9月4日

 8時半に目を覚ます。おこめを炊き、たまごかけごはんを平らげ、残りは冷凍しておく。コンロを掃除して、流し台もきれいに掃除する。布巾を手洗いしてハイターで消毒したのち、洗濯機で洗った洗濯物と一緒に干す。パソコンを広げ、那覇のお店に取材の依頼状を書く。何度も買い物して、名刺と紙面のコピーを渡したこともあるけれど、どうなるだろう。途中でケータイが鳴り、編集者の Aさんの名前が表示されている。出てみると、連載が11月発売の12月号で終了になる旨を告げられる。その雑誌は基本的に「連載は1年間」という区切りがあるものの、「なんとか1年以上続ける方向で考えたい」と連載を立ち上げるときに言われていたのだが、遠出することが遠ざけられる風潮の中で、やはり継続するのが難しいと判断されたらしかった。取り急ぎ今月の原稿のことも電話で言われたのだけれど、あまり耳に入らなかった。連載が終わるのがショックというより、結局6回くらいしか取材記事が書けず、道半ばという感じが強いので、どうすれば取材を続けることができるだろうかと考え始めている。

 那覇に送る取材依頼状をポストに投函し、八百屋に出かける。今日はオクラが並んでいなかったので、「セブンイレブン」でパッタイを買う。午後は布団のシーツや枕カバーを洗って干し、企画「R」に向けて資料を読んだ。16時過ぎには読み終えて、モサモサとした「糖質50%オフ&食物繊維入りほうじ茶ドーナツ」をおやつに食べる。今日は次から次へと迷惑メールが届く。「この5000万があなたの今の人生に少しでもプラスになる様でしたら受け取ってはくれませんか?」「私たちは『お金を手放したい人』を紹介する大きなコミュニティを展開しております」「現金給付:1件あり」「あなたと出会えて本当に良かった…ありがとう。あなたに無事、私が所持しているお金をお渡ししたらその様に言って気持ちよく別れたい……そんなふうに考えています」「給付金・到着のお知らせ」「あなた宛にご入金明細が届いています」「今日、あなたも無料で現金が受取れます」。届いた7通すべて、お金を渡してくれるという迷惑メールだ。

 19時に知人が帰宅し、豚しゃぶときゅうりとみょうがを和えたやつを作ってくれる。それを肴に晩酌をしながら、企画「R」に向けて、メモをワードにタイプする。22時、『MIU404』最終回が始まる。『アンナチュラル』もUDIという架空の組織を舞台としており、今回も第四機捜という架空の組織を舞台にドラマが描かれてきたけれど、この、「ありえたかもしれない現在を描く」ということにこだわって脚本が描かれているのだなと思う。最終話も、ある一つの分岐点から、どちらの行動を選択するかによって分岐する、ふたつの「現在」が描かれる。それを提示することが、ドラマの一つの役割だということなのだろう。

 二日前の日記で「アイヒマンか」と書いていたけれど、どちらかと言えば、昭和初期の日本のほうがテーマとしては近いのかもしれない。「現在の社会はクソだ」という認識があり、社会正義に燃える心があったとして、あくまで自分の職能の中に生きようとするのか、それとも正義を実行するために職能を超越する行動に出るのか――昭和初期の青年将校たちの行動は後者であった。彼らは同時代の社会を悲観し、正義が貫かれていないがゆえに農村や漁村は窮状に追いやられていると考え、維新を志した。それは彼らの軍人としての権限を超越する行動だ。と、こう考えてみると、アイヒマン青年将校は対照的な存在でもあるのだなと思う。自分の職務がホロコーストに協力することだと知りながらも命令を忠実に遂行するアイヒマンと、義侠心から暴走し職務を超える行動に出た青年将校たちと。

 『MIU404』では、第1話の段階で、やたらと拳銃を抜こうとする伊吹を志摩が諫める場面が登場する。最終話でも、自らの義憤に駆られて拳銃を抜くのか、それともあくまで警察官として忠実に行動するのかによって、それぞれ異なる「現在」が待っているのだということが描かれる。『アンナチュラル』のラスト2話でも、そして今回の『MIU404』でも、目の前に罪を犯した存在がいるものの、正規の手続きだけでは裁けないかもしれないとなったときに、あくまで手続き的な正しさにこだわるのか、それとも手続きを超越する形で「正義」を発露するのかが問われる(『アンナチュラル』であればカルテを改竄することで、『MIU404』であれば拳銃の引き金を引くことで、罪を裁くことが可能になるけれど、それは手続き的な正しさを超越する行動である)。『アンナチュラル』も、『MIU404』も、みずからの職能を超越することなく、手続き的な正しさに踏みとどまる。それは、まったくもって正しい選択ではあるけれど、では、どれほど多くの人が今、そのような選択を取りうるのだろう?

 このドラマは、今この日本のどこかで、組織の一員として日々葛藤しながら生きている人たちを励ますために書かれたドラマでもあるのだと思う。その人たちに対するエンパワメントを通じて、どんどん悪い方向に向かいつつあるように感じられる日本を、どうにか踏みとどまらせようとしているドラマだなと感じる。ただ、法医学者や刑事は、もともと「正義」というものを心に灯した人が志す仕事だろうけれど、すべての職業がそのような正義や倫理とともにあるわけではない。『MIU404』であれば、ドラッグが蔓延する現場となったシェアオフィスの従業員や、バーの従業員、ドラッグを製造する工場のラインで働いていた人たちに――もちろん“人として、それはどうなのか?”という葛藤はあったにせよ、あくまで職業倫理としての――葛藤というものを、どこまで持ちうるのか。むしろ、シェアオフィスの従業員からすれば、そこを利用する人間の素性を詮索することのほうが、職業倫理に反する振る舞いでもありうる(もちろん、それはアイヒマンホロコーストを見逃したように、みずからの職場が悪の温床となることを見逃すことになってしまうのだけれど)。

 最終話で、菅田将暉演じるクズミは紫色のスーツを着ている。それはジョーカーを意識した色なのだろう。あるいは、刑事である志摩がコイントスをしようとする(ものの、まったく手元にコインが返ってこなくて失敗する)シーンもまた、同じように『バットマン』からの引用なのだろう。思い出すのは、『ダークナイト』において、罪なき市民たちが乗るフェリーと、囚人たちが乗るフェリーとに、それぞれ相手のフェリーの爆破スイッチが渡されたものの、どちらもスイッチを押さずに終わったシーンだ。アメリカのように強烈な信仰を持たない――だからといって、昔のように「一億総中流」なんて言っていられない――今の日本で、わたしたちが爆破スイッチを押さずに済むとすれば、それは何によって生み出される選択なのだろう。「上級国民」だなんだという物言いが生まれてしまったり、自己責任という言葉がこれほどまでに強く幅を聞かせてしまっている状況で、何を頼りにそんな選択ができるのだろう?

 物語というものは、もちろん、わたしたちの指針となりうる。そうであって欲しいと願っている。この『MIU404』も、そうした祈りが随所にこめられた良いドラマだと思うのだけれども、それが世界を踏みとどまらせることができるだろうかと考えると、どうしても暗澹たる気持ちになってしまう。

 ここ数日、自分の中で、「物語」とか「人間性」のようなものに対する自分の考えが混乱しているなと思う。政治において、やたらと政治家のパーソナリティーが語られ、メディアを通じて現政権から次期政権への「物語」が創作されつつあるのを見ていると、妙に反発を感じる。政治の世界というのはもっと別の論理で構築されるべき世界であり、「物語」や「人間性」といったものはもっと別の領域にあるものだ、と感じる。しかし、そのように考えることは、「物語」を、現実の政治や社会とはどこか別世界にある、おとぎ話のようなものに押し留めてしまいかねない。『MIU404』をよくできたドラマだと思いながらも、こんなふうにもごもごしたことを書き連ねてしまうのも、そこに由来しているのだと思う。