4月9日

 7時過ぎに目を覚ます。つけっぱなしのテレビでは『ZIP!』が始まっていて、聖火リレーの様子が映し出される。「日本のいいところがたくさん見られますね」と水卜アナが口にした瞬間に、何言ってんだと反射的に思う。今この状況で聖火リレーがおこなわれていることに、そんな感想を本気で抱いているんだろうか。今となっては、緊急事態宣言を取り下げたのは聖火リレーを予定通り開催するためだったとしか思えず、その反動で感染者数が増え続けているのを報じている同じ番組で、どうしてそんなコメントになるのだろう。コーヒーを淹れて、昨日「ベーカリーミウラ」で買ったコーンチーズのパンを食べる。知人にはオリーブのパンを買っておいたら、嬉しそうに頬張っている。洗濯機を2回まわし、テープ起こしを進める。昼、近くの八百屋に出かける。昨日はブラックペッパーを使ったのでいまいちな仕上がりになったのではないかと、切らしていたテーブルコショーを買ってくる。肉が硬くならないようにと豚コマを日本酒に振っておいて、作る。昨日よりは上手にできたけれど、キャベツともやしを炒める時間が長いせいかまだ水っぽい仕上がり。

 テープ起こしを終えると、さっそく構成に取り掛かる。あまり捗らず。というのも、インターネットをあれこれ検索して、しっくりくる明朝体のフォントを探していた。ちょうどテープ起こしをしていた対談の中で、原稿を書くときのフォントの話題があり、そうそうどのフォントで書くかってことが結構大きい要素でもあるんだよなあと思い、あれこれ探す。自分の好きな文字列で試せるサイトがあったので、「初めて水納島を訪れたのは、」という文章で試してみる。あれはいつだったか、デザイナーのN.Nさんが僕の書いた文章をデザインするときに「秀英にじみ明朝」という書体を選んでくれたことがあって、あの書体はとてもしっくりきたので、『月刊ドライブイン』でもあのフォントを使っていたはず。その頃はモリサワの年間パスポートに入っていたけれど、今は入っていないので、「秀英にじみ明朝」を単体で買おうか迷う。値段は2万円である。

 16時過ぎにアパートを出て、本駒込から南北線に乗る。駅の改札の前で、制服姿の子が同じ制服姿の子たちを見送っていた。改札を抜けた子たちは、エレベーターに乗ってからも、見送りにきた子を棚の隙間に探して手を振っている。市ヶ谷駅で都営新宿線に乗り換える。エスカレーターのりばの前で輪になっている若者たちの姿。真新しいスーツに、真新しいリュックを背負っている。17時過ぎに新宿にたどりつき、思い出横丁「T」。すでにお客さんが2人いて、ふたりのあいだに座ることになる。この時間なのに先客がいるのかと思ったら、この状況で15時オープンになっているのだった。僕の左側に座っている女性はマスクを外していて、僕の右側にいる男性は入店したばかりなのかまだマスクをつけていて、しばらく上げ下げしていたけれど、ビールを何口か飲んだところでパッと外していた。感じが悪いかもしれないけれど、僕はかたくなにマスクをつけたまま過ごす。

 マスターはお客さんと「まん防」の話をしている。僕はもう、響きからして馬鹿らしいことにしか思えず、何がどうなっているのか、ニュースを追っていない。「ようはゴールデンウィークに営業するなってことでしょ」とマスターが言う。「去年のゴールデンウィークも休んでたんだっけ?」と客。「4月、5月は全部休んでた。この1年はなんもなかったようなもんだよ。なんだったんだろ」。途中からひとりごとのようにマスターが言う。思い出横丁の人通りはさほど多くないが、ぽつり、ぽつりとお客さんがやってきて、18時になるころには以前と同じ距離感にまで席が埋まる。皆、入店した途端にパッとマスクを外す。いそいそと3本目の瓶ビールを飲み干し、会計。瓶ビールは500円だったと思うのだけれども、680円になっている。いろんなところに値段が貼り直してあって、チューハイ類も50円ずつ値上がりしている。値上がり自体は歓迎だ。

 思い出横丁のトイレはいつのまにか改装されていて、妙にシックな佇まいに変わっている。大ガードをくぐり、「無印良品」で細々した買い物をして、新宿3丁目「F」へと階段をおりる。扉は少し開けてあり、階段の途中に花と写真が飾られていたけれど、あまり気に留めず通り過ぎる。カウンターにパーテーションが設置されている。焼酎の水割りを飲んでいると、メールでお知らせというのはしなかったんだけど、前この店で働いてたWさんが3月の終わりに亡くなって、と知らされる。それで写真と花が飾られていたのだ。10年前の3月11日、新宿の様子を見ておこうと飲みに出かけた日に、たしかお店にはWさんだけがいたのではなかったかと思う。お店のママは電車で通勤していたので来られず、近所に住んでいたWさんがひとりでカウンターに佇んでいた。今日ははっちゃんの好きなの聴こうよと言われて、自分が特別好きだというわけでもないのだけれど、ラスト・ワルツをかけてもらったような気がする。記憶はもうおぼろげだ。