているのだろう。藤田さんはずっと役者にマッサージをしていた。通し稽古が予定されていた16時になると、藤田さんは短く話をした。「夏からずっと続いていて、疲れてるのはわかるけど、明日が終わったらそれも終わるから。次の作業に行くために、もう一個上のグルーヴを獲得したいっていうことで、よろしくお願いします」。その言葉が印象に残った。

 19時になると今日も劇場はオープンした。昨日ほどではないが、今日も9割近い客入りだ。昨日も感じたことだけど、皆スマートフォンが大好きだ(これは日本人も同じ)。後ろから客席を眺めていると、あちこちに青白い光が見える。開演前の舞台を写真に収める人もいる――ただし、全員マナーカメラを使っているのか、シャッター音は響かなかった。19時35分、『カタチノチガウ』北京公演2日目が開演した。昨日は最後列で見せてもらっていたのだが、今日は普通に客席で観た。客席の中にいると、「ナメック星」の話が出てくるところで小さく笑いが起こったり、リフレインがかかるシーンで「さっきと同じ台詞だ」とささやいていたり、細かい反応まで伝わってくる。

 この日は終演後、劇場の2階にあるカフェで北京の演劇関係者との交流会があった。日本の演劇は自由だと感じたという感想もあれば、マームとジプシーの作品における身体のパワーとリアリティについての意見もあれば、演劇に関する教育は日本ではどんな状況にあるのかといった質問や、「ループしながらも進化(深化)していく構造はポストロック的だと感じた」といった鋭い感想まで、様々な話が出た。

 僕が印象的だったのは、「この劇を観て、未来というものがとても悲観的に描かれているように感じた」という意見だ。それはまったくその通りだと思う(何の希望もないというわけではないけれど)。その意見を述べた女性は、続けて、「未来に対して悲観的であるということの背景には、地震や福島のこともあるのではないかと感じた」とも語った。たしかに、今回の作品のエピローグには、「町の大部分はおおきな洪水で流されてしまって、このお屋敷だけが取り残された」という台詞が登場する。それは、どうしたって3・11のことを想起させるだろうし、また、藤田さんは去年の海外公演の中で、「自分は2011年に上演した作品で大きな賞をもらったこともあるし、ゼロ年代の作家ではなく、テン年代の作家だと思う」と語ってもいた(海外公演では、「あなたはゼロ年代の作家だと言われているが、ゼロ年代とは何か?」という質問を受けることが多かったのだ)。

 しかし、では、演劇作品の中に込められた、未来というものに対する悲観的な感触があるとして、それは日本の若者のリアリティを表現するために描かれているのだろうか?――おそらく答えはノーだろう。

 印象的だったのは、性的描写に関する話だ。

 今日の公演では、途中で退席してしまった観客がいた。その観客は子どもを連れていて、性的描写の含まれるシーンが続くところで帰ってしまったのだ。中国では、まだそうしたシーンを一つの表現として受け入れる状況にはなく、上演許可がなかなか降りなかった背景にも、性的描写が含まれていることが関係しているのではないかという。それを聞いて、少し意外に感じた。もちろん性的描写というのは何か危険をはらむものではあるだろうし、当局が取り締まることは想像に難くないかれど、この作品にはもっと危険な爆弾が詰まっているように感じた。その一つは、私と社会(的な出来事や悲劇)との距離に関する言葉であり、過去・現在・未来というものに対する認識だ。この作品は、私たちが世界を認識する方法をがらりと変えてしまう力を持っている。『カタチノチガウ』という作品にある悲観的な感触が、日本の若者特有のものとしてでなく、すべての場所と時代に共通しうるものだとして受け止められたとき、“現在”を揺るがしかねない力を放つのではないかと思う。

 交流会が終わると串焼き屋に出かけた。羊肉の串も、じゃがいもの串も美味しかったけれど、この日一番印象的だったのは3リットル入りのビールサーバーだ。サーバーごとテーブルに運んできてくれて、好きなだけお代わりできるのだ。天国みたいだ。しかも悪い(?)ことに、そのサーバーは僕の目の前に置かれたのである。この日は90分ほどのあいだに12リットルのビールが消えることになった。

 この日も25時過ぎにお開きとなった。僕は今日も皆の宿泊するホテルまで一緒に歩き、次女を演じる吉田聡子さんに話を聞かせてもらうことにした。

 マームとジプシーが海外公演で訪れた都市は、北京で8都市目だ。北京をのぞく7都市で上演されたのは、『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品だった。その作品と『カタチノチガウ』に共通して出演しているのはただひとり、吉田聡子さんだ。

 『てんとてん』という作品では、最初の海外公演のときからずっと、“旅をするということ”について考えながら移動を続けてきた。それは『てんとてん』に限らず、今年の夏に全国ツアーが行われた『cocoon』もそうだった。少なくとも吉田聡子さんはそのことを考えていたように見えた。考えるというのとは、違っているかもしれないけれど。

 『cocoon』には重要なモチーフとして海が登場する。ツアーの3都市目、豊橋を訪れたときに、僕はまずひとりで豊橋の海を訪れた。その海が、これまで訪れた海とはまったく雰囲気が違っていることに驚いた。これは皆も観たほうがいいのではないか――そう思ったけれど、そんなふうに提案するのはおこがましいし、自分の役割を超えたことであるようにも感じられた。それで、LINEのグループトークに「明日、車を借りて海を観に行きます!」と、酔っ払いの戯言のようにだけ投稿したのだけれど、それに反応してくれたひとりが聡子さんだった。その後に公演を行った山口でも、「山口の海は見に行かないんですか?」という聡子さんの言葉で、朝から海に出かけもした。

 旅を続ける中で、聡子さんは舞台上で「ヒカリ」や「未来」といった言葉を語ってきた。聡子さんは今、北京でどんなことを感じていて、「ヒカリ」や「未来」といった言葉がどういう響きを持っているのか、聞かせてもらうことにした。






――『カタチノチガウ』という作品を海外で上演するのは今回が初めてですけど、昨日と今日、やってみた感触はどうですか?

吉田 やってみた感触は、「こんなだったか」っていうのを思い出す感じです。

――こんなだったか?

吉田 日本でやったときは、ひと月半ぐらい稽古をして、徐々にあの空気になっていって、原宿でやって、横浜でやって、また原宿でやって――そうやって徐々に感じてたものがあったけど、今回はこの1週間で全部が始まって。前回は長い期間をかけてあそこに入って行ったから気づかなかったけど、1週間でカタチノチガウの空気に入っていくとびっくりしてますね。

――今年のマームとジプシーは、本当にいろんな時間があって、いろんな速度がある中で活動してきてると思うんです。聡子さんは特に、日本での『カタチノチガウ』、『ヒダリメノヒダ』、『cocoon』、『てんとてん』と、上演された作品すべてに出演していて、そして今、ここでまた『カタチノチガウ』の言葉をしゃべっているわけですよね。

吉田 そうですね。『てんとてん』のときは、自分のしゃべる言葉に自分がついていくというか、言葉を通してあげるみたいな感じだったんですけど、今回の『カタチノチガウ』はまた違っていて。皆の身体を見たときに、半年前とは違ってるってこともあるし、私の見方も違うっていうのは感じてます。やりながら。この作品は、動きとか曲 が決められてる作品ですけど、でも、3人の生理的なところを重要視してくれてる作品でもあるなって思っていて。今の私には、その生理的な作業が一番しっくりくるのかもしれないです。

 今回、思い出すために『カタチノチガウ』のDVDをもらって観たとき、ぎゅっと閉ざされてる印象を受けて。今日の本番前、藤田さんも「3人でやってるんだけど、ひとりひとりとして」ってことを言ってたけど、たしかに、もっとひとりひとりに見えてきてもいいのになって思ったんです。ちょっとしたときの視線とか、身体の動かし方とか、そこに映ってる自分を観たときに、「すごい閉じてる」って印象があって、「え、こんなだったんだ?」っていうのがあって。自分の声とかも「過去の音だな」と思ったりもしたけど、なによりも映像を観たとき、自分の身体とか目線とかが個人的にはすごいストレスで。それがもうちょっと粒だってきたら、“さとこ”っていう人も見えてくるし、お姉ちゃん(長女の“いづみ”)ももっと残酷に映るだろうなっていうことは感じました。ずっと身体を動かしてるからだと思うけど、単純に「すごく未熟だな」っていうのが私は観ててストレスだった。自分の身体が。でも、藤田さんはダンサーを使ってるわけじゃない。初演のときに私が観てたものってあったはずなんだけど、外から見ていて全然違って見えるのがストレスでした。

――これは初演を観たときも思ってたことですけど、エピローグの台詞を言う作業ってすごく体力のいることだと思うんですよね。「あれから、あれから、何年が経っただろう。このお屋敷でひとりになって、何年が経っただろう。お屋敷は、小高い丘の上にあるから、町のぜんぶを見渡すことができるわけだけれど、町の大部分はおおきな洪水で流されてしまって、このお屋敷だけが取り残された。洪水のあと、まもなくして戦争が始まって、町の大半は焼かれてしまったけれど、このお屋敷は丘の上にあったから、戦火を免れた。わたしはだから、ひとりだけ無傷で、町でなにが起こっても、ひとりだけ無傷のまま、なんともない「平穏」な日常を過ごせていたというわけだ。わたしは、どこまでも、安心だった。どんな災害が起ころうとも、どんな戦争が起ころうとも、このお屋敷のなかでどこまでも安心だった」――この台詞を、客席のほうを見返しながら語るわけですよね。それはもう、海外だから響きが違うってことでもなくなってきてる気はしますけど、あの客席を向いて語る時間っていうのはどんな感触だったんですか?

吉田 どこの国に行ってもそうだけど、演劇を観に来てる人たちって、そんなに苦しい生活をしている人ではないのかなってことを思うんですよね。イタリアに行っても、ケルンに行っても、こうやって中国に来ても思うことだけど、「日本からやってきた演劇を観よう」って気持ちになる人っていうのは、やっぱり無傷な人たちですよね。少なくとも、今その場所においては。友達とか、恋人とか、家族とかに傷を負っている人もいるとは思うけど、「私自身は無傷でここにいます」って人が多いだろうなと思うんです。それは私もそうだし、ここにいる人皆そうだろうなって思う。作品をやってるあいだは、劇場の中にいて、大きな何か――隕石とか爆弾とか地震とかがない限り、守られてる時間じゃないですか。そのことは、中国に来て思いましたね。

――じゃあ、大きなことを想像しながらっていうよりも、もっと静かな気持ちでいる?

吉田 想像しようと思ってしてみると、ものすごく過剰なものを想像してしまうんですよ。その場に残った“さとこ”って人のことを考えると――残るってことに必要な体力のことも想像するし、精神的なことも考えるんだけど、でも、昨日と今日はもう、「一人で普通にやってきました」みたいな感じだったんですよ。この家に残って、ごはんもおそらく食べられてただろうし、ずっと泣いてはいなかっただろうし、「無傷に過ごしてきた」っていう、ほんとにそれだけなんだなっていうことを、今日は思いました。“さとこ”はきっと、お屋敷の中に――守られてた場所にいるあいだはきっと安心で、その人にとっては災害とか戦争とかってことよりも、姉って存在のほうが安心じゃないもので。その姉が帰ってきたときに、“さとこ”が思ってることを想像して語ることはできるんだけど、「それを想像して語っていいのかな」っていうのがあったかもしれないです。こういうシーンって、昔だったらもっと感情的に昂ぶるシチュエーションだったのかもしれないけど、今は本当に、ひとり取り残されてぽつんといるってところがあって。エピローグまで、私はずっとくるくる回る動きをやってるわけですけど、その時間が終わって、ひとり取り残されて呆然とした身体みたいなのがあるんです。そこに姉が帰ってきたときに、ずっと安心なまま止まっていた時間が動き出すみたいな感じは、やりながら感じてました。

――今年の『cocoon』でもまた、沖縄の戦跡を訪ねましたし、他の土地でも、たとえば「この街にも空襲があった」ってことに触れたり、「この街の海」ってことを目にしながら旅をしてきましたよね。今日のお昼、僕はひとりで中国人民抗日戦争記念館ってところに行ってきたんですけど、そこには「日本の侵略者たち」って言葉が繰り返し出てきて、日本軍がいかに中国を侵略し続けて、残虐なことを繰り返したかってことが展示されてたわけですよ。それを観てると、視点がぐるっと変わるというか、ああ、反対側から見るとこうなるのかってことを思ったんです。ただ――その展示を観たときに、この展示を観ていても、現在と繋がったこととして考えられないんじゃないか、と。別に日本が悪く描かれてるから駄目だとかってことじゃなくて、過去のことが過去ってことのまま終わってしまってる感じがしたんですよね。もちろん、戦争責任みたいな言葉で言えば、現在と繋がってるんでしょうけど……。過去・現在・未来ってことについては、『cocoon』でも考えてきたことだし、『てんとてん』でも考えてるし、『カタチノチガウ』の中でも考えてることだと思うんです。その過去・現在・未来ってことについて、聡子さんはどういうことを考えてますか?

吉田 現在のことしか、現在しか考えられないですよね。『cocoon』でも言ってたけど、過去ってすぐ過去になるけど、結構過ぎ去ってくれなきゃ過去ってことにはならないから。ただ、『cocoon』では過去と現在と未来とが繋がってたけど、『カタチノチガウ』をやりながらだと、いつが本物だったのかなみたいな感じになりますね。あと、『カタチノチガウ』は……幸せな時間がないですよね。過去を振り返ったときに、「今思い返すと、あの頃は良かったな」って思えないというか。「あのときのあの子の発言は、ああいうこと?」って考え始めると、過去の“さとこ”もそんなに幸せでもなかったし、今の“さとこ”もポツンとしちゃってるし、これから先どうなっていくかもわかんないし……。でも、わかんないです。やってるとき、「私自身がどう思ってるか」ってことを、そんなにちゃんとは考えてないのかもしれないです。私ももうおばさんになってきたから、自分より若い子に対して「健やかであれ」とかってことは思いますけど。

――でも、「幸せな時間がない」っていうのは面白いですね。というのも、昨日はゆりりに話を聞いてたんですけど、ゆりりは「楽しい時間が増えた」って言ってたんです。それはたぶん、ゆりりが演じるのは末っ子の役だから、二人の姉との記憶を振り返るシーンを楽しい ものとしてやれるのかもあるんでしょうけど。

吉田 あと、今回思ったのは――“お姉ちゃん”は「わたし、わたしたちの母親のことがとても嫌いだった」と言って突然出ていくわけですけど、別れ方がこれじゃなくてもよかったのになっていうのは思います。別にこれから一生会わなくてもいいし、離れ離れになってもいいんだけど、別れ方がこれだったから辛いんだなって思いました。別に、離れること自体は自然なことですし。

――そうですよね。「じゃあ、また」って言ったまま二度と会わない人だっていますからね。

吉田 そうそう。それだったら「あんな時代もあったな」って、ちょっとセンチメンタルな気持ちで涙を流すこともあるかもしれないですけど。

――こないだケルンでやった『てんとてん』って作品も、この『カタチノチガウ』って作品も、最後の台詞に「ヒカリ」って言葉が出てきますよね。ケルン公演では、ラストにある聡子さんのモノローグで――「目を、開けると」って台詞を言ったタイミングで、窓のシャッターが開いて外の光が入ってくる演出になってましたよね。あのとき、シャッターが上がりきるまで結構時間がありましたよね。

吉田 そうですね。2日目は特に、こっちのシャッターが開かなかったから、「開かないのかな」と思いましたけど(笑)

――シャッターが上がりきるのを待つ時間も、聡子さんは客席を見据えてましたよね。あのとき、聡子さんの頭の中にはどんなことが浮かんでたんですか?

吉田 「どんどん舞台が終わってくな」って感じですね。現実に戻るというか――全部現実なんですけど――ちょっと安心する感じ。ケルンはそれをすごく思った。

――今、「安心」って言葉が出たのはちょっと意外でした。それは、何からくる安心なんですか?

吉田 何だろう。「人がいた」みたいな感じなのかな。「わたしは、わたしたちは、現在(いま)、という、てんに、立たされているのかもしれない」って台詞もありますけど、今現在同じ状況にいて、現在っててんに立たされているのかもしれない人たちと繋がる――繋がるっていうと大げさな感じがするからちょっと気持ち悪いけど、客席と舞台のあいだに引かれてた線みたいなものがスッてなくなった感じが清々しいなと思いました。

――そういう意味では、今回の『カタチノチガウ』は、聡子さんの「おーい、誰かいる?」って言葉に尽きるんじゃないかって気もするんですよね。前回はあんまり思わなかったけど、今回はそう思ったんです。

 っていうのも、今回久しぶりにこの作品を観たときに、すごくラディカルな作品だなと思ったんです。危険な作品だと思ったんですよ。この作品を観た人ががらっと考え方を変えたり、たとえば「革命を起こそう!」って言い出す人がいても不思議ではないというか……。別に、いわゆる政治的なメッセージを打ち出した作品ではないですけど、それぐらい「私」と「過去・現在・未来」の関係を揺るがすところがある作品だと思っていて。こう言うと、「芸術っていうのはそういうものだ」と言われるかもしれないけど、この作品には強くそれを感じるんですよね。ただ、そういう意味で危険なものとして『カタチノチガウ』を観ていた人ってどれぐらいいるんだろうと思ったんです。やっぱり、「お芝居を観る」って距離感で観てる人が多い気がして――それはまあ、お芝居はお芝居なんですけど――そう考えると、「ヒカリ」とか「未来」って言葉がどう伝わったんだろう、と。舞台に立ってる聡子さんの中では、『カタチノチガウ』における「未来」、「ヒカリ」って言葉は、どんな響きを持つものですか?

吉田 この作品で「ヒカリ」って言葉を言うのはやぎさんとゆりりで、私はそれを聞いてる人で。“さとこ”は、帰ってきた姉に「カタチノチガウコドモ」を託されるわけじゃないですか。「この子にももう、あなたしかいないの。あなたがこの子の未来なの。だから、この子を、このカタチノチガウこの子をどうするかは、あなたが決めていい。あなたがこの子の未来になんにもないと判断するのであれば、この子を殺してしまっても構わない」って。そうすると……ヒカリっていうのは変わってきますよね。今はちょっと、ヒカリなのかどうかもちょっとよくわからない感じです。未来がヒカリなのかどうか、わからない。

――それは、未来ってものが頼りないから?

吉田 頼りないとかじゃなくて――ヒカリを見るであろうその子と、途中までは一緒にヒカリを見れるかもしれない私がいるわけですよね。そのコドモっていうのは、姉がよくわかんない人とつくってきたコドモなんだから、「別に向き合わなくたって」と思うじゃないですか。「この子を殺してしまっても構わない」って言ってるから、そうなんだろうけど、今は本当に、ヒカリも何も見えない感じが強いかもしれないです。

――それは、初演のときにもそういう感触だった?

吉田 いや、こっちに来てからが大きいかな。“さとこ”は一旦コドモの首に手をかけるんだけど、「やっぱりそれはできなくて」って言い切るじゃないですか。それを言い切るってことに関しては、日本でやってたときのほうが言い切れてた気がします。今ここで言い切らなかったら本当に危ない気がするけど――でも、自分がただ生きていくってことだけを考えれば、別に殺さなくても、捨ててどっか行くこともできるし、関係ないって言えば関係ないし……。今、そういう葛藤をしちゃってる自分に対して、何かもう、ほとほとですっていうことを、昨日と今日とで感じていて。

 「カタチノチガウコドモ」って言ったときに、ここは北京だから、アジア系の、形が違うけど似てる人たちのことを考えると……それって、何ですかね。戦争のとき、人間じゃなく見えるとか言うじゃないですか。やりながら、なんかそのことを思い出しました。いろんなシーンで。人間じゃなく思えたら、捨てれるし、殺せるし、とか。ここに来る前とか、あんまり良い印象がなかったじゃないですか。

――なかったですね。こっちに来たときに、「自分は良い印象を持ってなかったんだ」ってことを改めて気づかされて愕然としますよね。

吉田 そうそう。でも、来てみたら皆優しくて。中国の方と親しくしている友人に聞いたんですけど――日本人の記者が、反日デモをやってるところに行って、中国の若者にインタビューしたりしてるわけですよね。そういうときに、たまたまデモの列に入っちゃっただけの人も、反日的な発言を求められたりするらしいんですよね。私たちは(日本人は)そういう映像を見せられたら「中国の人ってそうなんだ」と思っちゃうけど、偏った人はものすごく一部なんだなっていうか、それは日本と同じだなと思ったんです。そう思ったときに、この土地にきて良かったなって思ったんです。