朝から知人に詫びを入れる。昨晩は2時近くになって酔っ払って帰ってきて、知人に迷惑をかけてしまった。「おいー、パン焼いてくわせろよー」と言うので、知人のぶんも網で焼く。アンデルセンの食パン。広島のパン屋さんが東京にもある不思議。昼はスーパーで買ってきた和風ハンバーグ弁当を食べて、湯に浸かって読書。最初に読んだのは高田かや『カルト村で生まれました。』(文藝春秋)だ。

 この漫画、もともとはWEBで連載されてたそうだが知らなかった。その「カルト村」の看板は最寄り駅のホームから見えるし、その内実をぼんやり知っていた。「カルト村」は原始共産制と呼ばれることもあるが、「所有のない社会」を掲げており、「私有」という概念を否定している。子どもも「村の財産」のような位置づけであり、親とは離れて暮らすことになる。その「共有」ぶりが、子どもの目線で描かれていて興味深く読んだ。

 印象的だったのは、飴の話。村の子どもにとって、飴は順番に舐めるものであり、それが一番公平だと思っていたと著者は振り返る。あるいは、親戚などから個人宛に送られてきたプレゼントも「共有」のものとして扱われる。たとえば、筆箱が送られてきたとする。その筆箱は、一番ボロい筆箱を使っていた子に渡されることになる。ただ、ここで印象的なのは、どこまで行っても「私有」をなくすことはできないということだ。その筆箱は、暫定的にとはいえ誰かのものになる。

 村の子どもたちは、初等部に上がったときにプレゼントを渡され、個人用の引き出しがもらえることになっている。「自分宛の自分だけの物をもらう」のは「生まれて初めて」で、「最初はこれをずっと持っていて良いということが理解できなかった」という。引き出しに「もっと何か入れたいな」と思った著者は、他の子の引き出しをのぞき見し、「私の引出しに入れたい!!」と移し替えてしまう。それで大目玉を食らうのだが、ここには「所有」をめぐるねじれ(というよりも、「所有のない社会」という理想の矛盾や破綻)がある。

 そうした軋みは随所に感じられる。僕は、“村の子ども”は村の中でだけ生きているのかと思っていたが、普通に学校に通っているらしかった。学校からの帰り道、著者と他の子は野良猫と遭遇する。ペットを飼うことは禁止されていたが、猫は懐いてついてきてしまった。それを村の大人に報告すると、猫は飼えないから、「このネコはこっちに任せて初等部に帰りなさい」と笑顔で言われる。どこかに捨ててきてくれるのかと思ったが、ある子どもはどうしても気になって、トイレを借りるふりをして引き返す。すると、笑顔で見送っていたその大人は、後手で猫の首を締めていたのだという。その表裏に、村の軋みが凝縮されているような気がした。

カルト村で生まれました。

カルト村で生まれました。

それを読み終えると、次に『ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992-1995』(集英社インターナショナル)を読んだ。戦時下の子どもたちだった人たちが、「あなたの子ども時代の思い出を160字以内で語ってください」とSNSで呼びかけたことで出来上がった本だという(意図したわけではないけど、『カルト村で生まれました。』もこれも、どちらも「子ども」の目線で描かれた本だ)。その呼びかけに対して数千ものメッセージが寄せられ、そのうちの1000のメッセージが掲載されている。

 『カルト村』を読んだとき、そうか、その村の子どもたちも学校に通っていたのかと驚いたが、4年におよぶ包囲戦のあいだ、ボスニアの子どもたちが砲撃から逃れつつ学校に通っていたことに驚く。「スナイパーが発砲するなか、7キロの道のりを徒歩で通学」というメッセージもある。印象的なのは食べ物の話。ランチパックとイカール缶詰という2つの救援物資が頻出する。

 イカール缶詰は奇跡! 猫ですら食べようとしないのに、私たちは仔牛のデミグラスソース煮を食べるみたいに幸福だった。

 M&M'sのチョコレートが入っていればいいな、と思いながらランチパックを開けて、入っていたときのうれしさったら!

 なぜこんなにピーナツバターが好きなのか? それがあのころの、たったひとつの甘いものだったから。


 あるいは、「最初に覚えた英語は、『プリーズ チョコレート』なんてのもある。そのエピソードを読んでいると、70年前の日本ともどこか重なる。あるいは、「『ニンジャ・タートルズ』の大ファンで、ミケランジェロがピザを食べているのをしょっちゅう見ながら、ピザって何!?って思ってた」というのは、自分の幼少期とも重なる。ピザはまだ遠い存在だった気がする。ただ、そのピザのエピソードに少し共感したあとで気づく。ボスニアアドリア海に面していて、その海を挟んだ対岸にはイタリアがある。そんな場所に暮らしていた子どもの「ピザって何!?」は、当たり前だが全然違う意味を持っている。

 エピソードの中には、弾丸を拾って集めたり、戦争ごっこをして遊んだというのもある。この本を企画したヤスミンコ・ハリロビッチもその一人だ。翻訳者である角田光代は、まえがきにこう書いている。

(…)そうだよな、子どもは何が起きているかわからないものな、と私が思った次の瞬間、彼は言った。ああした異常な世界では「ユーモアが生きる術になる」と。そうか、と思った。こどもはわからないのではない、言葉にならずとも本能的に知っている。遊ぶことで、笑うことで、たのしいと感じることで、子どもたちは闘っていたのだ。

 あるいは、著者のヤスミンコはこう記す。

 川で洗濯をする女性たち、墓地と化したサッカー場、地下室で行われた授業――どれも理解に苦しむ光景だが、包囲下の町では日常だった。絶え間ない砲撃のもとでも、コンサートや演劇、展覧会が開かれた。暗闇のなかでも本は書かれた。

 ボスニアを訪れたとき、「紛争があっても演劇は続けられた」という話を聞いてはいたのだが、その意味をちゃんと受け止められていなかった気がする。ボスニアでコーヒーを飲んだときのこと、川沿いの道を歩いたこと、アテンドしてくれたタイダさんのことを思い出しながら読んだ。

ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995

ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995

 夜、与野本町へ。19時半、夜三作を観る。今日で3度目の観劇だ。台詞が少し加えられていて、「幽霊」という言葉が登場する。先日のアフタートークでも「街を出てしまった人は、その街にとっては“死んでしまった人”と同じではないか」という話が出ていたが、10年前に姿を消してしまった子も、今からこの街を出ようとする人も、「幽霊」として語られる。後者は自ら「この街の幽霊になる」と語ってもいる。

 「幽霊」というフレーズに、昨年秋にイタリア・ポンテデーラで滞在制作した『IL MIO TEMPO』という作品のことを思い出す。あの作品でも「幽霊」という言葉が何度か語られていた。あらためて、彼らが旅してきた5年間のことを思う。それと同時に、この舞台に存在していない人のことを強く思う。5年前の『Kと真夜中のほとりで』に出演していた15人のうち、8人はこの舞台に立っていない(クレジットだけ見ると9人に見えるが、「舞台に立っていない」という意味においては8人になる)。役者というのは、僕にとっては幽霊のような存在だ。舞台を観るときにだけ会える存在で、それ以外の時間は消えてしまう。ふとした瞬間に、「この台詞はあの人の声で語られていたんだったよな」ということが頭をよぎる。

 それにしても、成田亜佑美吉田聡子、川崎ゆり子の3人が交わすやりとりは非常に印象的だ。そのコミュニケーションは、時にモノローグの形を取り、時にダイアローグの形を取る。その二種類があるのは舞台として当然といえば当然だが、そのどちらでもない台詞の応酬が登場する。モノローグといえばモノローグであるのだが、「独白」というほど力強く語られるわけではなく、淡さのある語りだ。淡いモノローグと淡いモノローグが重なり合い、これまでのマームとは少し違った世界を感じさせてくれる。その淡さと「幽霊」というフレーズは、どこか近いものがある。

 観劇を終えると、駅前の「庄や」に入って6人で飲んだ。「庄や」までの道すがら、幽霊という言葉について話をした。幽霊って言葉はすごく微妙な言葉だから、今の感じで結構ギリギリかもしれないですね。F田さんはそう言っていた。楽屋で本番を眺めながらビールを8本飲んだらしく、足元は少しふらついている。その「ギリギリ」ということの意味は、少しわかる。今日の午後にwikipediaで“カルト村”の項目を読んでいたが――それにしても左派知識人の数人が素朴に感銘を受けているのが印象的だ――そこに登場する“特講”のことを思い出す。そこにはこう書かれている。

 近藤は1995年(平成7年)7月に、実際に特別講習研鑽会を受講している。近藤によると特別講習研鑽会では進行役が参加者に対し「嫌いなもの」を問い、回答があると「それは嫌いなものですか?」と尋ねる。それに対しいかなる反応があっても進行役はひたすら「それは嫌いなものですか?」と繰り返し、参加者が沈黙すると次第に語気を荒げて反復する。同様に個々の座布団について「これは同じものですか?」と繰り返し質問するパターンや、「如何なる場合にも腹の立たない人になる」という目標を確認した後、腹が立った経験について語らせ、「で、なんで腹が立つんですか?」と次第に語気を強めつつ繰り返し質問し、延々と、受講者が腹が立たなくなるまで続けるパターン(怒り研鑽)もある。こうした反復は数時間、一昼夜に及ぶ。また斎藤貴男によると、参加者に対し研鑽会終了後も実顕地に留まるよう求め、「残れないのは我欲があるからだ」などと詰め寄る「解放研」と呼ばれるプログラムも存在する。

 近藤によると、「怒り研鑽」における数時間にわたる反復の中で、怒りを覚えた動機を全面的に否定し、むしろ自分のほうが謝罪したいと涙ながらに語る参加者が現れた。さらに会場内には連鎖反応的に恍惚の表情を浮かべ、「もう腹は立ちません」と語り出す者が現れた。そのような反応に対し、進行役は頷く素振りをみせたという。近藤は「まるで集団催眠にかかったような光景だった」と述懐している。

 ここには「反復」という言葉が登場する。一方、マームとジプシーの特徴として語られるのは「リフレイン」で、単なるリピートではなく、反復によって身体に感情が凝縮されていくのが特徴と言える。さらにウィキペディアを読み進めると、斎藤環による報告が紹介されている。「斎藤は受講者を対象に行ったヒアリング調査に基づき、記憶の喪失、変性意識体験、多幸感、『景色が鮮明に見える』など、受講者が証言する神秘的体験と解離性症状との間に類似点が複数みられるという内容の報告を日本社会精神医学会において行っている」と。

 僕は別に、「マームとジプシーはカルト集団だ!」と言いたいわけでは当然なく、芸術、特に舞台表現と宗教は非常に近しい性質があるのではないかと思っている。その二つを分かつのは一体何であるのか。もちろん、「カルト」には明確な定義があるので、「この団体はカルトではない」と論じることは可能である。しかし、「私」を離れてゆく表現、見えないものを感じさせる表現、超越的なものを感じさせる表現というのは一体何であるのか。また、それを突き詰めるとどこに至るのか。そんなことを考えながら「庄や」に入る。メニューを見ることもなく、F田さんは次々とツマミを注文した。