9月20日

 7時過ぎに目を覚ます。書評する本を手に取り、付箋が貼ってある箇所を読み返して、気になるフレーズをiPadに(手書きで)抜書きする。それをもとに書評を練る。小さい枠での書評なので、最低限書いておきたいことを入れ込むと、あっという間にいっぱいになる。どうにかもう少しだけ盛り込めないかとしばらく推敲して、10時過ぎには完成する。知人は頭が痛いと、ずっと眠っている。昼、焼きそばを作ってひとりで平らげていると、知人が起き出してくる。食事をしているところをハタから見られるのが嫌いなので、不機嫌になってしまう。なんでハタから見られるのがこんなに嫌いなのか、自分でもよくわからない。

 午後はテープ起こしを進める。イヤフォンからテープの音を聞きつつ、視線はパソコンの画面とテレビとを行ったり来たり(情報番組を流して、字幕の表示をオンにしてある)。これは今日のテレビで流れていた映像ではないけれど、昨日か一昨日だかに見た総裁候補の討論会(?)の映像だと、野田聖子がいちばん話が通じそうだった。というよりも、政治家なのに話を聞いてくれそうな人が少ないって、どういうことなんだろう。ぼちぼちテープ起こしを進めながらも、視線がテレビと画面とを行き来しているせいか、部屋の散らかり具合が気にかかる。今日も天気がいいことだし、夏物の大半を仕舞い込んで、秋冬ものを取り出し、いつでも切られるように選択しておこうと思い立つ。部屋着に近いTシャツを残して、実家に遅れるようにと、夏物を一箇所にまとめておく。

 19時、昨日の残りと、100グラムずつ買い足してきた牛タンとハラミで今日も焼き肉。最近バラエティばかり観ている気がして、今日はNetflixの動画を漁り、『ターニング・ポイント: 9・11と対テロ戦争』を観ながら肉を焼く。「ああ――1979年のアフガン侵攻ね」だとか、要所要所でつぶやきながら観る(隣にいる知人は、よく文句も言わずに付き合ってくれるものだなと、日記を書いているいま、思う)。20年前のことを思い返しながら、こんなに細かく映像が残っているのだなとじっくり観る。9.11のあと、アメリカ国民が「団結」し、家族や同胞への連帯を叫ぶ映像を見ていると、その「家族」や「同胞」からはじかれてしまっている人たちのことを考えてしまう。自分自身は(自分から一方的に実家に距離を感じてはいるけれど)ほとんど不自由な思いをすることもなく育てられたし、結婚はしていないにせよ知人と楽しく暮らしているし、小さい頃に肌が白いことで「ガイジン」と言われたことはあったけれど、特に迫害されて育ったわけでもないのに、そして「マイノリティのことを尊重しなければ」と理屈で考えようとしているわけでもないのに、団結が語られる姿を眺めていると、そこからはじかれる存在のことを思い浮かべてしまう。2話まで観て、残りは明日以降にとっておく。今日もビール3本しか飲めなかった。