8月9日

 2時半に目が覚めてしまう。喉が乾いている。台所に立って水を飲んでみたけれど、今のからだは水以外を欲しているなと思い、コンビニに出かける。昼はあんなに暑かったのに、今はずいぶん涼しくて、町は静まり返っている。なんだか夏休みみたいだ。誰ともすれ違うことなくセブンイレブンにたどり着き、おいしい牛乳とサクレを買い、溶けないようにと小走りでアパートまで引き返す。上にのっかっているレモンが酸っぱく、レモンは二口だけ齧る。このままだとどこにも旅に出ないまま時差ぼけになってしまうので、どうにかして再び眠りにつき、8時に起きる。そんな時間に起きたことと、サクレのレモンを残していることに、知人が愕然としている。

 たまごかけごはんを平らげ、企画「R」に向けて読んできた本を広げ、付箋が貼ってある箇所をひたすらパソコンに入力してゆく。冷蔵庫にパクチーと焼きそばが2玉あるので、知人にパクチー焼きそばを作ってもらう。昼からビールを1本だけ開けた。午後もひたすら入力作業を続ける。今日も19時過ぎから晩酌のつもりでいると、「せっかく日曜だから、早い時間から飲みたい」と知人が言うので、18時に乾杯。せっかく日曜日だからという以上に、夏だからというのもあるのだろう。テレビでは『ちびまる子ちゃん』が放映されている。花輪くんちに届いた豪華なお中元の山から、同級生たちがいろんなものを持ち帰る。ブー太郎は本場のソーセージを持ち帰り、白飯のおかずに家族で平らげ、その味を絶賛する。まる子が持ち帰ったナポレオンを、父や祖父はうまい、うまいと飲んでいる。そんなことってあるだろうか。本場のソーセージを突然食べたとして、それを美味しいと感じる味覚があるんだろうか。香りを楽しむブランデーを、茶の間でコップで飲んで「うまい」と思えるだろうか。むしろ美味しさが感じ取れなくて、そこに寂しさを感じるのではないだろうか。

 『ちびまる子ちゃん』が終わると、『サザエさん』が始まる。今週は「ぼくたち、勤労の夏」、「夏の日のカツオ」、「サラリーマン愛妻同盟」の三本立てだ。「夏の日のカツオ」では、ある夏の日、波平とマスオ、カツオとワカメとタラオが縁側にたたずんでいる。そこにサザエとフネがお盆を手にやってくる。波平とマスオにビールを、こどもたちに麦茶を飲ませるのだが、サザエとフネはそれを見守るばかりで、何も飲んでいなかった。これを地上波で、日曜の夕方に放送し続ける理由はどこにあるのだろう。他の懐かしのアニメと同様に、「過去にはこんなアニメもあったのだ」とBSやCSで放送するので十分ではないのか。『ちびまる子ちゃん』にしても、放送が始まった平成初年においては、「失われつつある昭和の風景」を懐かしむものとしてある程度需要があったにしても、その平成さえ終わった今、放送を続ける理由がどこにあるのだろう。

 とっくに消えてしまった過去を固定化して懐かしがるのではなく、もっと身近な、失われつつあるものに目を向けるように、更新されるべきではないのか――そんな気持ちに駆られて眺めていると、最後に「サラリーマン愛妻同盟」というエピソードが放送される。仕事帰りに飲みに出かけたとき、マスオは「帰りを待つ妻をなだめるのが上手だ」と評判で、「途中まで一緒に帰って、妻を説得してくれ」と同僚たちにせがまれている。その構図からして嫌な予感はしていたのだが、ある夜、部長宅を尋ねると、部長は何やら顔に怪我を負っている。部長は「ふ、フグ田君たち、さっきまで一緒に飲んでたよな!」「昨日も、一緒に麻雀やってたよな!」と、嘘の証言を求める。部長は浮気でもしていたのだろう、そのアリバイづくりを部下に求めている。おーお……と思いながら眺めていると、一緒に観ていた知人まで「こんなもん放送するべきじゃないやろ」と言い出す。