9時頃起きる。ジョギングに出たのち、そばを茹でて食す。昨晩、酔っ払って光が丘にたどり着いたところで知人に連絡をして、「そばが食べたい、そば買っとけ」とわけのわからない伝言をしたらしく、台所にそばが置かれていた。食べないでおくのも申し訳なく、朝からそばをすすることになったのである。タイムラインに雨宮さんの訃報が流れてくる。今日の未明に途方にくれたつぶやきを見かけ、一体何が起きたのだろうと思っていたけれど、このことだったのか。僕は一度座談会でお会いしたことがあるだけだったので、語れるほどの言葉はないけれど、タイムラインにときどき浮かんでくるツイートを眺めて過ごす。

 14時、麻婆豆腐丼を食す。食後はコーヒーを飲みながら周東美材『童謡の近代 メディアの変容と子ども文化』(岩波現代全書)を読んだ。何となく手に取った本だが、これが面白かった。最初に取り上げられるのは『赤い鳥』という雑誌だ。鈴木三重吉が1918年に創刊した『赤い鳥』は、当時の子ども向けの読み物や唱歌を世俗的で下卑たものだと断じ、子どもの純性を育むための説話や童謡を創作して世に広める運動を始める。この運動は二つの方向を持っていた。一つは詩人による文芸運動としての側面であり、もう一つは音楽家による西洋音楽の導入という側面である。

 『赤い鳥』に関わっていた詩人に北原白秋がいる。北原白秋にとっての童謡は、本書でこう説明されている。

 白秋は、童謡とは作曲されるようなものではなく、「昔から子供がしぜんと歌ひ出したもの」、つまり、在来のわらべうたのような歌謡でなくてはならないと考えていた。白秋にとってわらべうたが理想となるのは、これが「自然」な歌だと信じられていたからだった。
 もともと「童謡」の語にわらべうたの含意があったように、『赤い鳥』の童謡は、そうした民族音楽との連続性がイメージされていた。近代化と都市化が進む大正時代、白秋は、子どもを取り巻く「伝統」が、危機の状態にあると見なしていた。彼は、「伝統」の衰退を問題視し、わらべうたの「復興」を唱えたのである。(p.45)

 近代化されたことで伝統が危機の状態にあるとして、白秋はどうして童謡に、子どもに目をつけたのか。

 子どもに還ることが目指されたのは、大人の内なる「思無邪」の境地へと至り、子どもが世界を観るように、世界を異化し「清新で驚きに満ち」たものとして感じるためであった。それは、もちろん、単なる感傷や退行願望ではなかった。
 つまり、白秋にとっての「童心」とは、異界への道だったのである。「童心」という語は、序章で述べたように無垢な子どもの心を指し、「童心主義」といえば大正期に成立した子ども観を指すことが一般的である。だが、白秋がここで説いていたのは、創作に関わる方法や態度、いわば「創作技法としての童心主義」だった。彼にとって「童心」は、社会が抱く子ども像ではなく、新しい世界と出会うための媒介であり、身体と感覚に根差した新たな創作技法のことだったのである。白州にとっての童心とは、詩作を可能にする根拠に他ならない。(p.47)

 西洋から純粋、純心といった概念が輸入されたことも、白秋の思想に影響を与えているのだろう。そうした西洋の概念を日本固有の文化に当てはめたとき、それは宗教的な色彩を帯びることになる。

 つまり、白秋にとって童謡を歌う身体とは、いわばシャーマンであり、「霊媒medium」だったといえよう。それゆえに歌う身体とは、時空を超越し、作者と読者とを無媒介に直接的に結ぶような透明なコミュニケーションの媒体mediumだと想像されたのだ。そうした一種の「神憑り」をもたらすものとして、この詩人は童心を必要としたのである。
 そうした「神憑り」的な心理状態に近づくために、白秋は童心に還ることで、「恍惚たる忘我の一瞬に於て、真の自然と渾融せよ」と説く。彼は「児童は昼も夢見る」「児童の肉体には昼も夜も常に無邪気なる霊魂の状態を保持していると考えた。童心に還ることとは、夢をみるときのように通常の意識から離脱し、自我を解体することだった。(p.54-55)

 『赤い鳥』が創刊されたとき、そこにはただ歌詞が掲載されているだけだった。白秋にとって、童謡は沸き上がってくるものに感応して自然に歌うものだったのだが、読者からは「どうやって歌えばいいのか」という反応が寄せられることになる。そこで鈴木三重吉は(白秋の反対を押し切って)楽譜を乗せるようになる。次なる転機は、『赤い鳥』創刊1周年と山田耕作アメリカからの帰国を祝し、1919年に帝国劇場で赤い鳥音楽会が開催されたことだ。ここで童謡が初めてコンサートで演奏され、童謡に聴く側と聴かれる側という関係が導入されることになる。

 ただ、この赤い鳥音楽会には不満の声も寄せられた。それは、歌唱していたのは8人であり、観客はもっと溌溂さを求めていたのだという。溌溂さを求める観客がなぜ生まれたのかと言えば、赤い鳥音楽会以前に少女歌劇がブームとなっており(宝塚歌劇団の創立は赤い鳥音楽会の5年前だ)、“お伽歌劇”というおとぎ話を歌劇にしたものが上演されていたからである。このお伽歌劇を作っていたひとりが本居長世だ。

 本居長世は、童謡作曲のずっと以前から、家庭や子ども向けの歌劇の創作に手を染めていた。一九〇九(明治四二)年にはお伽歌劇《月の国》を創作し東京の代表的な百貨店である白木屋で上演、このとき長世は二四歳であった。これは、鈴木三重吉の児童歌劇構想はおろか、宝塚少女歌劇の創設や『赤い鳥』の創刊にも先立っている。長世は一九一二(明治四五)年には白木屋呉服店音楽部の顧問となり、余興場付属の少女たちを指導してコミック・オペラ《歌遊びうかれ達磨》を上演した。(略)
 長世の子ども向け歌劇は、「如何かして外国音楽を取り入れて日本民族の血を其中に灌入れたい」という彼の強い思い入れによって創作されたものだった。そのため、彼の子ども向け歌劇は、娯楽興行であるばかりでなく、日本風の新しい音楽の創成と、芸術の啓蒙という名目があった。(p.133)

 この本居長世(と三人の娘たち)によって、童謡というものの方向を決定づけることになったのだと著者は述べる。1920年11月27日、有楽座で新日本音楽大演奏会が開催された。様々な邦楽が演奏されてゆくなかで、本居長世の娘・みどりが登場し、童謡を歌ったのである。

 著名な国学者や作曲家を輩出した家柄の「令嬢」が独唱によって初舞台を飾った様子が、公演後ただちに伝えられた。この記事のなかで注目すべきは、「溌溂」さではなく、みどりの「可憐」さや「子供らしい自然な哀調」、そして先天的な才能について注意が向けられていることである。こうした点に関心が集まるようになったのは、とりもなおさず、独唱という公演形態が実現したからにほかならない。(p.127)

 本居長世は俗謡の調査をしていた経歴もあり、それらを低俗なものと断じた北原白秋とは正反対の立場である。しかし、その本居長世が童謡運動に合流し、その娘が童謡を歌う身体には北原白秋がイメージしていたものと近い何かが宿っていたことは、不思議なねじれだ。「可憐」な「令嬢」の身体について、著者はこう記す。

 つまり、「令嬢」の身体とは、一定の訓練の果てに、なにかを為そうとする意識から解放されることを目指していたのであり、「無技巧の中の技巧」を体現する身体とは、計算尽の作為性をもたない身体なのだ。そうした一種の「空虚さ」を伴った身体によって、本居親子は、あどけなさや自然としての子どもらしさ、つまり童心を表現しようとしていたのである。本居姉妹において、童心とは、身体に宿り上演されるものとなった。このような子どもの表現は、特別な力をもつもので、みどり自身、そのようにして歌われるあどけなさには、「小さい子供だけが持つ不思議な力」があると認めていた。

 この本を読んでいると、ここ数年ぼんやり考えていたことに関する思考のヒントをいくつももらえた気がした。そしてそれは、自分が大学時代に専門としていた領域に近いことでもあるというのが、なんだか不思議な感じがする。


童謡の近代――メディアの変容と子ども文化 (岩波現代全書)

童謡の近代――メディアの変容と子ども文化 (岩波現代全書)

 19時過ぎ、シャツにコートを羽織ってアパートを出る。外はすっかり寒く、セーターを取りに帰ろうかとも思ったけれど我慢する。11月からシャツとセーターとコートを重ねてしまうと、どうやって冬を乗り切れるのかと不安になる。バスで池袋に出て、西武百貨店天狗舞大吟醸を購入すると、急いで電車に乗り込んだ。今日は20時から、大学時代の友人であるY田さんの新居に遊びにいく約束をしているのだ。

 20時ちょうどにY田さん宅のチャイムを鳴らすと、Y田さんと一緒にAさんが出迎えてくれる。Aさんというのも大学時代の友人だ。僕は大学3年までは大学の友人と言えるほどの相手がほとんどいなかったが、大学4年のときに坪内さんの授業を取り、そこで友人が出来た(友人たちと卒業後も関わりを持ちたくて『HB』を創刊した)。AさんやY田さんは、一緒に『HB』を作っていた仲間でもある。『HB』が休刊し、それぞれ仕事が忙しくなり、2人はそれぞれ結婚もして会う機会は少なくなっていた。そんなY田さんから「飲みませんか」と突然連絡があったのは先月末のことだ。

 池袋の焼き鳥屋で待ち合わせて、ビールで乾杯した。一体どうして急に誘われたのだろうかと様子を伺いつつ杯を重ねていると、実はもうすぐ子どもが生まれて、そうすると人と会える機会も減るかもしれないので、今のうちにいろんな友達と会っているのだとY田さんは言った。予定日は約1ヶ月後で、相手は出産に向けて里帰りしているという。焼き鳥を食べ終えると、出産に向けて引っ越したという新居にも案内してもらった。それはAさん宅から比較的近い場所にあるということもあり、Aさんを誘って改めて新居に遊びに行くことにしたのである。

 Y田さんは寿司を買っておいてくれていた(それを聞いていたから手土産は日本酒にした)。招いた客のために寿司を取る。そんなこと自分には考えもつかないので驚いた。それどころかここ何年も誰かを家に招くということすらしていない。Y田さんはお寿司をテーブルに出すと、おもむろに「ああ、お吸い物も飲む?」と松茸のお吸い物を取り出す。Aさんが「Y田さんのホスピタリティには感動するね」と言うと、Y田さんは「絶対バカにしてるでしょ」と笑いながらお椀にお湯を注いでいたけれど、僕もちょっと感動していた。Aさんもきっとそうだろう。いつまでも学生の頃と変わらない気持ちでいたけれど、もう若くはないのだ。

 「いちおう説明すると、3貫ずつしかないネタは高いやつで――高いつっても1貫150円だけど――4貫あるのは安いやつだから」とY田さんが説明してくれる。「安いのは2貫で100円だから、高い方はまあ、3倍の値段ってことだけど」

 「じゃあ、高いほうを2個食べると喧嘩になるわけですね」とAさん。

 「まあ、高いっつってもはま寿司だから、まわらない寿司屋に比べると全然安いけど」とY田さん。話を聞いていると、Y田さんは夫婦でたまに寿司を食べにいくという。僕は旅先で寿司屋に入ることはあるけれど、普段の生活で寿司を食べるなんてことがないので、ここでもまた感心してしまった。しばらくビールを飲んだところで尿意を催し、トイレを貸りようとすると、「いちおう座ってしてくれると助かる」とY田さんが言う。トイレに入ってみると、掃除道具がしっかり揃っている。ブラシとトイレクイックルが置かれている――なんてレベルではなく、洗剤とスプレーが何種類か並んでいて、掃除グッズが好きな人間としてしばらく見入ってしまった。

 Y田さんが結婚式を挙げて1年が経つ。一緒に暮らしていて、些細なことで不満に感じることはないのかと聞いてみる。僕は知人としょっちゅう喧嘩になるし、Aさん夫婦も些細なことで揉めることがあるという。でも、「うちは全然ないね」とY田さんは言う。俺はそんなに気がつくほうじゃないから、相手のことで気になることはないし、何か言われたらそれに従う、と。そんな話を聞いていると、蓋をつけたままペットボトルをゴミ箱に捨てる知人に腹を立てている自分はとてもちっぽけであるような気がする。

 Y田さん宅を訪問する前からずっとそわそわしていたことの一つは、何時頃帰るかということだ。僕は会社勤めをしたことがないので、普通の人は何時ぐらいに寝ているのか、想像がつかなかった。結局23時頃においとますることになった。さて、どうやって帰ろうか。Googleマップを開いてみると、「バー長谷川」が案外近くにある。せっかくだから歩いて「バー長谷川」を訪ねて、ハイボールを2杯だけ飲んだ。最近は自宅で晩酌をするときにハイボールを作って飲むことも多いけれど、ここのハイボールを飲んでしまうと、自分が家で飲んでいるものをハイボールと呼ぶことは憚られるような気持ちになる。