8月3日

 6時過ぎに目を覚ますと、インスタグラムのアカウントが制限を食らっていて、フィードが更新できなくなっている。どういうわけだか「利用制限」がかかっているようだ。短時間にフォローやいいね、コメントを大量に重ねると、この状態になってしまうことがあるのだと、検索すると出てくる。真っ先に思い浮かべたのは、「昨日の夜に酔っ払ってしまって、いいねを押しまくったのではないか?」ということだったけれど、冷静に考えると、そこまででろでろに酔ったおぼえはない。ありえるとしたら、アカウントを乗っ取られたのだろうか――と考えを巡らせているうちに、思い出す。一昨日の夜、男子100メートル決勝でイタリアの選手が優勝したとき、イタリア人俳優の皆のことが思い出された。その様子を東京で、テレビ越しに見てましたと伝えたくなって、優勝した選手が国旗をまとった瞬間の映像を(テレビ画面だけを映した写真としてではなく、テレビが置かれている部屋の風景の写真として)撮影してインスタグラムにアップしていた。あれ、もしかして、このオリンピックの写真がよくないのか・・?と思って削除すると、小一時間ほどで普段通りに閲覧できるようになった。

 20分かけてストレッチをして、資源ゴミを(つまりこの1週間で飲んだ鮭の残骸を)捨てる。洗い物をしながら、来年はどうなるんだろうかとふいに考える。読書委員の任期も、気づけば半年を切っている。それだけで生活できるほどお金がもらえるわけではないけれど、「家賃は払える」という安心感はあった。RKSPの連載も(それはほんとに飛行機代ぐらいにしかならないにしても)新しい市場が完成予定の来年3月までの予定で始めたものだから、予定通りに市場が完成すればもう少しで終わってしまう。来年は、何をしよう。何か考えないとなあと思うけれど、今は差し迫った原稿(と遊園地のこと)以外考える余裕がない。

 新聞を取りに行くと、どういうわけだか一面がぐしゃっとヨレていて不快になる。どうしてこんな状態で配達されているのだろう。それ以前に、どうして新聞を取っているんだろう。川上未映子による新聞小説「黄色い家」が始まると知って1年間の購読を申し込んだものの、現時点では1話から最新話まで、ネットで無料で読める。久しぶりに新聞の購読を始めてみると、毎日配達されるということに、神経をとがらせてしまっている。誰が、どれぐらいの強度で感染症対策に気を配りながら広告を折り込んで配達しているのか、わからない。だから、購読を始めた日から、新聞を読み終わったら手指を消毒し、新聞を広げたテーブルも除菌している。自分が新聞配達に携わっていて、そんなふうにされていると知ったら、憤りをおぼえるかもしれないなと思う。でも、新聞に限らず、宅配されてきた荷物も、スーパーやコンビニで買った商品にも、電車の吊革にも、「もしかしたらここにウイルスが」と、いまだに強く忌避感をおぼえてしまう。

 今日は熱海の土石流から1ヶ月で、航空写真とともに、土石流で命を落とした人に対する追悼コメントを集めて掲載している。故人の友人・知人や家族による、「故人はこんな人だった」というコメントが、ずらりと並んでいる。それが数行に凝縮されてある紙面を眺めていると、自分がRK新報で連載している記事も、沖縄に暮らす誰かが読むとこんなふうに見えるのかもしれないなあと思う。自分が書いていることは、そこにある(あった)誰かの人生を、数行に“要約”し、物語として切り取っているだけではないのかと自問自答する。それとはまた別問題として、もし自分が身近な人を亡くしたとして、そこで「寂しい」と言えるだろうかと、紙面に掲載されたコメントに目を通しながら、考え込んでしまう。誰かに会ったって、思ったことを存分に話せたことなんてほとんどないし、会ったところで話しきれなかったという気持ちで大抵別れているから、別れた瞬間からずっと寂しい気持ちでいる。だから、もしその人が亡くなってしまったとしても、寂しいと感じる区切りは死にあるのではなくて、最後に会ったときからずっと寂しい。

 朝、たまごかけごはんに納豆を混ぜて平らげる。昨日残ったコーヒーを冷やしておいたので、アイスコーヒーを飲みながら、『G』誌に向けたテープ起こし。知人は在宅で仕事をしている。昼、セブンイレブンで親子丼を買ってきて平らげる。食事中は『孤独のグルメ』の最新シーズンの第2話を観た。入店すると手指の消毒をして、料理が運ばれてくるまでマスクをつけたまま待つ井之頭五郎。素直に観れば「コロナ禍の飲食店の日常が描き込まれている」となるところけれど、フィクションだなと思ってしまう。今の状況で、こんなふうにきっちり手指消毒をしている人がどれぐらいいるだろう。そして、画角の問題なのだろうけれども、がらがらの店内なのに、わざわざ五郎のすぐ隣のテーブルに家族連れが案内される。マスクなしで(パッと短くではあるけれど)会話をする客がいても、五郎は特に気にする様子も見せず、おおらかだ。ぼくは、飲食店に出かけるとき、いつもまわりの客に対して怯えてしまう。でも、もしかしたら、そんなに神経質になっていない人のほうが大多数なのだろうか。午後は資料を読んだ。ゆうえんちの経営、60年近く回したもののうまくいかず、いちかばちかの動きに出て見たものの失敗に終わり、熱が冷める。大量の資料をザッピングし、読むべきものはじっくり読んでいるうちに日が暮れる。19時過ぎ、「海上海」でテイクアウトの注文をして、缶ビール片手に散歩に出る。歩きながら原稿を練る。通りは妙に静かで、22時ぐらいの感じだ。