12月12日

 6時過ぎには目が覚めて、布団の中でケータイをぽちぽち。視聴者へのメッセージを求められた総理大臣が、にやつきながら「ガースーです」と挨拶をした瞬間の画像と、メルケルが胸に手を当てながら「本当にごめんなさい。だけど、1日590人の死者という代償を払い続けることはできません。対策が必要なんです」「大事なのは、クリスマス直前の今、多くの人と接触してしまったことで、『それが祖父母と過ごした最後のクリスマスになった』というような事態を避けなくてはいけない、ということ。そんな事態はあってはなりません」と呼びかける写真が並置されたツイートを見かけた。どうしてこんなにも違っているのだろう。やはりヨーロッパには「わたしたちの社会」という強い意識があるのだなとまざまざと感じる(だからロックダウンも可能なのだろう――その是非は別として)。日本では、国民と政治家のあいだに大きな溝があるのだなと改めて感じる。

 もうひとつ、テキーラのボトルを一気飲みしようとした女性が命を落とした事件について、現場にいた実業家が『デイリー新潮』のインタビューに応じた記事にも目を通す。その実業家は、その場に自分が同席していたこと、テキーラのボトルを15分以内に飲み干せたら10万円を褒美として与える「テキーラゲーム」を「よくある飲み会ゲームと同じ趣旨のレクリエーションとしてやっていたことを認めた上で、こう語っている。

 

「『ほんとにできる? 大丈夫?』と繰り返し確認しました。その度、彼女は『できると思うのでやりたいです』と言うので、じゃあボトルを1本頼みましょうとなったのです。ゲーム用のコップも1つボーイさんに用意してもらった。ボトルを開ける前に、もう一度再確認しました。『自己責任と自分の判断になるけどやる? どうする?』と、他の10人にも聞こえる声ではっきり。彼女は『やる』と答え、自分の手でボトルを開けてコップに注いだのです。なお、この先も最後まで、私を含め他のメンバーは誰一人、ボトルにもコップにも指一本触れておりません」

女性急死のテキーラ事件 渦中の100億円「起業家」は「私が提案したわけではない」 | デイリー新潮

  

 これは、「自分が強制的に飲ませたわけではない」と主張することで、自分に落ち度はなかったと強調しておきたいのだろう。この証言が嘘だった場合よりも、この証言がほんとうだった場合のほうが、ぼくがおそろしい世の中だと感じる。同席している人間には法的な責任が及ばないように、先回りして言葉が配置されているけれど、自分から『やる』と言い出さなければ収まりがつかない空気の中で、あくまで自らの意思という体裁でテキーラを一気飲みする。あるいは、どうしても10万円が欲しくて、それを手に入れるために、あくまで自己責任だと言われながらテキーラを一気飲みする。誰かにとっては喉から手が出るほど欲しい10万円を、小銭感覚で賞金にして、必死にお酒を飲む姿を肴に過ごしている人たちがいる。それは、「酒の場の勢いで一気飲みを煽り、死なせてしまった」という世界以上に、ぞっとする。

 たまごかけごはんを平げ、コーヒーを淹れる。午前中はRK新報の原稿を練る。これまでの連載に比べるとレイヤーが複数ある感じの回なので、苦戦する。今日中に仕上げなければならないわけでもないからと、お昼になったところで一度中断する。昼は何にしようかと頭を悩ませているとピザのチラシが目に留まる。ピザーラでは「カニのよくばりクォーター」というメニューが販売中だ。こないだ関西に出かけたとき、かにかにエクスプレスの広告を見かけて蟹が食べたくなっていたこともあり、Mサイズを注文して知人と食べる。ぼくに比べると、知人は蟹欲がない人ではあるけれど、今日は美味しい、美味しいと嬉しそうに食べていた。

 午後は灘のUさんから依頼されていた原稿をようやく考え出す。A4の紙に、手書きで原稿の流れを書き出してゆく。ある程度形が見えてくるころには、もう日が暮れていた。東京の新規感染者数が過去最多を更新したという速報にどんよりしながら身支度を済ませ、知人と一緒に出かける。千代田線で北千住に出て、駅と直結した「千住ミルディス」というビルへ。エレベーターは混み合いそうだったので避け、エスカレーターで10階まで上がってゆく。今日は東葛スポーツを観にきたのだが、「なんか客層が違う」と知人が言う。人の流れに従って歩いていくと、「シアター1010」にたどり着いたものの、そこではまったく見知らぬ公演が行われているようだ。あらためて情報を調べ直すと、東葛スポーツは「稽古場1」で上演されるらしく、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたほうにおずおずと進んでいくと受付が見えてくる。

 東葛スポーツの公演はいつも、開演までのあいだ、ビールの売り子が客席を歩いていた(売り子となっているのは俳優)。別に「ビールを売って儲けよう」というのでなしに、缶ビールが300円とかで売られていた。大抵の場合、3缶まとめて買い求めて、足元に缶を並べながら観劇していた。今日は当然ながら、ビールの販売はなかった。席を確保したのち、知人と一緒にレストランフロアに移動し、パッと飲んでパッと出られそうな店の中から、なるべく空いている店を探す。広々と席が配置された鳥料理屋が目に留まり、生ビール2杯と、それにメニューの中の「即」と書かれた欄にある料理の中から、もやしを使ったオツマミと、塩辛を注文。ビールはお代わりして、下地を作って劇場に戻り、『A-2活動の継続・再開のための公演』を観る。

 ぼくは何も申請しなかったから知らなかったけれど、文化庁が文化芸術に対する活動支援事業をおこなっていたらしく、その申請の中に出てくるフレーズが『A-2活動の継続・再開のための公演』であるらしかった。作品の序盤に、ミヤシタパークの話が出てくる。渋谷横丁が話題になったときに感じていた違和感――それと同時に、「文化盗用」という批判のされかたに対しても感じていた居心地の悪さ――を思い出す。あのときに感じていたもやもやした感情が、ここでは叫びのようなラップとなって語られており、からだが震えるほど涙が出る。ただ、作品全体でミヤシタパークを扱っているわけではなく(当初はその予定であったらしいけれど、公演のネタにするほどのものではないと判断したようだ[このあたりは本編でもっと適切な表現で語られていたけれど、記憶が曖昧になってしまった])、この時代に舞台に立とうとする人たちの姿そのものが主題となっている。

 東葛スポーツは映画や過去のテレビ番組なんかをサンプリングしつつ、時事や世相に切り込むラップが入り込んだ作品を作ってきたという印象がある(最近はすべての公演を終えていたわけではないから、あまり断定的には言えないけれど)。これまでも作品を面白く観てきたけれど、今回の公演はどこか異質だった。それは、世相を斬るとか、うまいこと言うとか、そういった次元を突き抜けた言葉が舞台上に置かれていたからだと思う。これは別に、これまでの作品が「世相を斬る」とか「うまいこと言う」とか、それだけに留まっていたと批判したいわけではない。ただ、これまでの作品では、やはり主宰の金山さんの頭の中に浮かんだフレーズたちを、舞台上で俳優たちがラップする、という構図ではあったと思う。でも、今回はなんだろう、俳優たち自身の叫びを掬い取るような言葉で溢れていた。そして俳優たちのラップのクオリティも突き抜けていた。その叫びに、ずっと涙が止まらなかった。感動ということともまた違う、からだがうち震える70分だった。

 ひとつ気になったのは、同じように観客席に座っている人たちのこと。たとえば冒頭に、「ここにくれば、ドライとか氷結レモンの空き缶がいっぱい集められるって聞いてきたんですけどねえ」と言いながら、男が舞台上にあらわれる。背景のスクリーンには「菅」と大きなゴシック体で表示されている。空き缶を回収してお金を得ようとしているのだが、コロナの影響で売れなくなったと語られる。そこに空き缶が降ってくる。男は足で空き缶を踏み潰し、「まあ、カンは潰しましょう」と語ると、そこからラップに入っていく。この「カンは潰しましょう」の一言に、会場から笑いが漏れた。ぼくは以前から演劇の会場で起こる笑いに違和感を感じることが多いけれど、笑った人は何がそんなに面白かったのだろう。いや、もちろんそのシーンにユーモアが含まれているのはわかるけれど、それは「ハハハ」と乾いた笑い声で聴き逃せる言葉だろうか。「いや、まあ、ほんとに」としかぼくは思えなかった。

 押し黙ったまま会場を出て、エスカレーターで1階まで降りてコンビニに直行し、アサヒスーパードライを2本買って知人と乾杯し、「いや、すごかった」と感想を言う。「『ディストラクション・ベイビーズ』を観たときと同じ感じになっとったで」と知人が言う。そういえばあの映画を観たあとも、感想がこぼれ落ちてしまわないようにと一言もしゃべらないまま映画館を出て、ビールで乾杯したのだった。