4月10日

 昨日は肌寒かったせいか、風邪のひきかけのような感じで、なかなか起きられなかった。8時過ぎに起き出して、「ベーカリーミウラ」の食パン(6枚切り)を2枚焼き、コーヒーを淹れて朝食をとる。午前中は構成仕事を進める。11時過ぎには焼きそばを作って平らげる。一昨日から感じていたけれど、フライパンがかなり焦げつくようになってきた。ダイヤモンドコートのフライパン、今の部屋に引っ越すずっと前から使っているから、それなりの年数使ってきたけれど、そろそろ限界を迎えつつある。12時50分、タクシーを拾って上野に向かう。距離を調べると1.8キロだから、ワンメーターで行けるだろうと思っていたら、900円かかる。炊き出しだろうか、荷物をたくさん抱えた人たちが行列を作っているのが見えた。

 13時、上野公園にあるスタバのテラス席で打ち合わせ。今日は雲ひとつない晴天で、スタバもずっと行列が途絶えなかった。ここを選んだのは、テラス席なら安心できるから。ただ、ここのスタバは距離的には近いけれど、電車やバスだと微妙にアクセスが不便だ。東京駅の丸の内側であれば、ドア・トゥー・ドアで20分とかからずにアクセスできるので、テラス席のある広々とした店を探して、「打ち合わせならここで」と決めたいところ(「ご自宅の近くまで伺います」と言ってもらえることも多いけれど、恐縮してしまうし、近所だとこぢんまりした喫茶店が多い)。

 2時間ほどで打ち合わせが終わり、駅ナカの「エキュート」に入っているユニクロを目指す。去年買った「スマートアンクルパンツ(ウールライク・2WAYストレッチ)」がとても履きやすく、しばらくこのズボンだけで生活したいと思っているほど。でも、昨年の商品だからかオンラインストアではもう在庫切れで、ただし店頭在庫を検索すると上野エキュート店に「在庫わずか」と表示されていたので、探しにいく。こぢんまりした店舗だけれども、僕が探していたズボンはたくさん在庫があり、3本ほど買っておく。ズボンはほとんどユニクロでしか買ったことがない気がする。サイズが微妙に合わなかったり、丈が長かったりしたとき、ユニクロ以外のおしゃれなお店でも丈詰めとかしてくれるんだろうか。

「やなか珈琲」(千駄木店)でコーヒー豆を300グラム買って、スーパーで食材を買って帰途につく。構成仕事を1本完成させて、メールで送信したころに、散髪に出かけていた知人が帰ってくる。夜は挽肉と春雨とねぎとパクチーのうまいやつを作ってもらって晩酌。ダイヤモンドコートのフライパンは新しいのをネットで注文したので、「これが引退試合や」と言うと、なんでよ、まだ使えるやろと知人に反論される。スーパーで買ってきたタラの芽の天ぷら、あんまり温めてしまうとしなしなになるだろうなと、短めの時間だけレンジにかけたものの、容器の蓋を閉めたままチンしたせいでしなしなになってしまう。ビールを飲んだあとは沖之光の10年古酒と、1999年の残波とをゆるゆる飲んだ。残波は41度とは思えないまろやかさで、甘みが出ている。沖之光には甘さはなく、酵母の香りなのか、匂いがどすんと入ってくる。沖之光酒造を取材したときに、うちは先代のころから古酒にこだわっているんです、と言っていたことを思い出す。その言葉と一緒に、家族同士の距離感も甦ってきて、妙に懐かしくなる。

4月9日

 7時過ぎに目を覚ます。つけっぱなしのテレビでは『ZIP!』が始まっていて、聖火リレーの様子が映し出される。「日本のいいところがたくさん見られますね」と水卜アナが口にした瞬間に、何言ってんだと反射的に思う。今この状況で聖火リレーがおこなわれていることに、そんな感想を本気で抱いているんだろうか。今となっては、緊急事態宣言を取り下げたのは聖火リレーを予定通り開催するためだったとしか思えず、その反動で感染者数が増え続けているのを報じている同じ番組で、どうしてそんなコメントになるのだろう。コーヒーを淹れて、昨日「ベーカリーミウラ」で買ったコーンチーズのパンを食べる。知人にはオリーブのパンを買っておいたら、嬉しそうに頬張っている。洗濯機を2回まわし、テープ起こしを進める。昼、近くの八百屋に出かける。昨日はブラックペッパーを使ったのでいまいちな仕上がりになったのではないかと、切らしていたテーブルコショーを買ってくる。肉が硬くならないようにと豚コマを日本酒に振っておいて、作る。昨日よりは上手にできたけれど、キャベツともやしを炒める時間が長いせいかまだ水っぽい仕上がり。

 テープ起こしを終えると、さっそく構成に取り掛かる。あまり捗らず。というのも、インターネットをあれこれ検索して、しっくりくる明朝体のフォントを探していた。ちょうどテープ起こしをしていた対談の中で、原稿を書くときのフォントの話題があり、そうそうどのフォントで書くかってことが結構大きい要素でもあるんだよなあと思い、あれこれ探す。自分の好きな文字列で試せるサイトがあったので、「初めて水納島を訪れたのは、」という文章で試してみる。あれはいつだったか、デザイナーのN.Nさんが僕の書いた文章をデザインするときに「秀英にじみ明朝」という書体を選んでくれたことがあって、あの書体はとてもしっくりきたので、『月刊ドライブイン』でもあのフォントを使っていたはず。その頃はモリサワの年間パスポートに入っていたけれど、今は入っていないので、「秀英にじみ明朝」を単体で買おうか迷う。値段は2万円である。

 16時過ぎにアパートを出て、本駒込から南北線に乗る。駅の改札の前で、制服姿の子が同じ制服姿の子たちを見送っていた。改札を抜けた子たちは、エレベーターに乗ってからも、見送りにきた子を棚の隙間に探して手を振っている。市ヶ谷駅で都営新宿線に乗り換える。エスカレーターのりばの前で輪になっている若者たちの姿。真新しいスーツに、真新しいリュックを背負っている。17時過ぎに新宿にたどりつき、思い出横丁「T」。すでにお客さんが2人いて、ふたりのあいだに座ることになる。この時間なのに先客がいるのかと思ったら、この状況で15時オープンになっているのだった。僕の左側に座っている女性はマスクを外していて、僕の右側にいる男性は入店したばかりなのかまだマスクをつけていて、しばらく上げ下げしていたけれど、ビールを何口か飲んだところでパッと外していた。感じが悪いかもしれないけれど、僕はかたくなにマスクをつけたまま過ごす。

 マスターはお客さんと「まん防」の話をしている。僕はもう、響きからして馬鹿らしいことにしか思えず、何がどうなっているのか、ニュースを追っていない。「ようはゴールデンウィークに営業するなってことでしょ」とマスターが言う。「去年のゴールデンウィークも休んでたんだっけ?」と客。「4月、5月は全部休んでた。この1年はなんもなかったようなもんだよ。なんだったんだろ」。途中からひとりごとのようにマスターが言う。思い出横丁の人通りはさほど多くないが、ぽつり、ぽつりとお客さんがやってきて、18時になるころには以前と同じ距離感にまで席が埋まる。皆、入店した途端にパッとマスクを外す。いそいそと3本目の瓶ビールを飲み干し、会計。瓶ビールは500円だったと思うのだけれども、680円になっている。いろんなところに値段が貼り直してあって、チューハイ類も50円ずつ値上がりしている。値上がり自体は歓迎だ。

 思い出横丁のトイレはいつのまにか改装されていて、妙にシックな佇まいに変わっている。大ガードをくぐり、「無印良品」で細々した買い物をして、新宿3丁目「F」へと階段をおりる。扉は少し開けてあり、階段の途中に花と写真が飾られていたけれど、あまり気に留めず通り過ぎる。カウンターにパーテーションが設置されている。焼酎の水割りを飲んでいると、メールでお知らせというのはしなかったんだけど、前この店で働いてたWさんが3月の終わりに亡くなって、と知らされる。それで写真と花が飾られていたのだ。10年前の3月11日、新宿の様子を見ておこうと飲みに出かけた日に、たしかお店にはWさんだけがいたのではなかったかと思う。お店のママは電車で通勤していたので来られず、近所に住んでいたWさんがひとりでカウンターに佇んでいた。今日ははっちゃんの好きなの聴こうよと言われて、自分が特別好きだというわけでもないのだけれど、ラスト・ワルツをかけてもらったような気がする。記憶はもうおぼろげだ。

4月8日

 5時過ぎに目を覚ます。つけっぱなしのテレビでは、『Oha!4』という早朝の番組をやっている。うつらうつらと眺めていると、その番組が終わる直前に、出演者が「繋がり、大事です!」と駆け込むように言う。むかっときて目が覚める。何をどういうつもりでそんなことを朝から言っているのだろう。誰とも繋がれず、眠れずに朝まで過ごしてしまった人がそんなことを浴びたらどう思うんだろう。「繋がり、大事です!」と無神経に言えるのはどういうことだろう――と、むかむかしながらその言葉をメモに残しておく。

 たまごかけごはんを平らげて、コーヒーを淹れる。洗濯物がずいぶん溜まっている。今日は知人も在宅で仕事をするようだ。午前中は構成仕事を進める。お昼は焼きそばを作って食べた。豚こま、キャベツ、もやし入り。「ニラはある」と知人に言われていたのだけれども、かなりしなしなになっていて先っちょは枯れていて、いつ頃買ったのかと問うと3日くらい前だというので、ニラは入れなかった。久しぶりに作ったせいか、なんだかぼんやりした味に仕上がってしまい、残念な気持ちで午後の仕事に取り掛かる。構成を終えた原稿をメールで送信すると、またテープ起こしに取り掛かる。

 17時にアパートを出て、バー「H」。先にひとりお客さんがいて、カクテルを作ってもらっているところだったので、端っこに座ってぼんやり待つ。出来上がったカクテルをひとくち飲むと、「すきっ腹に沁みるね」とお客さんが言う。お腹が減ってるときに飲むお酒っておいしいですよねとHさんは言いながら、ぼくのハイボールを作ってくれる。2杯目を作ってもらったところで、あの、ちょっとご相談したいことがあるんですけどと声を掛ける。話しかけようと思ってしっかり目を合わせてみると、少しだけHさんの髪が長くなっていることに気づく。内容を話そうとしたところで電話が鳴り、話を中断する。取材かなにかだろうか、営業前にお邪魔する算段を電話でしている。

 そういう内容なら営業前にかければいいのになと思いつつも、5分ほど待って、改めてお願い事。ある雑誌から「バーのウィスキー」をテーマに原稿依頼があり、ちょうど沖縄に出かけるところだったので沖縄のどこかで飲んだハイボールについて書こうかと考えたものの、旅先でちらりと出会っただけのお店のことを書くのは難しいなと思って、やはり「H」さんのことを書こうと決めていた。というよりも、もう原稿は書いてあるのだけれども、あらためて、Hさんに「書いてもよいでしょうか」と相談する。「ああ、もちろんもちろん、嬉しいです」と言ってもらえてホッとする。雑誌名を伝えると、「意外なところから」と言いかけて、その言い方だと失礼になってしまうと思ったのか、「意外っていうわけじゃないですけど」とHさんが言い直すので、いやいや僕も意外でしたと笑う。

 2杯目を飲んだところで店を出て、「海上海」でよだれ鶏と、イカと紫蘇ときのこのうまいやつをテイクアウト。まだ17時半というのもあるけれど、店内には誰もお客さんがいなかった。19時まで仕事をして、知人と晩酌。お土産として持ち帰った泡盛――白百合や古酒の沖之光、それに1999年ものの残波を少しずつ飲んだ。白百合、瓶で買うのは初めてだったかもしれないけれど、度数が30度だということに初めて気づく。古酒ならともかく、泡盛は20度か25度であることが多い。「うりずん」で白百合を飲んでいると、2合くらいでそこそこ酔っ払ってしまうのはそのせいだったのかと、今更ながら気づく。

4月7日

 6時過ぎに目を覚ます。ホテルを出て市場界隈を散策しようと思ったものの、今日泊まっているのはいつものホテルランタナ那覇国際通りではなく、南西観光ホテルだ。常宿だと、坂を少し下ればもう仮設市場があるけれど、今日の宿だと片道10分近くかかる(ただしゆいレール牧志駅が近いので、空港にいくのに便利だと思ってここを予約した)。その時間があるなら早く原稿を書こうと思い返し、ローソンでハムサンドとホットコーヒーを買って部屋に引き返す。島のことを本にしたいと思ったときに、まっさきに話したいと思ったのはUさんだったのだけれども、昨日はお店が定休日だったので話に行けなかった。お店は11時オープンだけど、たまに10時半ぐらいに開けていることもあるので、10時過ぎにホテルを出て、市場まで歩く。まだUさんのお店は閉まっていた。公設市場跡ではもう作業が始まっていて、たまたま柵が開いていて中の様子が見える。土を掘り返している。近くに張り出してある作業予定をみると、4月5日までが「既存杭破砕」で、4月6日からが「場所打コンクリート杭」とあったので、今週がまさに「解体」から「建設」に切り替わるタイミングだったのだろうか。

 仮設市場で島らっきょうの浅漬けを買う。今は島らっきょうの季節なので、あちこちで島らっきょうの束を見かけていた。ほんとは青果店で島らっきょうを買って、自分で漬けてみようかと思っていたのだけれども、青果店のお姉さんに「先週雨が多かったでしょう、あの影響で今は倍以上の値段になっているから、来週まで待ったほうがいいよ」とアドバイスされたので、買うのをやめていた。浅漬けを袋に詰めながら、今回もなにか取材ですかと店員さんが尋ねてくれる。ええ、やんばるのほうにと答えると、ああ、あっちは自然が残っていていいですよね、向こうだと夜は電照菊の下でお酒飲んだりするみたいですね、と返ってくる。やんばるに電照菊があったかなと不思議に思っていたけれど、あれはきっと、「はえばる」と聞き間違えられていたのだろう。自分の言葉はそんなに聞き取りづらいのかと思う。ちょっとわざとらしいぐらいにハキハキしゃべるのでちょうどいいのかもしれない。

 10時45分にホテルをチェックアウトする。宿泊していたフロアのエレベーターホールに、「タオル」「部屋着」と書かれたカゴが置かれていた。清掃員が手で触れて感染することを避けるための配慮なのだろうか。誰もそこにタオルを入れていなかったけれど、入れておく。エレベーターのボタンにも「体調に異変を感じたら…」と、保健所の電話番号が貼り出してある。「現在、沖縄県は直近1週間の人口10万人当たりの新規感染は36,19人で全国2番目の多さです」と、警戒を呼びかけている。名前からしても老舗のホテルなのだと思うけれど、こういうところ、しっかりしている。ゆいレール那覇空港に出て、お土産を買い、保安検査場を通過し、沖縄そばとビールを流し込んで搭乗口に向かう。飛行機まではバスでの移動になるのだけれど、マスクをつけずに搭乗口を通過する乗客に、スタッフは何も注意しようとしなかった。バスの中にも、マスクなしで談笑する若者の姿があった。大量のお土産を抱えている。言葉からすると観光客だろう。「沖縄は安全だ」と思っているのだろうか。もしそうだとしても、自分が誰かに移してしまうという不安は微塵も感じていないのだろうか。

 座席は往路と同じく2Dの席を選んだ。前方の座席は、すぐに降りられることもあり、少しだけ割高になる。そのおかげか、往路と同じく、隣(3列シートの真ん中)には乗客がいなかった。通路を挟んで向こう側には親・子・孫の3世代が並んで座っている。しっかりしたマスクに、フェイスガードもつけている。言葉からすると韓国の方だろうか。飛行機の中では構成仕事を進める。14時半に飛行機は成田空港に到着する。飛行機がターミナルまで走っているあいだに、「降りる際は、感染拡大防止のため、お客様同士の距離をとって」とアナウンスがある。ベルト着用サインが消えて、上の荷物を下ろし、扉が開くのを待っていると、窓側に座っていた乗客が自分の荷物をおろそうと身を乗り出してくる。「すいません」と笑いながら、さらに身を乗り出してくるけれど、こちらは避けようもないので、「あの、ちょっと待ってからにしてもらえますか」と伝えると、その乗客はふてくされたように席に戻った。

 スカイライナーで日暮里に出て、西日暮里、千駄木と乗り継いでアパートにたどり着く。ポストに『群像』が届いていた。原稿を書いたあと、レイアウトされたゲラではなく、14字詰めになったデータが届き、それで校正を戻していた。最後の1文を、思い出したかのように、駆け込みで書き添えたように読まれて欲しくて、ぴったり収まる字詰めにしておいた。たぶんぎりぎり収まるはずだと思うんですけどと、データを戻すときに言い添えると、行数はデザイナーのKさんに任せておけば問題ないと思いますと返事があり、少し不安に感じてはいたのだけれども、やはり字詰めは変わっていて、最後の1行がすかすかになってしまっていた。少しだけ休んで、「往来堂書店」に出かけ、佐久間文子「ツボちゃんの話――夫・坪内祐三」が掲載されている『新潮』と、平民金子による新連載「めしとまち」が掲載されている『文學界』、それに本を数冊買う。

 スーパーでタコの刺身を買って、団子坂を上がりながら、さっそく『文學界』の「めしとまち」を読む。坂の上からの西日が眩しい。おばあさんがゆっくりゆっくり、自転車を押しながら歩いている。いつもならさっと追い越すところだけれど、本を読んでいるのでちょうどよく、後ろをついて歩く。自分が数度だけ訪れたことのある町並みを思い返しながら、今自分が暮らしている街や、何度も訪れたことがある町のことや、まだ訪れたことのない土地のことを想像する。口の中に酸味が広がるが、その酸味はピクルスのそれで、いや、それじゃないんだと思っても、うまく味を思い浮かべることはできなかった。

 それにしても、目次にあるリード文「別に美味しそうでもない“めし”と子の成長とともに移り変わる“まち”。神戸から贈る、とぼとぼエッセイ」は、一体誰が書いたのだろう。まさか著者ではないだろう。まず、書き出しの「別に美味しそうでもない“めし”」という言葉からして、この随筆を貫く精神とはずいぶん遠く離れたところにある。たとえば小説や随筆で、作家が或る定食屋の料理を「別に美味しそうでもない“めし”」と評することはありえるのだろう(それを肯定的な意味として)。なにかの料理を「別に美味しそうでもない」と書くことの乱暴さ、不遜さに、ぼくは馴染めない。もちろん不遜な言葉というものが存在する以上、どんなに暴力的だ時代遅れだと言われようが私はこの言葉をふるうんだという人はいるだろう。でも、この随筆は、そうした精神から遠いところにあるはずだ。あるいは、自分自身で作る料理に対して、「別に美味しそうでもない“めし”」と書く場合もある。そこには自己卑下や、あるいはぶっきらぼうな感じが漂うけれど、そういった精神とも無縁な随筆である。そこに、どうして「別に美味しそうでもない“めし”」という書き出しのリードがつくのか。ここに、文芸編集者の手癖のようなもの、「こういうエッセイにはこういう形容がふさわしいのだ」というくさみを感じる。

 問題は書き出しだけではない「子の成長とともに移り変わる“まち”」の、「とともに」という言葉は、どういうつもりで書かれているのか。「子の成長」と、まちの移り変わりは、まったく無関係だ。そして「神戸から贈る」の、「贈る」は、どうしてわざわざ「送る」ではなく「贈る」としたのか。何かを与える、贈与するというような意図が、この文章にあるだろうか。「とぼとぼエッセイ」という締めの言葉もずいぶん雑だけれども、まだ「とぼとぼ」という言葉はしっくりくる。これは、とぼとぼと町を歩きながら、その速度で、何かをひとり考えながら歩いている随筆である。そのとぼとぼ歩きに、どんな贈与が宿るというのだろう。

 そんなことにこだわってしまうのは、他でもない文芸誌において、ここまで雑な言葉が用いられるのかと思ってしまうからだ。僕のアンケートエッセイでも、言葉がないがしろにされているように思ってしまう。あるいは、『新潮』の「ツボちゃんの話――夫・坪内祐三」。目次には、「博覧強記の東京っ子。希有な同時代の語り部が急死して一年半。妻が語るありし日の記憶。」とリードが添えられている。『新潮』にはあまり坪内さんが寄稿している印象はなかったけれど、亡くなった途端に「稀有な同時代の語り部」と書くくらいなら、もっと依頼すればよかったんじゃないかと思うけれど、それはそれとして、「急死して一年半」とはどういうことだろう。坪内さんが亡くなったのは1月だから、まだ1年と3ヶ月だ。それではリードが収まらないのだとしても、「一年余」とすれば済む。「一年半」というのは誤りだ。3誌続けて、文芸誌で雑な言葉が用いられているのを目の当たりにすると、もう言葉なんてどこにも居場所がないんじゃないかと思ってしまう。

3月27日

 5時に目を覚ます。今日から沖縄に出かけるので、朝から荷造りをする。しばらく東京を離れるので、レコーダーの容量を空けておかなければと、放送が終了したテレビドラマをブルーレイに焼く。11時、『俺の家の話』最終回を再生し始める。半分まで観たところで再生を停めて、知人にトマト缶と鯖缶のパスタを作ってもらって、そのあいだに荷造りを完成させる。食べながら最後まで観る。良いドラマだったけれど、何より長瀬智也に捧げられたドラマだ。12時20分にドラマを観終えて、歯を磨き、コーヒーを飲んで、12時35分にアパートを出る。途中で日本酒の品揃えがいい酒屋「I」に立ち寄る。スーツケースを持って店内を歩くと迷惑だろうと、表にスーツケースを置いておく。沖縄の離島に滞在するときの手土産にしようと、日本酒の5号瓶を2本買って、沖縄の宿宛に配送手続きをお願いする。伝票を書き終えて、店員さんに手渡そうとしていると、店員さんは常連客とおぼしき人と談笑している。スカイライナーの出発時刻は13時5分で、その時刻は15分後に迫っている。ここから駅まで、Googleマップの計算だと13分だ。その談笑が終わるのを待って伝票を処理してもらって、急いで店を出て、駅に向かう。ちょうど信号が青になったところで、運が味方しているなと不忍通りを渡って、駅へと急ぐ。言葉にならない考え事をしながら歩いている途中で、ふいに気づく。スーツケースを店の前に置いたままだ。

 急いで引き返すと、信号は赤だ。信号を待ちながら、さっき信号が青だったのはむしろ不運だったのではないかと思い返す。もしも信号を待つ時間があれば、そこでスーツケースを忘れていることに気づいたかもしれないけれど、青だったことで「とにかく急がなければ」と前に進むことしか頭に浮かばなくなっていた。「I」でスーツケースをピックアップした時点で、発車時刻は8分後に迫っている。徒歩ではもう間に合わないだろう。しかし、タクシーでももう微妙だ。ケータイを手に取り、次のスカイライナーを調べてみると、それだと14時24分着になる。14時50分の便だから、それだと荷物を預けるのは間に合わないだろう。出発駅を日暮里から千駄木に変更して調べてみたけれど、それでも間に合わなそうだ。フライトの変更ができないかと調べてみたけれど、ぼくが予約したピーチの便は搭乗予定の便が最終便だ。別の航空会社の便を急遽予約し直すということもできるけれど、その場合、予約済みの便についてはどういう手続きをすればいいのだろう。それを想像するよりも、タクシーで成田空港を目指すというのが手っ取り早い選択肢のように思えてくる。検索すると、成田空港まで1時間18分だ。それに賭けるのが一番前向きな選択肢であるように思って、タクシーを広い、「成田空港まで」と告げる。車内ではひたすら日記を書いていた。

 Googleマップの予測はほんとうに性格で、渋滞予想が出ていたところで時間のロスがあり、成田空港に到着したのは14時19分だった。運賃は25000円近く。クレジットで支払いを終えて、ゆっくりとレシートが出てくるのを待って、扉を開けてもらい、カウンターに急ぐ。なんだかもう仕事を終えた空気が漂っていて、その時点でいろんなことを察したが、スーツケースを手にしばらく佇んていると、2分ほど経って係員に話しかけられる。14時50分の便を予約している旨を告げると、その便は20分で受付を終了しているので、もう手続きできないですねと言われる。まあそうだろうなと思ってはいたけれど、あまりにも淡々とした調子で言うのでむっとしてしまう。え、じゃあこの予約ってどうなるんですかと伝えると、変更やキャンセルなど効かないので、どうにもならないですね、と返ってくる。え、19分には到着して、ここで待っていたのにそちらが対応してくれなかったからここで待っていただけですし、これ、タクシーで急いできたんですけど、とレシートを見せる。繰り返しになるけれど、ここではもう、予約した便に登場することは諦めていた。でも、スタッフが表情ひとつ崩さないので、何を言っても結果は変わらないとわかっているのに食い下がってしまう。レシートを見せたところで、スタッフの表情はひとつも変わらなかった。

 シャトルバスで第1ターミナルから第3ターミナルに移動し、馴染みのジェットスターのカウンターに移動する。15時半の便があったので、その便に搭乗できないかと相談してみると、その便は満席の予定で、もしかしたら直前でキャンセルが出るかもしれないけれど、その場合でも4万円以上かかってしまうので、明日の便をおすすめしますと告げられる。その言葉に従って、空港をあとにして、日暮里まで引き返す。知人に乗りそびれた旨をメールで伝えても、当然ながらまったく同情されることはなかった。スカイライナーから見える風景は天気がよく、このまま家に引き返すのは憚られたので、根津のバー「H」で知人と待ち合わせ。ハイボールを3杯飲んで、「海上海」でよだれ鶏イカと紫蘇のうまいやつをテイクアウト。ハイボールを3杯飲んだせいで、8時にはもう眠ってしまった。

3月26日

 7時に目を覚ます。コーヒーを淹れて、洗濯物を干す。8時20分にアパートを出て、タクシーで「首都高の神田橋を目指してください」と伝える。15分ほどで目的地にたどり着き、神田の運転免許更新センターへ。朝イチだからかそこまで混み合ってもおらず、ソーシャルディスタンスを保つように貼られたバミリにしたがって歩き、お金を払って写真を撮影され、9時からの講習を受ける。席は満席にならなかった。講習は例によって淡々とした調子で進む。35分ほど口頭で話があったのち、DVDが再生される。こちらも淡々とした調子で進み、居眠りしている人も多い。この映像を、たとえば芸人やYouTuberを起用したり、映像作家や演出家に入ってもらったりして、もっとセンセーショナルで情感に訴えかけるものにすることだってできるだろう。でも、そうなってしまうと何かが失われてしまう気がするから、ずっとこの退屈な感じであってほしいなと思う。

 10時には新しい免許を受け取り、センターをあとにする。今日は「ポカポカ陽気に」とテレビが言っていたけれど、どこか肌寒い。約束の時間まで余裕があるので、一度アパートに戻り、スプリングコートから冬のコートに着替えて、マフラーも巻いて出直す。11時半に自由が丘駅前で待ち合わせて、企画「R」に出演する皆と散策。ずっとまっすぐな道を歩き、上野毛から二子玉川公園へと坂をくだる。二子玉川ライズにあるマクドナルドでお昼ごはんを買って、レンタサイクルを借り、河川敷でお昼ごはんにする。その意味を気づいていない人もいるだろうけれど、今日のお昼は――このコースを歩いてきたのであれば――マクドナルドしかないなと思っていた。食事を終えると、多摩川を遡るように自転車を走らせる。数ヶ月前と違って、堤を傘増しする工事が行われていて、堤の一部は通れなくなっていた。

 15時に京王閣まで辿り着き、近くのポートで自転車を返却する。ちょうど第1レースが始まるところだったので、まずはレースを観てから、「まくり屋」に移動する。表のテーブル席は、片側にだけ椅子が置かれている。これ、対面で座らないほうがいいですかねと尋ねてみると、どうなんですかねえ、外だし、別に平気だと思うんですけどねえ、それにこの時期に競輪場までくるお客さんはコロナ覚悟できてるんだろうしねえ、と言いながら、椅子を出してくれる。皆それぞれ食べ物や飲み物を注文して、頬張りながらそれぞれ予想を立てている。競輪って当てるのが難しいのだと、Fさんと一緒になって話していたら、A.Iさんがいきなり予想を当てる。配当は200円ぐらいのカタイ勝負だったとはいえ、いきなり当てるとは――と思っていたら、次のレースも的中させ、「当たった!」というので、ふてくされたふりをする。思いのほか皆夢中で予想を立てて車券を買っていたのでホッとしながら、ビールや日本酒を飲んだ。風が冷たくなってきたので、第5レースまで見たところで切り上げて、京王多摩川駅に引き返す。

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 ケータイを確認すると、WEB本の雑誌の連載「東京の古本屋」が更新されていた。今回取材させてもらったのは「北沢書店」で、神保町のお店を取材したのはこれが初めてだ。どうして「北沢書店」に話を聞かせてもらいたいと思ったのかには、いくつか理由がある。ひとつには、ひとつ前の回で「コクテイル書房」を取材したときに、店主の狩野さんから神保町にあった「」で働いていた時代のことを聞いたことの影響もある。その話から思い出されたのは、坪内さんの『人声天語』だ。『文藝春秋』2005年10月号(つまり9月10日ごろに発売された号)に掲載された回のタイトルは「洋書屋消滅」だ。

 

 明治、大正、昭和、戦前戦後を通じて、日本には、洋書文化というものが確かにあった。

 そういう伝統の中で私は知的成長をとげていった。

 私が学生の頃、神保町には、北沢書店だけでなく、東京堂書店の洋書部があり、米文学者蟻二郎の経営するワンダーランドがあり、古書の東京泰文社や松村書店があり、三星堂の洋書部も今よりずっと洋書屋らしかった。銀座にはイエナがあり日本橋には丸善があり、早稲田大学の地元の高田馬場にはビブロスがあり、渋谷大盛堂書店の洋書部も面白かった。

 実は、これらの洋書屋は、つい数年前までは健在だったのだが、ここ四〜五年で、殆ど消えた(丸善は丸の内に移り、洋書にもそれなりのスペースがとられているが、あの洋書コーナーは、日本の洋書屋というよりは国際ビジネス都市のブックショップという感じがする)。

 

 そうした「洋書屋文化」の消滅を決定づけるのが、北沢書店の「閉店」だと坪内さんは書く。

「今月(八月)の初め」に北沢書店を訪れた坪内さんは、「一階の店内で、全点七〇%オフのバーゲンセール」と出くわす。その数日後に出た『新文化』には、北沢書店の一階が「ブックハウス神保町」となることを知らせる記事が掲載されていた。「そのオープンに合わせて北沢書店も二階部分で新たなスタートを切るのかもしれないが、従来のオーソドックスな洋書屋ではなくなるだろう」とし、これは「北沢書店の事実上の消滅」だと、坪内さんは書いていた。 

 

 もともと私はたいして英語を読む力がなかった。

 そんな私が大学院に入る頃に、どうやら英語の本を読めるようになったのは、先に名前を挙げた洋書屋のおかげである。

 初めて北沢書店に足を踏み入れた時、私は、棚にずらっと並んでいる横文字の本の背表紙のタイトルと著者名をたどたどしく目で追うだけで精いっぱいだった。

 タイトルと著者名をすぐに認識できるようになったら楽しいだろうな、と私は思った。

 そうなるまでに一年以上かかった。

 それから一年ぐらいして、面白そうな本や著者を選ぶカンが生まれた。さらに一年後、立ち読みができるようになった。

 ネット書店では、洋書と、このようなプロセスをふむことができない。

 

 この原稿を『文藝春秋』で読んだ1ヶ月後、「ブックハウス神保町」がオープンし、2階で古書部門のみで「北沢書店」がリニューアルオープンした初日に、ぼくは神保町に出かけた。1階にはたしかテレビカメラもあり、賑やかだったけれど、ぼくは階段を上がってまっすぐ2階に上がった。そこでT.H.グリーンの洋書を買った記憶がある。その本を、ぼくはきちんと読むことができなかったし、大学院をやめてからは英語に触れる機会からも遠ざかってしまった。そうして15年が経って、読書委員になってみると、2次会として使われていたのが「ブックハウスカフェ」だった(コロナの影響で、2次会が開催できていたのは最初の数ヶ月だけだったけれど)。

 そうして数ヶ月が経ったころに、「北沢書店」の記事が炎上しているのを目にした。あの北沢書店が、ディスプレイ向けに洋書を販売するなんて――と。その日の日記にも書いているけれど、ぼくはとてもじゃないけどそのことを批判できる立場にないなと思った。ディスプレイ向けに洋書を販売するというアイディアは、洋書が売れなくなったなかで、どうにか店を存続させられないかと生み出されたものに違いない。だとすれば、その状況を生み出したのは、洋書文化を引き継がなかったわたしたちにある。そんな気持ちもあったことから、外側から勝手な判断をするだけでなく、お店を経営する方たちにしっかり話を伺って、記事を書きたいと思ったのだった。

 面識がなかったこともあり、取材の前に一度、ご挨拶に伺った。一郎さんは『市場界隈』を読んでくださっていて、「この方は、お店の業態ということ以上に、人間を描こうとしているんだな」と感じました。原稿に出すかどうかはさておき、橋本さんが質問されたことにはすべてお答えするつもりでいますから、どうぞ存分に取材してください」とまで言ってくださった。その言葉に応えられるだけの記事にしなければと、緊張しながら3日間取材させてもらって、半月かけて記事を書いた。かなり踏み入った話も記事として残したこともあり、一郎さんや妻の恵子さん、長女の里佳さんは、1ヶ月近くかけてじっくり原稿を確認してくださって、今日の公開にまでたどり着いた。一人でも多くの人に読んでもらえたらなと思う。

3月25日

 7時過ぎに目を覚ます。9時にアパートを出て、荻窪に向かう。千代田線はそこそこ混んでいたけれど、中央線の下りはガラガラだ。再び修正希望が届いていたので、それを反映したテキストを最終稿として取材させてもらった方に送信する。荻窪駅に電車が到着すると、ホームのベンチに座って作業を続ける。それから、昨日のバージョンから加筆した箇所をわかりやすく表示したワードファイルを、担当記者に送信しておく。もしかしたら昨晩送ったデータはもうチェックして、ゲラの修正に取り掛かっているかもしれないので、昨晩のデータからの違いだけをわかりやすく表示しておく。パソコンを閉じて改札に向かうと、もうほとんど全員揃っていた。

 北口に出て、まずはF.Tさんと最初に出会った飲み会の会場だった「鳥もと」に行く。話しているうちに、A.Iさんもその飲み会にいたのだと知る。Fさんが近くのセブンイレブンでウィスキーと炭酸水、氷、プラカップを買ってきて、皆にハイボールを作る。乾杯して、歩き出す。炭酸水だと思って買ったのはサイダーで、不思議な味がする。前回は10人以上だったけれど、今日は都合がつかなかった人がいて、8人なので比較的歩きやすい気がする。途中で立ち止まって説明するときも、声が届きやすい(これまでのルートのときは、ぼくが説明し始めたときに、わりと近くに立っている人も近寄って耳をそばだてているのを見て、「あれ、自分の声ってこの距離の相手にも届いてなかったのか」と愕然とした)。青梅街道を歩き、環八を越えて少し進んだところで左に折れ、善福寺川を越えて進んでゆく。

 1時間ほどで西荻窪に出て、遅れていたO.Fさんと合流する。ここでトイレ休憩を挟んで、ウィルキンソンの炭酸を買って、今度こそハイボールを作って飲みながら歩く。A.Iさんが、昨日おばあちゃんに都電のことを聞いてみたのだと話してくれる。かつて都電が走っていたところの近くに戦没者の慰霊碑があり、都電に乗っていると車掌さんがその慰霊碑のことをアナウンスして、「黙礼」と言っていた――おばあちゃんがそんなことを話していた、とAさんが教えてくれる。かつて都電が走っていたことも、そのころは戦争もまだ近い記憶であったであろうことは、知識としては当然知っている。でも、自分の友人の祖母の言葉として、そういった歴史を聞くと、ぐにゃりと風景が歪んだように感じる。

 井の頭公園にたどり着いたところで、柳橋江戸川橋で通りかかった神田川の源流はここです、と説明しておく。井の頭公園でお昼を食べてから、玉川上水まで歩き、三鷹駅に引き返す。そこから新宿に出て、小田急百貨店の屋上に上がって東口の駅前広場を見下ろし、思い出横丁から大ガードに抜け、小田急百貨店の屋上を見上げる。小雨が降り始めてきたので地下道に入り、副都心線に乗ってみなとみらいに出る。雨で気温が下がったせいか、昼間からハイボールを飲みながら歩いたせいか、体調が下り坂だ。海外移住資料館を見学したのち、ホテルニューグラントまで歩いて解散となる。何人かは中華街で食事をして帰るようだったけれど、体調に不安があるのでまっすぐ引き返す。

 メールを開くと、最終版のゲラが届いていたのだが、修正が反映されていない箇所がいくつもあった。今日の午前に送付した修正箇所は反映されているけれど、昨晩のものは反映されていないようだった。最終稿のテキストと付き合わせてゲラを読み返し、修正が漏れている箇所を指摘してメールで伝えておく。帰宅後すぐに湯に浸かり、とり野菜みそ鍋を食べて体を温める。19時45分に再度ゲラが届き、もう一度読み返し、一点だけ修正漏れを電話で伝えて、校了としてもらう。これまでの連載の中でいちばんバタバタしたけれど、無事校了を迎えられてホッとする。