朝7時に起きる。テレビは昨日のSMAPの生放送一色だ。日テレとTBSは映像まで流している。知人はずっと不機嫌だ。「もふみたいに興味ないやつが騒ぐからこういうことになるんだよ」とボヤいている。朝はトーストを焼いて食べた。午前中はテープ起こしをする。昼、納豆オクラ豆腐うどんを食す。

 昼ごはんの買い出しのついでに現像に出した写真を、1時間後に受け取る。酔っ払ったときに落としたのか、撮影枚数のカウンターが「0」に戻っていて、「不具合が出てるんじゃないか」と心配になって撮り切る前に現像に出したのだ。上がった写真を確認すると、やはり不具合が出ている。衝撃で光が入ってしまったのか、半分くらいの写真は感光してしまっていた。15時に新宿「らんぶる」に出かけ、ブレンドを飲みながら構成を考える。

 19時、三省堂書店池袋本店でトークイベントを聞く。『たましいのふたりごと』刊行記念のイベントだ。ここにリブロが入っていたときにもよくトークイベントを聞きにきたが、当時はもっと上の階にある教室のような場所で開催されていた。今日の会場は店舗4階にあるイベントスペースなのだが、いかにも店舗の片隅といった空間だ。レジが近いこともあり、トーク中もどこか気持ちがそわそわする。

 それはさておき、トーク自体は楽しかった。印象に残った話はいくつもあるが、「運命」というキーワードについて話しているとき、未映子さんが言っていたことが特に印象に残る。曰く、昔はいつか私が当事者になることが怖かったけど、最近は常にどこかに当事者がいるということがおそろしいし、そのことを考えると憂鬱になる、と。もう一つ、「この世界でまともに表現しようと思ったら、誰とも友達になれないじゃん」という話も印象に残る。表現をする人間である以上、表現のことがすべてである。その関係は「友達」ということとは違っているのだろう。

 穂村さんの話で印象的な話もあるのだが、穂村さんの話にはロジックがある。何か一つの直感を語っているとしても、そのことを伝えるために明快なロジックがあり、それをすべてメモすることは不可能だったので、正確に引くことができない。穂村さんは同じ話を同じようにできると聞いたことがあるけれど、それはきっと、そのロジックが明快だからではないか。

 トークイベントを聴き終えると、サイン会が始まった。本を持ってくるのを忘れていたので、そそくさと会場を出てアパートに引き返す。知人は具合が悪いようで、ホットワインを飲んでいた。僕は麻婆豆腐とビールで晩酌をしつつ、録画しておいたドラマいつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうを観た。『Mother』、『それでも、生きてゆく』、『最高の離婚』、『Woman』等々、ここ数年の坂元裕二作品がすべてここに注いでいるように感じられる。

 今回のドラマは、高良健吾が演じる曽田練が、友人が置き引き(?)した荷物の中に手紙を見つけるところから始まる。その手紙を一読した曽田は、バイト先のトラックを勝手に持ち出し、荷物の中にあるクリーニング店の会員証を手掛かりに苫小牧を目指す(話は逸れるが、このバイト先がなかなかにブラックであることも含みが感じられるし、荷物を積んだまま勝手に北海道まで出かけるというファンタジー具合も面白い。荷物を積んだトラックを勝手に持ち出すことは現実的には相当なペナルティが課されるであろうし、苫小牧まで出かければフェリー料金を合わせて片道5万はかかるところだ。でも、そのあたりを何となしに飛ばせるのがドラマのいいところだ)。

 荷物と手紙の持ち主は、有村架純演じる杉原音だ。彼女はシングルマザーに育てられていたが、幼い頃に母を亡くし、養子として引き取られる。だが、この里親(柄本明――そういえば彼もそれでも、生きてゆくに出てきた)がなかなか嫌なヤツであり、金持ちそうな馬主と結婚させようとしている。しかも、「こっちは21の娘くれてやってんだ、ハワイぐらい連れてってくれるだろう」なんてことまでのたまう輩だ。どうしても結婚に踏み切れず、音が「このまま三人一緒に暮らさせてください」と頭を下げても、「恩知らずが」と吐き捨てるように言う。彼女はどこにも逃げ場のない世界に生きている。

 そこに手紙を持ってあらわれたのが練だ。何度かやりとりを交わしたのち、二人はファミレスに出かける。そこで音は、物珍しそうに、嬉しそうにメニューを見つめる。恋人がいるという練に、「駅のこっちとこっちとかでさ、『電話するね?』とかやったりする?」「花火大会とか行ったりする?」「家具屋さんに二人で行ったり――東京の家具屋さんってさ、すごい広いんでしょう? はぐれたりするんでしょう?」「ハイヒール? その人」「どんな服着てる?」と質問攻めだ。

 『Mother』では室蘭が舞台となるし、それでも、生きてゆくでは瑛太は釣り船屋――ロケ地は諏訪だ――で働いていて、『最高の離婚』では尾野真千子演じる妻の実家の山梨を訪ねた瑛太は、田舎の実家独特のノリに腰が引けていた。坂元作品では、地方がしばしば重要な装置となるが、その視線は独特だ。土着的なものをことさら描くわけでもなく、「地方の現状を反映させる」といった(言ってみれば都会からの)目線で描くのでもなく、どこか透明な目線で、その姿そのものとしか言えないような空気が切り取られている(そう考えたときに、室蘭と苫小牧という北海道・胆振地方へのこだわりが何であるのか、気になるところだ。錆びた町の佇まいだろうか)。

 閉塞感という言葉ではもはや表しきれない感情は、音から練へのモノローグにあらわれる。ダムの建設予定地――この佇まいがまた何とも言えずマッチしている――に練を連れて行き、こう語る(関西弁がにじむのは、音が幼少期を過ごしたのが関西だからだ。里親に引き取られ、関西弁をやめるように指導されて、今は標準語を話す)。

 「昔、ここにダムができるはずだったの。本当だったら今頃あの町はダムの底に沈んでるはずだったの。でもお金とか環境のことで反対運動があって、10年前に、途中で建設中止になったの。私、こどもだったけど中止になってガッカリしたよ。こんな町、ダムの底に沈んだらええのにと思ってたから。警報のサイレンが鳴って、皆一斉におうちから逃げ出していくの。誰もいなくなったあとに、大きな湖だけが一つ、残るの。ずっとそういうの想像してたから」

 この台詞が語られるのは2009年であり、第1話のラストには2011年の1月まで時間が飛ばされる。このドラマにいつか訪れるであろう時間について、視聴者はここで意識させられる。

 坂元裕二は、ここ数年、しんどいテーマに挑んできた(被害者と加害者のその後、シングルマザー、女性の生き方など、普通に言えば社会派なテーマとも言えるのだが、しんどいテーマといったほうがしっくりくる気がする。もう少し言えば、政治によって解決されることではなく、私たちの思考や感情がどうあるのかということなしでは解決しない――いやそもそも「解決」ということとは無縁ではあるのかもしれないというスタンスが見えるからである)。その流れが、このドラマに注いでいる。

  ここ数年の作品と今作には共通点も多くある。前述したように、今回のドラマには苫小牧が登場するが、『Mother』には室蘭が登場する。『Mother』では、ネグレクトされた子供を観かねた松雪泰子がその子を連れ去るところから始まる(今作でも、家賃を滞納し困窮するシングルマザーと、髪がぼさぼさに伸びた小さな女の子が登場する)。

 それでも、生きてゆくには主要な登場人物が3人いる、瑛太演じる洋貴は、幼い頃に妹を殺された。妹を殺した犯人は、洋貴の友達だった健二(風間俊介)だ。その健二の妹・双葉を演じるのが満島ひかりである。ある事件の被害者家族と加害者家族のその後を描いたドラマだが、その第1話で、偶然(でもないが)出会った洋貴と双葉がファミレスに出かけるシーンがある。ファミレスは、すでに述べた通り、今回のドラマでも重要な舞台となる(しかも、いずれも都会のファミレスではなく、田舎のファミレスだ)。

 それでも、生きてゆくでは、更生したかに見えた健二は再び事件を起こし、シングルマザーの女性を襲う。彼女は意識不明の重体となる。意識を取り戻す可能性は低く、延命措置が取られているだけだ。そこで双葉は、被害者家族に頼み込んで、残された女の子の母親代わりとして過ごすことを決める。そうしてシングルマザーになる決断をする双葉を演じる満島ひかりが、『Woman』でもまたシングルマザーを演じている。

 ところで、ドラマを観ていて一番ハッとさせられたのは、最後のシーンだ。第1話のラストで、母からの手紙を読むシーンがある。それは、音の母が生前書いた手紙で、「心のつっかえ棒」として、事あるごとに読み返してきた手紙だ。その手紙のナレーションを務めたのが満島ひかりだったのだ。それでも、生きてゆく『Woman』でシングルマザーを演じた満島ひかりだ。

 その手紙には、「時に人生は厳しいけど、恋をしてるときは忘れられる」という一節がある。

 このドラマは月9で放送されるドラマだ。ここで語られる「恋」は、かつてのトレンディドラマとは当然だが違う回路だ。そこで提示される恋は、若さの特権として享受するものではない。その世界は鈍く、重い。だが、どんなにしんどくて重くてやれんことがあっても、それでも希望はある――そこで提示される「恋」というのは、まったく意味が違っている。単に社会派なテーマを月9に放り込んだということではなく、それでも射し込む光を描こうとしているのだろう。長々書いてしまったが、今後が楽しみなドラマだ。それにしても、坂元裕二作品を観ると、いつもこうして台詞を起こしたくなってしまう。

 ドラマを観ているあいだ、知人はずっと涙を流していた。一番泣いていたシーンは、音が大切にしていた母親の遺骨をトイレに流されるシーンだ。「こんなことされたら、そいつのこと殺してやる」とまで語っていた。そう泣きじゃくる姿を前に、どうして自分はこのシーンで涙が出ないのだろうと冷静になる。わがごととして考えていないからだろうか。しかし、それが実際自分の身に降りかかったとして、涙を流したり、呆然としたり、「殺してやる」と怒ることができるだろうか。人が大切にしているものを踏みにじることに対して怒ることはできても、そのものが消えてしまったことを悲しめるだろうか。おそらく僕は悲しめないだろう。