1月15日

 8時過ぎまで眠ってしまう。胃が少しくたびれている。昨日の鍋に鶏肉と豆腐が少しだけ残っていたぶんを雑炊にして、『淋しき越山会の女王』を読みながら平らげる。土鍋にうっすらと、細かいヒビのような線が入っている。昨日、鍋を作り始める前に、土鍋を空焚きしてしまった。うちのコンロはふた口で、片方に空の土鍋をのせたあと、水切りかごに入っていたテフロン加工された両手鍋が邪魔くさく感じて、これもコンロにのせた。まだ乾き切っていなかったので、少し加熱して水気を飛ばそうと思って、コンロのスイッチをひねり、鍋の具材を切っていた。数十秒経ったところで、においに気づく。両手鍋らしくない匂いだなとコンロに目をやって、誤って土鍋のほうのスイッチをひねっていたことに気づく。土鍋からは少し湯気が出ていて、それで細かいヒビのような線が入ってしまっていたのだった。

 傷がつくと、そこばかり見てしまう。

 知人は眠り続けている。僕ももういちど布団に潜り込んで、読書を続けていると、テレビからニュース速報の音が流れる。画面に表示されている文字が、「地震速報」でも「気象情報」でもなく、いやなかんじがする。数秒経って表示されたのは、文京区の東大キャンパスで受験生が刺されたというニュースだった。午前中は本を読んだり、新聞を読んだり。昨日の紙面には、紛争によってエチオピア北部のティグレ州で紛争深刻な薬品不足が生じていることが小さな枠で報じられていて、同州出身のテドロス事務局長が「世界でティグレほど地獄のような場所はない」と窮状を訴えていた。その言葉が印象に残った。今日はさらに小さな枠で、「エチオピア政府が反発」という見出しが出ている。エチオピア政府の立場からすると、医療品不足は「政府軍と内戦を続けるティグレ人勢力が輸送トラックの軍事転用を続けることに責任がある」という。ティグレ州の場所をGoogleマップで検索する。

 今日の毎日新聞で、加藤陽子さんが『東京の古本屋』の書評を書いてくださっているとTwitter経由で知る。『東京の古本屋』の中には、加藤陽子さんの名前が二度登場する。一度は古書店主が最近読んだ本の著者として、一度はテレビから流れる国会中継の声として。その名前をメモに記し、原稿にも書き含めていたときには、まさか加藤陽子さんがこの本を読むとは思っていなかったので、びっくりする(これは「東大の先生が読んでくださるとは」ということではなく、こういう本も読まれるのかと意外に思ったということ。ただ、日記を書いている今になって思うと、記者の方が加藤陽子さんの名前が出ていることに気づき、書評を依頼されたのかもしれないなとも思う)。いずれにしても、刊行から3ヶ月を過ぎてもう新しい書評は出ないかと思っていたので、嬉しかった。

 正午が近づいたところで米を炊き、中村屋レトルトカレー(スパイシービーフ)を温める。知人も起き出してキッチンにやってきたので、「もしもマヂカルラブリーが、『ビーフカレーが食べたいよ〜』というフレーズから始まる漫才を作ったら」という妄想をぽろぽろしゃべる。村上だったらこんなツッコミをするのではと妄想するのが思いのほか楽しく、しばらく続ける。食後、知人は散髪に出かけていった。テレビを消して、来月出す本のフライヤーのレイアウトを詰める。印刷してみては調整してと繰り返す。基本的には店頭に貼ってもらう用のつもりだったので、片面印刷のつもりだったけど、「誰かに配る役割も兼ねるのであれば、両面印刷でも」と言ってもらえたので、もしも両面印刷にするとしたらと考えて、Indesignをぽちぽち操作しているうちに日が暮れていた。

1月14日

 7時半に目を覚ます。中2日しか空けてないとはいえ、3日ぶりにお酒を飲んで、内臓が少しくたびれているのを感じる。毎日のように飲んでいると、このくたびれを感じなくなってしまっていたのだろう。ストレッチをして、ジョギングに出る。たまごかけごはんを平げ、新聞を読む。「貨物線旅客化で活性化 葛飾新小岩金町駅」という記事が出ている。葛飾区が、総武線新小岩駅常磐線金町駅とを結ぶ貨物線「 新金しんきん 貨物線」の旅客路線化事業に乗り出すのだという。今後は人口が減少するとの予測が立てられているなかで、南北交通網の強化を図る新路線を運行させることで、人口減に歯止めをかけたいのだ、と。

 数年前に豊島区が「消滅可能性都市」とされたという話もあったけれど、都心ですらもう人口減少を避けられないのだなあとしみじみ思う。これからやってくるその時代には、「どうにか、これまで通りで」というのは通用せず、新しい手を打ち、現時点ではまちの外側にいる人たちに訴えかけなければならないのだろう。それだけでもう、身につまされるような思いがする。そして、葛飾区長が車両デザイン案として提案したのが「男はつらいよ」、「こち亀」、「キャプテン翼」だったということにも、なんとも言えない心地になる。いずれも昭和の作品だ。平成30年間は何だったのだろうかとも考えさせられるし、そういった昔の作品で地域に暮らす人たちのアイデンティティが生みなおされるのだなとも思う。

 コーヒーを淹れて、たまごかけごはんを平らげる。午前中は空気清浄機の性能をあれこれ調べる。13時半、キャベツと鰹の塩辛のパスタを作って昼食をとる。つけっぱなしのテレビで『ミヤネ屋』が始まると、コロナが広がり始めた2年前にテレビによく出ていた岩田教授がリモート出演していて、「オミクロン株に感染しても自然に良くなるので『診断は重症化リスクが高い層に特化しリスクが低い層は診断を目指さない』医療資源は限られているので今すぐにでも」と、スタジオに用意されたパネルとともに語っている。オミクロン株が広がり始めてからも、こうした空気の違いはテレビ報道を通じても感じていたし、自治体の首長も、どこか悠長に構えているように見える(数日前の『スッキリ!!』で、加藤浩次が「感染者数が増えると重症者や死者も増えてしまう、欧米と違って、日本はなるべく重傷者や死者を出さないという価値観の社会なのではないか」といった旨の発言をしていたのは、わりと例外のように感じる)。でも、その悠長さは、自分がどこか遠くに取材に出かけることを許容してくれるものでもある。

 今日は原稿の大枠を練るための下準備、その心づもりをしているぐらいで日が暮れてしまった。今日は湯豆腐のつもりで、豆腐としいたけ、長ねぎ、春菊を買ってきてあった。それだけだと物足りないと感じるのではと思い直し、近所の八百屋でえのきを、鶏屋でモモ肉を買ってくる。白出汁をベースに湯豆腐――というかヘルシーな鍋料理を作り、20時過ぎに帰宅した知人と晩酌をする。今日もちびちびとお酒を飲んだ。『ストレンジャーシングス』シーズン1の第5話を観たのち、日曜日に放送されていたNHKスペシャル『北の海 よみがえる絶景』を観る。小樽の銭函漁港(あらためてすごい名前だ)では、かつて「海が白く濁る」という現象が見られていたという。それは「群来」と呼ばれ、大量の兆しと呼ばれていた。しばらく見かけなかったこの現象が、最近は目撃される機会が増えていると聞きつけた取材班が現地に駆けつける――という体でドキュメントが始まる。そして、海が白く濁る正体はニシンだったと「判明」する。ネットで検索すると、「群来」はニシンの産卵によるものだという情報がいくらでも出てくるので、ドキュメントの中で謎が解き明かされるような展開はいかがなものかとも思いはするけれど、その映像は圧巻だ。

 産卵のために、一斉に同じ海岸にニシンが戻ってくるというのは、一体どういう原理なのだろう。鮭が川を遡ることや、ウミガメが生まれた直後に外洋を目指し、また同じ海岸に戻ってくることと同じように、その習性はほんとうに不思議だ。このドキュメントの中では、ニシンを水槽に放った実験がおこなわれている。その水槽にニシンの精子を流すと、一斉にニシンたちが精子を出し始めるのだという。それと同じ原理で、一斉に産卵が始まり、海が白く濁るのだ、と。その映像を見ていると、ちょっと気持ち悪くなってくる。だって、人間でたとえると、ひとりのオッサンが――と話すと、「なんで人間でたとえるんよ。これはニシンの話やろ」と知人が怪訝そうな顔をする。そうやってたとえてしまうと気持ち悪い話になるにしても、そういう根源にある部分を「気持ち悪い」と感じてしまうところは、自分の弱さでもあると思う。映画やドラマでラブシーンが描かれるたび、気まずそうな顔をしていると、「そこでそういう反応をしとる限り売れんやろ」と知人が言う。それはつまり、根源に対する態度の問題なのだと思う。

1月13日

 7時過ぎに目を覚ます。昨日寝る間際に頭痛がしていたけれど、起きてみるとすっかり消えていてホッとする。布団に横になったまま、児玉隆也『淋しき越山会の女王 他六編』(岩波現代文庫)を読み始める。表題になっている「淋しき越山会の女王」は、田中角栄の秘書・佐藤昭をめぐるノンフィクション。そこに彼女がホステスをしていた時代の記述があり、そのクラブの給料はいくらぐらいで、指名料はいくらだと書かれてある。こういうところに出くわすたびに、ぼんやり読んでしまう。同時代の読者なら、「それは高級なお店だな」とか「場末の感じがする」とか感じられた箇所を、ただ読み流すことしかできない。

 この本を読もうと思ったきっかけは、坪内さんの『文庫本福袋』で取り上げられていたことにある。「社会派でありながら、ただの社会派の枠には収まらない独特の自己言及性を合わせ持った、その文体」という言葉から、どんな文体なのだろうかと興味を持ち、ネットで注文した。また、児玉隆也の早逝を惜しんだ吉行淳之介が「彼のものの見方、心の在り方、神経の具合に親近感を覚えていた」と追悼文に書いていたということも、『文庫本福袋』で知り、ノンフィクションを書いていくための勉強――というか栄養素――として読んでおかなければという気持ちになったのだった。上の吉行の追悼文を引用する際に、坪内さんは「神経の具合」という箇所に傍点を振っている。坪内さんの追悼文を書いたとき、そのひとつに「神経のふれかた」とタイトルをつけたことを思い出す。原稿を書くとき、タイトルは編集者の方に任せることも多いけれど、あのときは自分でつけたのだった。

 燃えるゴミをまとめて出したあと、三角コーナーや排水溝の汚れが気になり、ハイターで除菌し、たわしで擦って汚れを取り除く。コーヒーを淹れて、昨日のおでんの残りを温めて、知人と一緒に朝食をとる。予約の時間が迫っていたので、根津まで自転車を走らせ、いそいそと病院に出かける。診察室に案内され、金曜から頭痛が、土曜から蕁麻疹が出ていることを伝える。年末年始にお酒を飲む機会が多かったので、その影響かなと思ってここ二日はお酒を控えてみたところ、とりあえず蕁麻疹は治っていることも言っておく。まずは喉をみられ、胸に聴診器を当てられる。喉の腫れから頭痛が起こることもありえるけれど、特に喉は問題なさそうですねと医者が言う。そして肩を触りながら、「肩こりはどうです?」と尋ねられる。肩こりと一緒に頭痛の症状が出ることもある、と(それはネットで調べてあった)。とりあえず頭痛薬と蕁麻疹を抑える薬を出しておきますから、様子をみましょうと言われて、え、もう終わりかと拍子抜けした気持ち。ここは頭痛を専門的に扱う病院でもなく、そして緊急性のある病気であれば、金曜日に症状がで始めたとすれば今頃もっと大変なことになっているということなのだろうかと思いつつ、お金を払って病院をあとにする。別に薬をもらわなくてもと思ったけれど、処方箋をもらっておいて薬を受け取らなかったら面倒なことになるのかもという思いに駆られ、ねんのため薬局で薬も買った。

 その足で上野に出て、ヨドバシカメラの6階まで上がり、ソーダストリームのガスボンベを交換する。そこは炊飯器やレンジ、冷蔵庫などが並んでいるフロアで、お年寄りが店員さんにあれこれ相談している。同じフロアにいるのはお年寄りばかりだった。ついでに買い替えを考えている空気清浄機を物色しておく。実際に現物を前に確かめておきたいのは静音性なのだけれども、家電量販店でそれを確かめるのは当然ながら無理だった。帰り道、「古書ほうろう」に寄ってみたけれど、まだ開店準備中だったのでそのまま通り過ぎる。

 14時過ぎ、キャベツとベーコンのパスタを作る。今日は知人も在宅で仕事をしていたので、少し多めに麺を茹で、少し分ける。夕方になると、今日の新規感染者数が報じられだす。沖縄は相変わらず高い数値だ。そして東京はついに3000人を超えた。先月下旬に、どこかの先生が「年内にオミクロン株の市中感染が発生すれば、2月には東京の新規感染者数は3000人に達する」と予測を出していたけれど、それよりもずっと早く3000人に達してしまった。東京からどこかに出かけるのが大変な時期がまたやってきてしまう、のか。ここからどんな状況になるんだろうかと、過去の新規感染者数の推移をNHKのサイトで振り返る。

 あらためて、去年の夏の数字は異様だなと驚く。毎日こんな数字が出ていたのか。そのわりには、オリンピックが開催されていたせいもあるのだろう、イベントや公演が中止になっていたという印象は残っていない。これは記憶がすでに修正されている可能性もあるけれど。ニュースで流れてくる数字をちらちら眺めながら、献本リストを作る。基本的には面識のある方に「この人には渡しておきたい」という気持ちでリストを作っているのだけれども、きっと営業的には、「この人に献本して、紹介してもらえないかと期待する」ということを考えたほうがよいのだろう。でも、どんなに頭を悩ませても、そういう目論見で本を送ろうと思える相手は浮かんでこなかった。

 日が暮れた頃になって、電話で注文しておいたコーヒー豆を取りにいっていないことを思い出し、散歩に出る。2年前の今日は大阪でトークイベントをはしごしていた。夜の会場に向かい、ワインをデキャンタで注文して客席についたところで電話が鳴った。それは編集者のM山さんからで、そこで坪内さんが亡くなったことを知った。あれもちょうどこれぐらいの時間帯だった気がする。コーヒー豆を買ったあと、スーパーでほっけとシウマイを買って帰る。今日は頭痛も蕁麻疹も出ていない。さて、酒をどうするか。珍しく二日連続で飲まずにいるのだから、もう一日ぐらい様子を見たほうが症状も治まるんじゃないかという気もするけれど、もう飲まない生活を送るつもりかと言われれば、そんなつもりはまるでない。ただ、今日は観たいテレビ番組がひとつもないから、飲んでも楽しくないんじゃないか――と、ああだこうだと考えたけれど、まあ、飲んで様子を観ることに決めて、ビールを飲みながら『ストレンジャーシングス』の続きを観る。知人も思ったよりこのドラマを楽しんでいるようでホッとする。

1月12日

 6時過ぎに目を覚ます。ストレッチをして、ジョギングに出る。不忍池に出たところで引き返すと、デイリーストア近くの路地で、買ったばかりのスポーツ新聞を広げて立ち読みしているお年寄りがいる。そんなに気になる記事が出ていたのだろうか。シャワーを浴びて、おでんの残りを平らげ、『ザ・ファブル』をラストの22巻まで読んだ。面白かった。続編が始まっているらしいので、『ヤンマガ』をまた購読しようか迷うところ。お昼前に近所の八百屋に出かけて、キャベツを買ってくる。肉屋にも立ち寄り、スジ肉があればおでんに入れるんだけどと思って眺めてみたけれど、やはり売っていなかった。昼はキャベツとベーコンのパスタを作って平らげる。

 午後はおでんの仕込みをやりながら、原稿をゆるゆる書く。今年に入ってから、原稿を書くきれがいまいちだ。19時近くになってようやく、どうにかラストまで書き終わり、メールで送信する。19時過ぎ、おでんをツマミに『有吉の壁』を追いかけ再生する。最近はU字工事リバイバルしつつある。知人は飲んでいるけれど、僕は今日も炭酸水にしておく。ポッカレモンを買っておいたので、レモンサワー気分で飲む。『壁』を観終えると、『ストレンジャーシングス』のシーズン1第2話を観る。知人は海外ドラマだと「顔の見分けがつかない」という。それに、「Eファイルみたいなやつ苦手なんよ」と言って、ケータイをいじりながら斜め見しているけれど、ときおり子役のビジュアルについて感想を漏らしている。それを観終えたところで、『水曜日のダウンタウン』を観た。

 眠る前にケータイをいじっていると、「ドキュメンタリー」と「創作」についてのツイートが流れてくる。映像作品にしろ書かれたテキストにしろ、ドキュメントには常に編集が含まれる。だから、まったくの客観的な記録や記述というのは存在しないし、定点カメラで無編集のままだったとしても、そこにカメラを据えた時点で意図が介在している。だから、まったくのフラットなドキュメントはありえないけれど、それをもって「ドキュメンタリーも創作だ」ということには、やはり引っかかる(これは映画監督の言葉に対してというよりも、それを批判した物書きに向けられた再批判に対する違和感として)。僕が書いているノンフィクションも、僕の視点が必ず含まれているし、取捨選択もしているし、編集も加えている。でも、それは「自分が見聞きしたあの時間を完璧にパッケージするにはどうすればよいのか?」という、その一点に拠っている限りに成立するもので、そこで「ドキュメンタリーも創作だ」と言い切ってしまうと、そこから切り離されてしまう気がする。

1月11日

 6時過ぎに目を覚ます。ケータイをぽちぽちいじっていると、無料で漫画が読めるアプリの広告で、『ザ・ファブル』が流れてくる。少し前からときおりタイムラインに表示されていた。僕がまだ『ヤンマガ』を購読していた頃に連載が始まった漫画で、序盤は読んだような記憶があるのだけれど、タイムラインに表示されるそれはほとんどギャグ漫画だ。なんとなく気になってアプリをダウンロードして、読み始めてみたものの、1話の半分がアプリ上の1エピソードになっていて、1エピソード読み終えるたびに「次のエピソードへ」と操作するのが億劫だ。しかも、1日に読めるエピソードはかなり限られている。もう、いっそのことと思い切り、Kindleでまとめ買いする。

 キムチ鍋の残りを少しだけつまんで、さっそく『ザ・ファブル』を読み進める。あっという間にお昼になり、キムチ鍋の残りを雑炊にして平らげる。13巻のラストのエピソードにぐっときたところで読むのを一旦中断する。頭痛と蕁麻疹のこと、念のために検査してもらったほうが安心だなと思い、内科と脳神経外科のある近所のクリニックに電話をかけてみる。2020年の秋にPCR検査をしてもらったことがあり、そのときに診察券を作ってもらっていたのだが、去年の年の瀬に掃除をしたタイミングで「もう診てもらうこともないかもな」と処分してしまっていた(診察券があるとネットから診察予約ができる)。電話をかけて相談すると、名前と生年月日で照合し、診察券の番号を教えてくれる。

 予約は2日前で締め切られるので、明日の枠は予約できないそうだが、「予約なしでも、お待ちいただくことにはなってしまうんですが、お越しいただければ診察させていただきますので」と応対してくれたスタッフの方が言う。どうしよう。今日も時折頭痛がするので、早めに診察してもらったほうがよい気もする。ただ、おそらく、原因は疲れが溜まっているところに酒を飲み過ぎたことだろうなという予感はある。前に蕁麻疹が出たのは、公演に同行してフィレンツェに滞在したときで、あのときは数日アルコールを控えたら蕁麻疹が出なくなった(せっかく海外に滞在しているのに、お酒が飲めないのは悲しかった)。もしも急いで医者にかかる必要があるような病気で頭痛と蕁麻疹が出ているのなら、今頃もう救急車が必要な状況になっているのではという、甘い読みもある。何時間待つかわからないまま病院のロビーにいるのも面倒だからと、明後日の枠を予約しておく。

 機内誌『c』の原稿をぼんやり考えつつ、おでんの仕込みを始める。今日は練り物を控えめに、大根、玉子、厚揚げ、豆腐、つみれ、椎茸、はんぺん、葉野菜(小松菜)。原稿は今日が締め切りだったのに、書き出せないまま夜になってしまう。今日は酒を控えることにして、おでんとツマミに炭酸水を飲んだ。ポッカレモンも買っておけばよかった。前にイタリアで蕁麻疹が出たのは何年前だったのかと、ケータイの写真を遡って確認してみると、2019年の3月だ。もっと昔だと思っていたので、少し動揺する。3年のあいだに2度蕁麻疹が出るというのは、思ったより頻度が高い気がする。今年でもう40になるのだから、節制しながら生きていかないといけないのかもしれないなと漏らすと、「そりゃそうやろ」と知人が言う。

 おでんを食べ終えたあと、緑茶を飲みつつ『ストレンジャー・シングス』の最初のシーズンの第1話を観たのち、リアルタイムで『ファイトソング』を観る。脚本が岡田惠和、主演が清原果耶とあって楽しみにしていたのだけれども、どうにも退屈に感じてしまう。挫折を経験した主人公や、「一発屋」とも揶揄されるミュージシャンに「恋でもしなよ」とけしかけるのも微妙だなと思ってしまうし、俺の才能はもう枯れてしまったのか、と思い悩むミュージシャンの描き方も、演技も、登場人物たちの出会い方も、設定も、凡庸に見える。これは来週以降は観ないかもなあと思いながら、放送時間が残り10分になったあたりで、湯呑みを片づけに台所に行こうと立ち上がったところで、そのまま動けなくなり、画面を凝視していた。

 今日のお昼、いろんな番組に俳優陣が出演して、番宣をおこなっていた。じっくり観ていたわけではないけれど、どの番組でも「三角関係」という形容がなされていて、その説明からするに「あんまり興味ないドラマかもなあ」と思ってしまっていた。でもこれは、三角関係を描いたドラマではなく、『セミオトコ』がそうであったように、同時代に対するメッセージがとても強く打ち出されたドラマだと思う。主人公は空手の全国大会で優勝した帰り道に、事故に遭い、もう空手はできなくなってしまった。それでも涙を流すことなく、なんでもないようにふるまってきた。でも、ある歌に、彼女の感情が溢れ出す。こう書き出してしまうとやはり凡庸にも思えるのだけれども、これは自分ではどうにもならない何かによって、人生のなにかが損なわれてしまったという思いをどこかに抱えて過ごしている人に寄り添うように書かれた物語なのだろう(「凡庸」だとか「退屈」だとか、すぐにそういう言葉を思い浮かべてしまうけれど、それは裏を返せば、遠くまで届きうるということにもなりうる)。ラスト10分に胸を打たれつつも、次回予告になるとまた「恋の行方」的な話ばかりが際立たされていることにげんなりする。『MIU404』のときも、放送開始前に情報番組で番宣が打たれた際に、「バディもの」「スタントなしでアクションに挑戦」みたいな宣伝がなされていて、ああ、そういうドラマなら観なくていいかと判断してしまったことを思い出す。

 自宅で晩酌をしていると、ペース配分というものをほとんど考えずに浴びるように飲んでいることもあり、22時から23時には眠ってしまう。でも、お酒を飲まないとまったく眠くならず、山田風太郎『あと千回の晩飯』をKindleで読んでいた。お酒を飲まずにいると、いつまで経っても意識は明瞭なままだ。

1月10日

 6時過ぎに目を覚ます。「環境音」で検索し、安曇野のせせらぎと鳥の鳴き声を聴きながら、ぼんやり横になって過ごす。ストレッチをして、9時にジョギングに出る。まだ松飾りを飾っている家もある。そういえば、東京でもとんど祭りはあるのだろうか。不忍池を短いルートでまわり、引き返す。年明けから考えている原稿のこと、坪内さんの『東京』と『玉電松原物語』を読み返しながら、ああでもない、こうでもないと考える。東京とはいえ、自分が暮らしていない土地に関わることや、自分とは異なる世代の誰かを含めて何か言おうとすると、こんなふうに筆を振るったときに誰かの何かを損なってしまわないだろうかと、いつにもまして慎重になる。夕方になってどうにかまとめ終えて、メールで送信。

 今日も頭痛と、蕁麻疹が少し出ている。19時、知人の作ったキムチ鍋で晩酌。キムチ鍋の素は甘いからと、素を使わずに作ったらしいのだけれども、ウマイ。「調味料を混ぜ合わせて味を作る」という能力がほとんどないので、ネットのレシピを参考にしたとはいえ、感心する。昨日途中で眠くなり、ストップしていたところから『ドント・ルック・アップ』を再生する。どうしてそのラストの状態になったのか話が繋がらず、一時停止していたところから10分ほど巻き戻して、ようやく話が繋がる。映画を観たあとは、同じくNetflixで『オクトパスの神秘: 海の賢者は語る』を観た。海ってすげえなあ、タコってすごいなあ、こんなにのめり込む人っているんだなあと思いながら眺めていた一方で、知性があるものを擬人化して捉える文化と、思っていたよりかはタコと人間の接触はなかった。

 ビールを2本飲んだあと、知人が買ってきたロゼワインを飲んでいたのだけれども、あまり酒は進まなかった。21時からはリアルタイムでフジテレビの新ドラマ『ミステリと言う勿れ』を観る。フジテレビっぽい質感のドラマだなと思うところもあるけれど、配役が面白い。遠藤憲一伊藤沙莉など、「もちろんストレートな演技もできるけど、コミカルな演技をやらせても達者」という人を、ストレートな演技で起用していて、かえって新鮮に見える。その一方で、ややコミカルなキャラクターを演じる尾上松也は、どこか一皮向けた感じがある。楽しみなドラマだ。リアルタイムで観終えたあと、録画してあった『恋せぬふたり』を再生してみたけれど、こちらは10分で再生を停めた。

1月9日

 7時過ぎに目を覚ます。すぐに新聞をとってきて、新しい読書委員が誰になったのか確認する。こうしてみると、どこかの大学で教えているわけでもなく、なにか賞を受賞したことがあるわけでもない30代半ばのライターに依頼があったというのは異例の事態だったのだなと思う。

 朝から頭痛がする。今日はジョギングはせず、もしかしたら影響があるのかもしれないなとコーヒーも控える。知人から「病院に行きいよ」と言われて少し心許なくなり、ネットで検索してみると、症状から原因を推察できるサイトがある。いちばん関連度が高いものとして出てきたのは緊張型頭痛だ。「長時間のデスクワークや車の運転など不自然な姿勢が続くことで引きおこされる身体的なストレス」と、精神的なストレスが原因で生じるものだという。マッサージやストレッチをしたり、「入浴によって筋肉をリラックスさせるのも有効です」とあり、さっそく風呂に湯を張る。入浴しながら『新潮』の「ブロッコリー・レボリューション」を読む。

(…)きみはフライトのあいだ、これは単なる地理的な移動というのにとどまらない、タイムリープのようだと感じていた。きみの身体には速い乗り物で長距離移動する時ならではのあの、体内に濃度の高いじっとりした疲労が溜まっていく作用が及んでいた、でもそれはその時のきみにとってネガティブな意味合いのみを持つものではなかった、(…)

 僕は移動することに(意識としては)慣れてしまって、身体にかかる負荷を見過ごしてしまっているところがある。自分の身体のことをもう少し意識的にいたわる必要があるのかもしれないなと思う。1時間半ほど浸かり、昼は知人の作るトマト缶とサバ缶のパスタを平らげる。いつもより辛い。午後は日記を書く。コーヒーを飲んでいなくても多少頭痛はするし、少し蕁麻疹も出る。ということは、コーヒーは関係ないのか。19時、昨日のうちにスーパーで買っておいた地鶏の炭火焼きをツマミに晩酌を始める。いくつかバラエティ番組を観たのち、Netflixで『ドント・ルック・アップ』を途中まで観た。