9月5日

 8時過ぎに起きる。明日から数日東京を離れるので、今日のうちにあれこれやっておかなければ。9時半、京都のクリーニング店に電話をかける。当日仕上げを引き受けてもらえるかどうか、確認するためだ。そちらのお店で当日仕上げはされてますかと尋ねると、「ああ、今日の便はもう出てしまいましたわ」と言われる。当日仕上げはやっているが、9時過ぎには工場への便が出てしまうらしかった。僕は今日お願いしたいわけではなく、今度の土曜日にお願いしたいと思っているのだが、何度か話しても「今日いりはるんやったら、もっと早うに持ってきてもらわんと」と繰り返し、「いや、ですから!」と強めに否定してしまう。結局土曜日も当日仕上げのサービスはあるとわかり、電話を切る。きっと「はあ、よその人は嫌やわあ」と話しているのだろうなと想像する。

 今日のうちに散髪をしておきたかったけれど、いつも切ってくれている人は今日予約が埋まっているようなので諦める。知人とLINEでやりとりしていると、コンタクトの液を入れた化粧ポーチを忘れたという。それがないと困るというので、横浜にある劇場まで届けにいく。千代田線と東急東横線を乗り継ぎながら、ひたすらテープ起こしをする。先月末に石垣島で取材したときのテープを起こしているうちに中華街にたどり着く。観光地なのだから当たり前なのだけれども、ぼんやり歩いている人ばかりでカリカリしてしまう。

 到着してポーチを渡し、楽屋でパソコンを充電させてもらいながら、テープ起こしを続ける。今度はRKSP社で始める連載に向けた取材のテープを起こす。カタカタとタイピングしていると、F.Yさんからメッセージが届き、今日の夜にカネコアヤノさんの単独演奏会があり、マネージャーさんから「橋本さんもお誘いいただけたら」とお電話いただいたので、ごしもご都合つきましたら、とある。なんと嬉しい連絡だろう。今日のコンサートは先行予約に落選し、ぽやぽやしているうちに一般発売も売り切れになっていたのである。今日の午前中に「カネコアヤノの冬の単独ライブ、3回続けて先行予約に落ちている……。」とつぶやいたのが検索に引っかかり、誘ってくださったのかもしれない。

 RKSP社の連載に向けたテープ起こしを終えたところで、17時半、劇場をあとにする。近くのローソンで、今起こしたばかりのテキストを出力して、どこを原稿に生かそうかと考えながら電車に揺られる。そっちのほうが空いているだろうと思って鈍行を選んだのだが、渋谷に到着する頃にはライブの開演時間が迫っている。明日からの旅のため、チケットショップに駆け込み、青春18きっぷの余りがないか尋ねる。残り1回のチケットだけ売られていて、4500円だ。1回かー3回ぶんくらい欲しいんだけどなーでもないんだもんなーライブの時間も迫っているしじゃあこれで!と勢いで購入を決める。

 約束の時間に5分遅れながらも、渋谷のさくらホールに到着する。ロビーでYさんと待ち合わせ、受付でチケットをいただき、中に入る。チケットに記載された席に行ってみると、2階席の最前列、それもど真ん中で恐縮してしまう。とても天井の高いホールだ。19時過ぎ、ホールが一瞬暗転すると、舞台上手にある扉が開き、そこから光が射し込んでくる。そうしてカネコアヤノが舞台に登場し、演奏会が始まる。今日はもうすぐ発売される新譜『燦々』の発売を記念したもので、アルバムに収録される曲が順番に演奏される。

 広い空間に音が満ちてゆく。2曲目に演奏された「かみつきたい」に、帰らなきゃいけない、という言葉が登場する。カネコアヤノのうたには、時間が有限であることの影をいつも感じる。そして、終わってしまうことに対する納得のいかなさ、執着を感じる(それは5曲目の「りぼんのてほどき」を聴いているときに改めて感じた)。そして、「かみつきたい」と「りぼんのてほどき」には、街を歩いているふとした瞬間も切り取られている。僕がそういううたが好きだ。一緒くたにするというわけでは決してないけれど、前野健太のうたを聴くのが好きだというのも、そういうところにあるのだろうなと思った。

 なにより印象的だったのは、ラストに演奏された「燦々」という曲だ。この日は全編にわたり照明が素晴らしく、しっかり演出されていたのだが、ラストには何かから反射したような光が無数に、後方のスクリーンに映し出されていた。それは様々な方向から反射しているようで、それが街に溢れているひとりひとりの生活の輝きであるようにも見えた。その曲のラストは、美しいから ぼくらは、と締めくくられる。このシンガーソングライターにとっての美しさとは、そして光とは何を意味するのだろうと、いつか話をしてみたいなと思う。

 「燦々」という曲を演奏し終えるまぎわ、彼女は「うああ!」と呻き声を挙げた。そして「終わり、ありがとう!」ときっぱりと言うと、舞台から去ってゆく。アンコールを求める拍手が起こる。しかし、非常灯と客電がともり、今日はもう終わりだろうと思っていると、カネコアヤノが再び姿を現す。やる予定はなかったけど、最後のとこで間違えたのでもう一回やりますと語り、「このまま、全体が見える明るさのままでいいです」とスタッフに伝え、もう一度「燦々」を演奏し始める。「うああ!」というのは、終わってしまうことに対する呻きかと思っていたけれど、間違えたことに対する呻きだったらしかった。アルバムはまだ発売されておらず、客は間違えに気づきようもないけれど、もう一度演奏される。あれはどの曲だったか、また別の曲をやっているときも途中で「間違えた」と演奏を止めて、その曲も最初から演奏し直していた。

 もう一度演奏された「燦々」は、照明が違っているせいだけではないだろう、まったく違う響きを帯びているように感じられた。それがとても印象的であるとともに、うたを歌うということが持つ意味についても考えさせられる。同じうたを反復しているようではあるけれど、それは決して反復ではなく、その都度違う場所にたどり着くもので、それを求めて彼女はうたを歌っているのではないかと思えた。

 終演後、ロビーに出る。一階席を見下ろすと、転落してしまいそうで少し怖くなる。「橋本さん、何か恐怖症はありますか?」とYさんが言う。Yさんは閉所恐怖症で、押入れには入れないと言う。僕は特にないけれど、地に足がついていないように感じる場所は苦手だ。飛行機に乗っているときも地に足はついていないけれど、地に足がついているように錯覚していられるあいだはまったく平気だ。でも、がくんと揺れるのは苦手だし、船も、船酔いはしないけれど揺れるのが苦手だ。同じ理由でジェットコースターには乗りたいと思わない。そんな話をしながら、物販の列に並ぶ。今日はLPが先行発売されており、うちに聴く手段はないけれど、どこかで聴けるかもしれないし、早く歌詞を見たいので買い求める。物販にはマネージャーの方がおり、プレゼントしますと言ってくださったけれど、急遽見せてもらった上にLPまでもらうわけにはいかず、きちんと購入する。

 Yさんと一緒に楽屋に案内してもらう。Yさんは今日の衣装を手がけてもいるので、そこにいるのは当然だけれども、僕が楽屋挨拶に行くにいるのは申し訳ない気がする。そわそわしていると、サウンドエンジニアのTさんが通りかかる。今日のライブはTさんが音響を担当されていたらしかった。お互いに「色々繋がるものですね」と話し、少し落ち着く。最後の曲をミスしてしまったことを、「何をやっても私は私かよ」と語っているのが聴こえてきて、うたと反復について、僕がなんとなく思い浮かべたことは結構正しかったのではないかと思う。Yさんが挨拶しているのを、遠巻きに眺めていると、Yさんが僕のことも紹介してくださる。いい大人なのに、我ながら情けない。そして、以前ご挨拶したのをおぼえてくださっていて、今後なにかやりましょう、と言ってくださる。

 渋谷駅でYさんと別れて、新宿に出る。まずは思い出横丁「T」へ。おっ、久しぶりとマスターに言われて、少し申し訳ない気持ち。最近は東京を離れる頻度も多く、また東京にいるあいだは「旅先で使ったぶん、節約しなければ」と飲みに出る頻度が減ってしまったので、「T」を訪れる頻度も下がってしまっている。秋鮭のバター焼き、それに焼き鳥のぼんじりとせせりをツマミに、ホッピーセットを飲んだ。21時半に新宿3丁目「F」に流れ、キープしてある麦焼酎の水割りを飲む。ここはレコードプレーヤーがあるので、お客さんが途切れたタイミングがあれば、買ったばかりのLPを聴かせてもらえないかという魂胆だ。お客さんが少なくなってきた頃になってグループ客がやってきて、1杯だけ注文し、お代わりもせずに粘っている。別に自分の店でも何でもないのだから、自分の思い通りにいくわけなんてもちろんないのだけれど、あーあと思いながら帰途につく。