6月7日

 7時過ぎに目を覚ます。今朝の読売新聞には、ぼくの書いた書評が掲載されているはず。この仕事に限らず、校閲からの指摘はそのまま反映させることが多いけれど、今日掲載された原稿は「できればそのままで」とお願いした箇所がある。「緊急事態宣言が取り下げられた今」という一文に、「解除された」と修正できないかと指摘が入ったのだ。申し訳ないけれど「解除」という表記に納得が行っていないので、ここは現状のまま進めてもらうか、そうでなければ書き直す旨を伝えたところ、そのまま掲載してもらえた(はず)。朝は食パンを焼いて食べて、昼は迷った挙句にパスタを茹で、いつだか買いおきしてあったパスタソースをかけて食べた。

 知人は午前中からずっと、通販で買ったばかりのワイヤレスイヤホンを触っている。こういう耳にねじ込むタイプのイヤホンが苦手なんよねと言いながら、スペアキャップと取り替えながら耳のフィット感を確かめて、首を振ってみたりしている。ぼくは福田和也乃木希典』を読んでいた。14時過ぎに中断して、昨日買ってあったスポーツ新聞を引っ張り出す。一面には横田滋さんの写真が掲載されている。小一時間ほど出馬表を吟味して、15時から競馬中継を観た。きっと波乱があるだろうと、インディチャンプを軸に4点買い(400円)。波乱は生まれたものの、予想は外れた。17時過ぎに買い物に出て、「越後屋本店」でアサヒスーパードライを注文。谷中銀座は今日も盛況で、最初は立ち飲みしていくつもりだったけれど、カップを手にしたまま路地に入り、いくぶん人通りの少ない道を歩きながら飲んだ。

 帰りにコンビニに立ち寄り、給付金の申請に必要だというので、免許証と通帳を複写する。ぼくの直後に入店したお客さんも同じ目的であったらしく、通帳を複写していた。しかし、この複写に何の意味があるというのだろう。夜になって、タイムラインで取り沙汰されていた内田樹による書評を読んだ。たしかに優れた書評とは言い難いと思う。しかし、この書評を批判するために「自分語り」という言葉が用いられることには違和感をおぼえる(そもそもぼくは「自分語り」という言葉が嫌いだ、語って何が悪いというのか、問われるべきは語られるタイミングと語り口である)。最初の段落は、最初の一文をのぞけば丸ごと不必要な言葉であり、これは担当記者が修正を求めるべきものだろう。もしも交友関係を前提として「ヨイショする書評をどうか一つ」と依頼されたのであれば、その経緯を批判するために書かれても意味がある内容かもしれないが、そうでなければまったく意味をなさない。ただし、この観点からすれば、異議申し立てをした担当編集者が「また、コロナ禍の大変な時期に書評掲載にご尽力いただいたすべての皆様への感謝の気持ちを片時も忘れたことはありません」と冒頭に書き綴ったことは、問題だと思う。ある一冊を書評の対象に選定するという行為は、関係者の「ご尽力」などによってなされるべきものではなく、評者が「今このタイミングで紙面を与えられるのであれば、わたしが書評するべきはこの一冊以外にあり得ない」という信念によってなされるべきものだ。