朝は「三笠」でゴーヤチャンプルー(単品)を食す。昼はバスに乗って北谷に出かけ、「ゴーディーズ」でハンバーガーを食べた。M山さんに教えてもらって、前にも訪れたことのある店。北谷にある砂辺という地区を歩いていると、皆で歩いた記憶がよみがえってくる。それにしても、僕はどうしてこんなに再訪ばかりしているのだろう。一体何をやっているのだろうか?

 夜、「output」で向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライブだ。ステージには残波(白)のボトルが置かれている。今日のライブもまた、「6本の狂ったハガネの振動」から始まる。この曲は元々、「6本の狂ったハガネの振動/R・O・C・Kでオマエを扇情」というフレーズが何度もリフレインされていた曲だが、今は「誰かが散らしたゲボだらけ」というフレーズが繰り返される。弾き語りでもよく演奏されていた曲だが、昔とは印象も違ってくる。「オマエを煽情」するのではなく、誰かが散らした路上のゲボを“ただ見ている”。

 そう、“ただ見ている”。何より印象的だったのは本編最後に演奏された「日曜日の真っ昼間 俺は人混みに紛れ込んでいた/強ーい日差しが真っ白けっけの店ん中に混ざり込んでいた」というところまで歌うと、向井秀徳は「そう、そんな祝日」と語りだす。

国際通りを歩けば、若いお父さんとチビどもが闊歩していた。いろんな国の人たちがいました。見たこともないウマそうなもんにかじりついていた。それを俺は見ていた、それだけ。純粋な無垢な、まっしろけっけな存在を、俺はただただ見ていた。別に何もない、俺は見ていた、歩いていた、ハンバーガーを食って宿に戻った、それだけ」。

 この「ただただ見ていた、ただただ歩いていた、それだけ」という言葉を何度か繰り返し、再び歌詞に戻る。これまで聴いた「自問自答」の中でも相当印象的な演奏だった。あまりにも決まり過ぎたせいか、アンコールで向井秀徳は何か歌いかけては演奏を止め、珍しく「あとは何をやればいいですかね?」なんて客席に語りかけていた(そこでリクエストのあった曲は他の人の曲のほうが多かったのが謎だが)。何曲か演奏したあと、本編ですでに演奏していた「はあとぶれいく」を再び演奏してライブは幕を閉じた。

 昨年末あたりから穂村さんの本を読んだり話を聴いたり、寺山をきっかけにして歌集や句集をぱらぱらめくるようになったせいか、あらためてその詩の鋭さに驚かされる。その一方で、(もちろん酔っ払っていたせいもあるだろうが)「自問自答」を歌っている途中でやや口がまわらずにいたことも印象に残った。僕が最初にお会いしたとき、向井さんは30歳だったが(今考えると本当に驚く。今の自分より年下だったなんて)、今は42歳だ。人間は確実に年を取っていって、いつかはその歌が聴けなくなってしまう。

 しかしながら、今日のライブを観ているあいだ、「ひょっとして僕は向井秀徳の歌を何も理解できないのではないか」という気持ちにもなった。「今日のライブがイマイチだった」とか、そういうことではまったくなく、むしろ素晴らしかったのだが、あらためて、頻繁に登場する「くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動」というフレーズのことを考える。

 向井さんの歌では、「女」であるとか、「色」にまつわる記憶が歌われるが、僕の身には色気のある出来事はまったくといっていいほど起こったことがない。旅に出て誰かと一夜限りの交わりを持ったこともなければ、「30分間25000円のあやまち」を犯してしまったこともない。そんな僕に、あの歌が「刺さる」と言えるのだろうか?――客引きの男性の群れを無言で交わして歩き、コンビニでビールを買って足早にホテルに戻りながら、そんなことを考えた。