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朝7時に起きて、知人と一緒に高速バスでいわきへ。昼前に到着して、まずは駅前ビルにある回転寿司屋に入店。めひかりを楽しみにしていたのだが、旬を過ぎているのか入荷はなかった。まずは瓶ビールを注文して、ひらめといわしを握ってもらう。うまい。うまいがすでにお腹が満ちてきている。次からは1皿をシェアして、いろんなネタを食べようと提案すると、「前はアホみたいに奥の松を注文して何皿も食いよったのに、つまらん男になったのう」と知人が言う。しまあじ、しゃこ、うに、それにホッキ貝を1貫ずつ食べて会計をしてもらう。
13時、アリオスへ。今日はいわき総合高校卒業公演『1999』を観にきたのだ。1999年生まれの高校3年生による演劇公演を、1999年に高校3年生だった野上絹代が作・演出する。1999年、ノストラダムスの予言により、恐怖の大王が襲来し世界の終わりがやってくると信じられていた――という入り口から物語は始まる。高校生たちはKISSのようなメイクをしており、恐怖の大王として振る舞う。恐怖の大王らしく悪いことを考えようと、「いや、嘘なんだけどね」と語り始める。そこである女の子は、自分の実体験を語る。まわりは「嘘をつく時間なのに、本当のこと言ってどうすんの」と冷ややかに言う。それに対して彼女は「嘘をつくって前提があったら、本当のことを言っても、それ自体が嘘になるかなと思って!」と叫ぶ。
周りは「よくわかんない」と首を傾げているなかで、別の子が「私も、嘘にしたいことあるよ」と語り出す。彼女は海沿いの小学校に通っていて、小学校5年生の時に“揺れ”を感じる。“揺れ”が収まると、「家に帰れ」という大人と「学校に戻れ」という大人が対立していたけれど、「今度は“あれ”がくるなんて認識もなく、家に帰る選択をした」。その途中に母親の職場に立ち寄り、その同僚たちと会う。「またおいでね」と言われて別れたが、そのうちの何人かはその後、行方不明になる。「またおいでねって言われたんだから、はーいって約束したんだよ」。語る声は荒くなる。「果たされなかった約束は嘘になるのかな」。
僕はこのシーンがどうしても引っかかってしまった。おそらくそこで語られていることは本当に本当のことだろう。このシーンにかぎらず、劇を通じて、野上絹代という劇作家が彼女たちと過ごしてきたのであろう時間は二重写しに見えてくる。卒業公演の制作にあたり、彼女たちが(早生まれの子をのぞけば)1999年生まれだというところからインスピレーションが広がり、「世界の終わり」ということについて考えていったのだろう。そこでいくつもの対話を重ねて、そこで耳にしたエピソードがふんだんに取り込まれているのだろう。ただ、こういうテーマを設定した段階で、彼女たちの2011年の体験談に踏み込む可能性は大いにある。
こんな感想を書き連ねている僕は、彼女たちの体験談を封じ込めるべきだと思っているのだろうか。いや、そんなはずはない。ないと思う。ただ、その入り口が「世界の終わり」というテーマであることがどうしても引っかかる。もちろん彼女たちの世界は終わらなかった。終わらなかったことを見つめるためにも、2011年の出来事を可視化させる必要はあるのかもしれない。でも、やっぱりどうしても引っかかるのは、それを公演という場において台詞として語ることへの違和感だと思う。「果たされなかった約束は嘘になるのかな」という台詞を語ることで、その出来事は彼女の中でどんなふうに記憶されていくことになるのだろう。
公演を観てからずっとモヤモヤ考えている。上演が始まる前に、校長先生の挨拶があった。いわき総合高校には演劇コースがあるが、それは演劇人養成のために設けられているのではなく、コミュニケーション能力を高めるためだと語られていた。では、コミュニケーションとは何だろう。作品の冒頭には、出演者の10人が自分のキャラクターを観客に向かって語るシーンがある。自分のキャラクターを言葉にすることは、コミュニケーションだろうか。演劇とは、私を吐露する場所なのだろうか。もっと私を離れた何かと繋がる瞬間を感じるものではないだろうか。
舞台の中に「絹代さんの作品らしい」と感じさせる場面がある。それは、かつてあったであろう“世界の終わり”に思いを巡らせる場面だ。そこで恐竜が絶滅する瞬間や平家と源氏の戦いなどが語られるのだが、そこで思いを巡らせた結果として語られることは、今ここで暮らしている私たちの想像力を超えるものではなかった。そうして舞台の終盤で、作品の中の彼女たちは“世界の終わり”に直面させられる。そこで彼女たちは、明日何をしたいかと語り出す。
いずれ“世界の終わり”はやってくるだろう。いずれ地球は消滅する。その瞬間に立ち会わないとしても、私の小さな世界はいずれ終わる。私たちはそれをどう受け止めて生きていく――というよりも終わりに向かっていくのだろう。舞台上を駆け巡りながら、彼女たちは「私たちは1999年に生まれてきたんだよ。世界の終わりに生まれてきた」「世界の終わりにやってきた希望!」と語る。では、希望とは何か。「もし人間が滅びても、そのときはきっと、みじんこみたいな小さな生き物になって」「もし地球が滅亡しても、私たちは違う星に生まれて」「もし地球人がいなくても、そのときはきっと、私たちが新しい星になって」。舞台上を駆け巡る彼女たちは若く、希望に満ちている。その眩しさに目を奪われる。だが、その言葉を胸に、私は世界の終わりを受け入れられるだろうか。
そんなことを考えているうちに、彼女たちはマイクを奪い合っている。「私、私」「私、私、私」と次々にマイクを手に取り、語っている。繰り返しになるが、舞台上にいる彼女たちは希望に満ちている(ように見える)。なりたい自分やこうあって欲しい未来について語っている。彼女たちの倍の時間を生きてしまっている者としては、「自分にもこんなときがあっただろうか」と背を伸ばしそうになる。そのギリギリで踏みとどまる。観客として、「高校生の若さ溢れるパワーに感服した」なんて感想で済ませるわけにはいかない。彼女たちが卒業“公演”として心血を注いだものを、そんなふうに若さを消費するように観て終わらせるわけにはいかない。
こうありたいという希望は、若さと関係なく、誰にだってある。二十歳を超えたから、三十路に入ったから、「私」から解脱した境地で生きていけるわけではないだろう。でも、いつかはこの「私」を手放さなければならなくなる。その日は確実にやってくる。こうして書いてきた思ったけれど、強くマイクを握りしめている手を解くための何かを、僕は見聞きするものに求めているのだろう。この作品を観ていると、どうしても余計に強く「私」というものを握りしめてしまう。もちろん、「だから悪い作品だ」とは言えないけれど、どうしてもモヤモヤと考えてしまう。
終演時間にあわせてタクシーを手配しておいたので、慌てて劇場をあとにする。終演したのが15時で、手配しておいた特急ひたちは15時18分発だ。ドトールでアイスコーヒーを2杯テイクアウトして、特急に飛び乗る。今観たばかりの作品の感想を語っていると、「結局のところ趣味が違うってだけでしょ」と一刀両断される。「きぬちゃんは高気圧で突き抜けたエモだけど、もふのは低気圧なエモやけね。私はきぬちゃんの高気圧なエモが好きだし」と言う。そんな話をしていると、「緊急停止します」と自動アナウンスが流れ、電気が消える。雷で停電が起きているらしかった。雨量レーダーを見ると東京はピンク色だ。
観劇直後の特急を押さえていたのは、ビアガーデンに行こうと思っていたからだ。だが、この天気では当然営業しているはずもなく、せめて抜けのいい場所で酒を飲もうと考える。どこか川べりで過ごせないものか。知人にそう話すと、「飯田橋の駅近くにあるじゃん」と提案されたので、そこに行ってみる。大雨のせいか土曜日なのにガラガラだ。白ワインをボトルで注文し、川べりの席に陣取る。総武線と中央線が走っている。空が少しずつ暗くなってゆく。そこに雷が光る様子を眺めて酒を飲んでいると、とても贅沢な気持ちになる。