9月12日

 8時に目を覚ます。たまごかけごはんを平らげ、バリカンで頭を刈ってシャワーを浴び、11時過ぎにアパートを出る。東京駅は相変わらず、そこそこの人出だ。いつもならクレジットで切符を買うところだけど、そうやってあれこれクレジットで支払うから大変なことになるんだと思い直し、現金で買う。グランスタのカレーパン専門店には長い行列ができていた。ぼくは崎陽軒シウマイ弁当と、そうだ今夜のツマミにとシウマイも買っておく。18番ホームに上がると、11時51分発ののぞみ89号はもうホームに入線していた。荷物を置き、消毒液とキッチンペーパーを取り出し、肘掛やテーブルを拭く。発車直前に斜め向かいの席に乗客がやってきて、マスクを外し、隣の座席の、テーブルのロックのところにマスクを引っかけていて目を疑う。それだとマスクの内側がテーブルの裏側にくっつく格好になる。もしもその人がウィルスを持っていれば、マスクの内側に付着したウィルスがテーブルについてしまうし、そうでなくとも、自分の口を覆うものをそんなに大雑把に扱うとは――思わずギョッとしてしまったけれど、シウマイ弁当を食べ終えて弁当ガラを捨てに行くときに客席を眺めていると、マスクを外して過ごしている人は4割くらいいて、そのうちの何割かはそんなふうにマスクをテーブルのロックのところに引っ掛けているのだった。しかし、車内でマスクを外して過ごすのであれば、この人たちは何のためにマスクをつけて出かけてきたのだろう。

 車内で『北の国から』(第3話)をFODで観た。父からは「とっても卑怯です」と言われ、老人から「お前ら、いいか、負けて逃げるんだぞ」と(直接的にではないにせよ)言われ、叔母から「東京に戻ってもあなたはひとりよ」と言われる純が不憫だ。もしも現在放送されたとすれば、「こどもに向かって、そんな『呪いの言葉』をかけるなんて」と一部で批判されるだろう。でも、その一方で、なにかを振り払うように作業に没頭する五郎の姿を見ていると、考えてしまう。親になった人間は、自分の人生を降りなければならないのだろうか。急に気が変わってまったく別の生活を選ぼうとすれば、「こどもが可哀想だ」と批判されるのだろうけれど、では、親となった人間はすべてを諦めなければならないのだろうか。

 京都駅に到着すると、リュックとトートバッグをコインロッカーに預け、銀閣寺方面に向かうバスに乗り込んだ。小銭で料金を支払って、法然院町まで。京都駅を出発した時はそれなりに混み合っていたバスも、平安神宮を過ぎたあたりでがら空きになった。たしかこっちだったはずと記憶を頼りに、「ホホホ座」へ。荷物は抱えていないけれど、晴れているのに傘を持っているせいで学校帰りの中学生に不審がられる。しばらくご無沙汰してしまっていた「ホホホ座」、店主の山下さんの日記が販売されていたので、迷わずすべて買う。『小屋の本 霧のまち亀岡からみる風景』という本も一緒に買った。会計をしてもらったあと、たぶん坊主になったせいで気づいてもらえていないだろうと(だからといって無言で帰るのもないだろうと)、ご無沙汰してます、橋本ですと挨拶する。手短に近況を話していると、「本業というか、は、何になるんですか?」と尋ねられ、あらためて尋ねられると答えに窮してしまう。ぼくの本業は何なんだろう?

 近くのバス停からバスに乗る。小銭がなかったので、千円札を両替しなければならず、入り口でまごついてしまう。後になって「ICカードで払えるのだ」と気づく。京都の市バスといえば、細かいお金を用意しそびれれてムッとされた記憶が焼き付いているせいで、いまだに現金でしか払えないと思い込んでしまっている。「ホホホ座」に向かうバスでも感じたことだけれども、それなりに観光客の姿がある。車内広告を眺めていると、「京都市から市民の皆様へのお願い」「お酒を伴う飲食の場で感染が拡大しています」「大人数での宴会や飲み会は控えましょう」「食事中は飲食に集中し、『会話時はマスク着用』などの徹底を」と書かれた広告がある。その隣に「地元応援! 京都で食べよう、泊まろうキャンペーン」と銘打った広告が出ている。

 平安神宮でバスを降りる。広場では市が立っている。ロームシアター京都に立ち寄り、チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム畑』がどこで展示されているのかと探して歩く。道路に面した場所でひっそりと映像が再生され続けていた。ここではじっくり観られないなと思いつつも、10分くらい眺めたのち(作品はぜんぶで45分ある)、「蔦屋書店」に移動。ここは本棚がみっちり配置されているので、あまりじっくり本を見れなかった。この状況下で、ドンキホーテだとかヴィレヴァンだとか、ああいったお店はどんな空気が流れているのだろうと考えながら、三条まで歩き、「六曜社」の地下に入店(地上は満席だった)。カウンターにも空席はあったのだけれども、「テーブル席どうぞ」と案内される。邪推せず、ゆっくりテーブル席に座らせてもらう。これはたしか地上のほうのお店だったと思うけれど、テーブル席に案内されて「荷物はこちらのお席に置いてくださいね」と言われたものの、ぼくの荷物なんかで席を埋めてしまうのはどうもね、と荷物を床に置いていると、もう一度「荷物はこちらのお席に置いてくださいね」と言われたことを思い出す。言葉に甘えてゆったり過ごさないほうが失礼にあたることだってあるのだろう。ハウスブレンドと、ドーナツを注文する。書評しようと思っている本のことを考えながら、風景を目に焼きつける。何度かお客さんがやってきては満席で帰ってゆくので、10分ほどで店をあとにする。

 近くのバス停には乗客が列を作っていたので、ここからバスに乗るのは不安になり、タクシーで京都駅まで。少し早く到着したので、お土産に漬物でも買おうかと思ったものの、身近な場所ならともかく京都の(それも駅のお土産うりばで販売されている)漬物をお土産にもらっても困るだろうなと、何も買わずに新快速に乗り込んだ。端っこの車両は空いている。18時前に神戸の元町駅にたどり着き、「スマイルホテル」にチェックイン。荷物を置くとすぐにホテルを出て、「1003」で『淡路島マドラ』というZINEを買い、「丸玉食堂」に入って瓶ビールと五目焼きそばを注文。ちょうどグループ客が何組か入ったところだったので、このあと待ち合わせをしているH,Kさんにお詫びの連絡をしながら出来上がるのを待ち、焼きそばを啜り、元町駅前のベンチでHさんと落ち合ってメリケンパークを目指す。

 最寄りのコンビニでアサヒスーパードライを3本、ワンカップ大関を1本買って、メリケンパークに出る。噴水でこどもたちがはしゃいでいる。潮の匂いがする。ベンチというか石に腰かけ、それぞれ缶ビールを開ける。「BE KOBE」のところに、若者たちが列をなしており、自分たちの順番がまわってくると、後ろの人にスマートフォンを預け、記念写真を撮っている。一時期はこういう風景も見られなくなっていたとHさんが言う。「スマートフォンは便器より雑菌が繁殖している」と言われるなかで、人にスマートフォンを手渡すというのは敬遠してしまう。そもそも今の若者は人に撮ってもらわなくたって自撮りできるはずなのに、わざわざ撮ってもらうというのは、その特別な経験を味わっているのかもしれない。

 そんな風景を眺めながら、『空気階段の踊り場』のこと、『北の国から』のことをポツリポツリと話す。Hさんはメルカリ日記の中で、『空気階段の踊り場』で鈴木もぐらが「地元」という言葉をさらりと使ったことに触れ、「????」と書き記していた。その記述に、ぼくはハッとさせられた。ぼくも「地元」という言葉からは遠い世界を生きているのだけれど、鈴木もぐらのその言葉に違和感を抱くことなく、「そういうものだ」と思って聴き流していた。ぼくはなぜ聴き流してしまったのだろう。それで言うと、『北の国から』の第2話で、五郎が蛍をたしなめる場面がある。その場面のこと、Hさんは日記で言及していたけれど、ぼくは最初に『北の国から』を観たときにはその場面はそれほど気に留まらなかったし、数日前に見返したときもそこまで気に留まらなかった。この、気に留まると留まらないの差は何だろう――と、そんなことを話してみたかったけれど、酒の入った頭では「実際にこどもを育てている人からすると、そこに目が向く」という安直な話し方になってしまいそうで、うまく話すことができなかった。ひとつには、「自分自身が、このような環境で生きているからこそ、このように感じることができる」という感覚がある。ただし、もう一方には、「自分自身では体験していないことだって、想像力を働かせることで、知ることができる」という理性がある。このふたつのあいだで、どうバランスを取ればよいのだろう。

 飲み始めて少し経ったところで、小雨が降り始める、近くにステージのような場所があり、Hさんに先導されてそこに避難する。よいしょっと腰を下ろすと、『ごろごろ、神戸。』の「ビッグ赤ちゃんイカリ山」に書かれていたライトアップが、ビルとビルの隙間から見えた。それを読んでいたせいか赤ちゃんの姿にしか見えず、「あの、イカリみたいなやつがちょうど見えますね」と言ってしまう(本来はイカリを模したものなのだから、正しくは「赤ちゃんみたいなやつ」だ)。雨はほんの小雨だけれど、あたりにいた人たちもばらばらとステージに避難してくる。しばらく政治の話をする。自分が「この政治家は駄目だ」と思っているとして、その政治家と対峙したときに、議論に勝てるかというときっと無理だろう。だとすれば、どのように対抗しうるのか。どのようにして、自分が「この政治家は駄目だ」と思う人に対抗する勢力を成立させうるのか。少し前の『サンデージャポン』を観たときに、「ああ、やっぱり同世代で政治家を目指すような人間は信用ならない」とぼくは思った。しかし、そんなふうに考えれば考えるほど、自分が「信用ならない」と思う人たちの独壇場になってしまうのだろう。「誰にコインを賭けるのか」と、Hさんが言った言葉を反芻する。

 缶ビールをすべて飲み干したあたりで、少し離れたあたりからブンブン爆音が響き始める。駐車場のあたりに車とバイクが集結し始めているようだ。そろそろ河岸を変えようかということになり、ワンカップを片手にその駐車場のほうに向かった。そこでは車がばこんばこんと波打つように上下していて、その様子をHさんは立ち止まって眺めている。ワンカップ片手に見物していたら「何見とんねん」と絡まれるのではと若干腰が引けつつ、ワンカップをビニールで隠す。しばらく眺めたのち、コンビニで酒を追加して、高浜岸壁に腰を下ろす。ぼくは氷の入ったプラカップを買ってきて、かちわりワインにして飲んだ。あたりには同じように飲んでいる人たちの姿があって、こんなふうに過ごせる街はよい街だなと思うけれど、もしかしたら「夜になると酒盛りをやっている連中がいて困る」と苦々しく感じている人もいるのかもしれない。つるの剛士と「パクチー泥棒」のことを話す。Hさんに「差別はよくないというのは、人類普遍の真理やと思います?」と問われる。人類全体が、時間をかけてでも達成するべき目標であるのか、と。ぼくはそうだと思うけれど、「ぼくがそうだと思う」というだけでは普遍性を持ち得ず、口がもごもごする。ワインを飲み干す頃には日付が変わっていた。手を振って別れ、宿まで歩く。数日前に突然誘ったにもかかわらず、ぽつぽつと大事なことを話しながら過ごせるというのは、とても嬉しいことだ。