4月7日

 6時過ぎに目を覚ます。ホテルを出て市場界隈を散策しようと思ったものの、今日泊まっているのはいつものホテルランタナ那覇国際通りではなく、南西観光ホテルだ。常宿だと、坂を少し下ればもう仮設市場があるけれど、今日の宿だと片道10分近くかかる(ただしゆいレール牧志駅が近いので、空港にいくのに便利だと思ってここを予約した)。その時間があるなら早く原稿を書こうと思い返し、ローソンでハムサンドとホットコーヒーを買って部屋に引き返す。島のことを本にしたいと思ったときに、まっさきに話したいと思ったのはUさんだったのだけれども、昨日はお店が定休日だったので話に行けなかった。お店は11時オープンだけど、たまに10時半ぐらいに開けていることもあるので、10時過ぎにホテルを出て、市場まで歩く。まだUさんのお店は閉まっていた。公設市場跡ではもう作業が始まっていて、たまたま柵が開いていて中の様子が見える。土を掘り返している。近くに張り出してある作業予定をみると、4月5日までが「既存杭破砕」で、4月6日からが「場所打コンクリート杭」とあったので、今週がまさに「解体」から「建設」に切り替わるタイミングだったのだろうか。

 仮設市場で島らっきょうの浅漬けを買う。今は島らっきょうの季節なので、あちこちで島らっきょうの束を見かけていた。ほんとは青果店で島らっきょうを買って、自分で漬けてみようかと思っていたのだけれども、青果店のお姉さんに「先週雨が多かったでしょう、あの影響で今は倍以上の値段になっているから、来週まで待ったほうがいいよ」とアドバイスされたので、買うのをやめていた。浅漬けを袋に詰めながら、今回もなにか取材ですかと店員さんが尋ねてくれる。ええ、やんばるのほうにと答えると、ああ、あっちは自然が残っていていいですよね、向こうだと夜は電照菊の下でお酒飲んだりするみたいですね、と返ってくる。やんばるに電照菊があったかなと不思議に思っていたけれど、あれはきっと、「はえばる」と聞き間違えられていたのだろう。自分の言葉はそんなに聞き取りづらいのかと思う。ちょっとわざとらしいぐらいにハキハキしゃべるのでちょうどいいのかもしれない。

 10時45分にホテルをチェックアウトする。宿泊していたフロアのエレベーターホールに、「タオル」「部屋着」と書かれたカゴが置かれていた。清掃員が手で触れて感染することを避けるための配慮なのだろうか。誰もそこにタオルを入れていなかったけれど、入れておく。エレベーターのボタンにも「体調に異変を感じたら…」と、保健所の電話番号が貼り出してある。「現在、沖縄県は直近1週間の人口10万人当たりの新規感染は36,19人で全国2番目の多さです」と、警戒を呼びかけている。名前からしても老舗のホテルなのだと思うけれど、こういうところ、しっかりしている。ゆいレール那覇空港に出て、お土産を買い、保安検査場を通過し、沖縄そばとビールを流し込んで搭乗口に向かう。飛行機まではバスでの移動になるのだけれど、マスクをつけずに搭乗口を通過する乗客に、スタッフは何も注意しようとしなかった。バスの中にも、マスクなしで談笑する若者の姿があった。大量のお土産を抱えている。言葉からすると観光客だろう。「沖縄は安全だ」と思っているのだろうか。もしそうだとしても、自分が誰かに移してしまうという不安は微塵も感じていないのだろうか。

 座席は往路と同じく2Dの席を選んだ。前方の座席は、すぐに降りられることもあり、少しだけ割高になる。そのおかげか、往路と同じく、隣(3列シートの真ん中)には乗客がいなかった。通路を挟んで向こう側には親・子・孫の3世代が並んで座っている。しっかりしたマスクに、フェイスガードもつけている。言葉からすると韓国の方だろうか。飛行機の中では構成仕事を進める。14時半に飛行機は成田空港に到着する。飛行機がターミナルまで走っているあいだに、「降りる際は、感染拡大防止のため、お客様同士の距離をとって」とアナウンスがある。ベルト着用サインが消えて、上の荷物を下ろし、扉が開くのを待っていると、窓側に座っていた乗客が自分の荷物をおろそうと身を乗り出してくる。「すいません」と笑いながら、さらに身を乗り出してくるけれど、こちらは避けようもないので、「あの、ちょっと待ってからにしてもらえますか」と伝えると、その乗客はふてくされたように席に戻った。

 スカイライナーで日暮里に出て、西日暮里、千駄木と乗り継いでアパートにたどり着く。ポストに『群像』が届いていた。原稿を書いたあと、レイアウトされたゲラではなく、14字詰めになったデータが届き、それで校正を戻していた。最後の1文を、思い出したかのように、駆け込みで書き添えたように読まれて欲しくて、ぴったり収まる字詰めにしておいた。たぶんぎりぎり収まるはずだと思うんですけどと、データを戻すときに言い添えると、行数はデザイナーのKさんに任せておけば問題ないと思いますと返事があり、少し不安に感じてはいたのだけれども、やはり字詰めは変わっていて、最後の1行がすかすかになってしまっていた。少しだけ休んで、「往来堂書店」に出かけ、佐久間文子「ツボちゃんの話――夫・坪内祐三」が掲載されている『新潮』と、平民金子による新連載「めしとまち」が掲載されている『文學界』、それに本を数冊買う。

 スーパーでタコの刺身を買って、団子坂を上がりながら、さっそく『文學界』の「めしとまち」を読む。坂の上からの西日が眩しい。おばあさんがゆっくりゆっくり、自転車を押しながら歩いている。いつもならさっと追い越すところだけれど、本を読んでいるのでちょうどよく、後ろをついて歩く。自分が数度だけ訪れたことのある町並みを思い返しながら、今自分が暮らしている街や、何度も訪れたことがある町のことや、まだ訪れたことのない土地のことを想像する。口の中に酸味が広がるが、その酸味はピクルスのそれで、いや、それじゃないんだと思っても、うまく味を思い浮かべることはできなかった。

 それにしても、目次にあるリード文「別に美味しそうでもない“めし”と子の成長とともに移り変わる“まち”。神戸から贈る、とぼとぼエッセイ」は、一体誰が書いたのだろう。まさか著者ではないだろう。まず、書き出しの「別に美味しそうでもない“めし”」という言葉からして、この随筆を貫く精神とはずいぶん遠く離れたところにある。たとえば小説や随筆で、作家が或る定食屋の料理を「別に美味しそうでもない“めし”」と評することはありえるのだろう(それを肯定的な意味として)。なにかの料理を「別に美味しそうでもない」と書くことの乱暴さ、不遜さに、ぼくは馴染めない。もちろん不遜な言葉というものが存在する以上、どんなに暴力的だ時代遅れだと言われようが私はこの言葉をふるうんだという人はいるだろう。でも、この随筆は、そうした精神から遠いところにあるはずだ。あるいは、自分自身で作る料理に対して、「別に美味しそうでもない“めし”」と書く場合もある。そこには自己卑下や、あるいはぶっきらぼうな感じが漂うけれど、そういった精神とも無縁な随筆である。そこに、どうして「別に美味しそうでもない“めし”」という書き出しのリードがつくのか。ここに、文芸編集者の手癖のようなもの、「こういうエッセイにはこういう形容がふさわしいのだ」というくさみを感じる。

 問題は書き出しだけではない「子の成長とともに移り変わる“まち”」の、「とともに」という言葉は、どういうつもりで書かれているのか。「子の成長」と、まちの移り変わりは、まったく無関係だ。そして「神戸から贈る」の、「贈る」は、どうしてわざわざ「送る」ではなく「贈る」としたのか。何かを与える、贈与するというような意図が、この文章にあるだろうか。「とぼとぼエッセイ」という締めの言葉もずいぶん雑だけれども、まだ「とぼとぼ」という言葉はしっくりくる。これは、とぼとぼと町を歩きながら、その速度で、何かをひとり考えながら歩いている随筆である。そのとぼとぼ歩きに、どんな贈与が宿るというのだろう。

 そんなことにこだわってしまうのは、他でもない文芸誌において、ここまで雑な言葉が用いられるのかと思ってしまうからだ。僕のアンケートエッセイでも、言葉がないがしろにされているように思ってしまう。あるいは、『新潮』の「ツボちゃんの話――夫・坪内祐三」。目次には、「博覧強記の東京っ子。希有な同時代の語り部が急死して一年半。妻が語るありし日の記憶。」とリードが添えられている。『新潮』にはあまり坪内さんが寄稿している印象はなかったけれど、亡くなった途端に「稀有な同時代の語り部」と書くくらいなら、もっと依頼すればよかったんじゃないかと思うけれど、それはそれとして、「急死して一年半」とはどういうことだろう。坪内さんが亡くなったのは1月だから、まだ1年と3ヶ月だ。それではリードが収まらないのだとしても、「一年余」とすれば済む。「一年半」というのは誤りだ。3誌続けて、文芸誌で雑な言葉が用いられているのを目の当たりにすると、もう言葉なんてどこにも居場所がないんじゃないかと思ってしまう。