パキスタン航空853便は、出発予定時刻になっても一向に飛び立つ気配を見せなかった。がらがらだった機内に、少しずつ乗客が増えていく。すべての乗客が揃い、飛行機が動き出したのは予定時刻を30分ほど過ぎた頃だった。僕の前に座っていた女性は、飛行機が滑走路を走り出すなりシートを倒した。離陸と着陸のときはシートを倒しては行けないことになっているが、そんなことはお構いなしだ。これから4日間、うまくやっていけるだろうかと不安な気持ちのまま、北京に向けて飛び立つことになった。

 中国を訪れるのは実に15年ぶりのことだ。あの頃はまだ高校生だった。僕の通っていた高校では、修学旅行が2コース用意されていて、好きなほうに参加することができた。1つのコースは北海道で、もう1つが中国だった。北海道はいつでも行けるけど、中国は言葉が通じないから、こういう機会でもなければ行かないだろう。そう思って中国を選んだ。行き先は上海だった。15年前のことだから、もうあまり覚えていないけれど、炒飯ばかり食べさせられたこと、その炒飯がケミカルな味だったこと、それに空港に到着してすぐに見えた外の景色は茶色くモヤがかかっているようだったことだけ覚えている。15年ぶりの中国は、茶色くなかった。飛行機が着陸した瞬間から、あちこちの座席で通話が始まった。この国で法治主義という言葉が生まれたことが不思議に思える(でも、“だから”法治主義という考えが生まれたのだろうとも思う)。

 北京首都国際空港にはターミナルが3つある。僕が到着したのはあまり使われていないターミナルで、人気はなく静まり返っている。ぼんやりしたまま動く歩道に乗って、それに気づいてひやりとする。しばらく前にエスカレーター事故が相次ぎ、中国の人たちがおそるおそるエスカレーターに乗る映像が頭をよぎった。途中で動く歩道から降りて、徒歩で進む。一体どうしてこんなに緊張しているのだろう。入国審査場が見えてくる。「中国公民」と「外国人」とに窓口が分かれている。「人民」ではなく「公民」なのだなと思う。僕が乗っていた便は北京経由でラホールという街に行く便だったせいか――初めて聞く地名だけど、調べるとパキスタンの都市だ――外国人のほうはがらがらで、すぐに入国審査を終えることができた。

 空港を一歩外に出ると、喧騒と煙草の匂いに包まれた。日本語に比べると発音が起伏に富んでいるせいか、ちょっと家鴨の鳴き声のようにも聴こえる。西日が射していて、人が影になって見えた。どんな気温でも対応できるように服を用意してきたけれど、暑いのか涼しいのか、まだよくわからない。エアポート・エクスプレスに乗るべく、地下に降りる。セキュリティ・チェックがあった。自動券売機で切符を買おうとしたのだけれど、中国語でしか表示がなくてさっぱりわからなかった。でも、料金は25元であることは事前に調べてある。ただ、100元札を投入して買おうと試みても、切符は一向に出てこず、しばらく経つと100元札がもどってきてしまう。何度か同じことを繰り返していると、近くにいた中国人が笑顔で話しかけてくれた。でも、せっかく教えてくれているのに、全部中国語だから理解することができなかった。すると今度は、別の窓口を指差してくれる。そこでも切符は買えるようだ。窓口は一つしかなかったけれど、料金は均一だからスムーズに流れて、すぐに電車に乗ることができた。

 18時5分発のエアポート・エクスプレスに乗車する。車内にあるモニターには“パレード”の様子が流れていてぎくりとする。その映像はずっと繰り返し映し出されていた。でも、車内にいる人は映像には見向きもせず、ほとんどの人がスマートフォンをいじっていた。

 30分ほどで終点に到着する。ここからは地下鉄に乗り換えだ。ここでもセキュリティ・チェックがあった。地下鉄に乗るたびチェックを受ける決まりのようだ。自動券売機が5台置されているけれど、そのうち2つは「リチャージ・オンリー」と表示されていて、1つは「コイン・オンリー」とあり、あとの3つは稼働していなかった。窓口には長蛇の列ができている。切符を買うだけで15分も並んだ。地下鉄に乗るたびこれでは溜まらないと思って、30元ぶんのICカードを購入する。しかし、並んでいる中国人は誰一人苛立った様子を見せなかった。これぐらいで苛立っていてはきりがないのだろうか。日本人に比べて悠然と構えているように感じられる。

 地下鉄では運良く座ることができた。向かいの席に座るのは20代後半とおぼしき女性たちだ。会社帰りなのだろう、バッグを膝の上に置き、ずっとスマートフォンに見入っている。フルーツの入ったビニル袋を提げた人もいた。仕事帰りにちょっとくたびれた様子で電車に乗っている姿は、日本と何ら変わることはなかった。妙に身構えてしまっていたことが恥ずかしくなった。世界中皆友達だなんて言うつもりはないけれど、どこの土地にも生活があり、帰り道があり、彼や彼女にも日々の中で何かささやかな楽しみや希望があるのだというごく当たり前のことを思いながら、15分ほど地下鉄に揺られていた。

 ホテルは天安門の少し南にある前門という駅の近くに取っていた。ひとりであちこち観光するつもりでいるから、このあたりに泊まっておけば動きやすいだろうと思ってこの場所を選んだ。前門というのは、紫禁城の南にある正門「正陽門」のことだ。かつては紫禁城には立ち入り制限があったので、北京を訪れた人々が一息つくための商業エリアとして発達したのがこの前門と呼ばれるエリアなのだと『地球の歩き方』に書いてある。前門の駅を降りると、写真撮影をしている人たちをチラホラ見かけた。ホテルまでの道には人が溢れていて、お菓子を売っている店があり、スターバックスがあり、中国茶を売る店が並び、土産物を売る店があって観光地然としている。

 チェックインを済ませて荷物を置くと、すぐにまた街に出た。北京はもうすっかり夜だ。とりあえず腹を満たすことにしよう。趣きと生活感のある路地を選んで歩き、表にテーブルと椅子が並べられた店に入ってみることにする。一人、外で、とジェスチャーで伝えると、店員さんは頷いてくれる。よかった、よかったと表の椅子に座ろうとすると、店員さんは手招きをした。外で食べたいってことは伝わらなかったのだろうか。呼ばれるまま店内に入ってみると、茹でる前の麺と米を手にしていた。どっちが食べたいかと聞いてくれているようだ。僕は麺を指さす。すると今度は小鍋を取り出し、店員さんはそれを指さす。底が黒く焦げている、年季の入った小鍋だ。おそらく「鍋焼きでいいか?」と聞いてくれているのだろう。僕は大きく頷いて、ビールももらって席についた。会計のときにはわざわざ16元を持ってきてくれて、「この金額だ」ということを示してもくれた。言葉は一向に通じないけれど、何も問題なく食事をすることができてホッとする。

 隣のテーブルには白人の若者たちが座っていた。ワン・ダイレクションを歌ったりしてご機嫌だ。すぐ近くには中華料理店があった。そのお店に入っていく客はおらず、暇を持て余した若いウェイトレス2人組が歌声に反応して飛び出してきて、小さな声で「フウ!」と声をあげた。中華料理店には一向にお客さんが入らなかったけれど、2人は楽しそうに表ではしゃいでいる。僕がカメラを向けたのに気づくと、2人は恥ずかしそうに奥に引っ込んだものの、すぐにまた出てきて、モデルみたいにして路地を歩いて見せてくれた。ワン・ダイレクションの若者たちとは反対側には50代くらいの男性2人組が座っていた。テーブルの上には空になったビール瓶が何本も並んでいる。何を言っているのかわからないけれど、さっきからずっと同じフレーズを繰り返している。まだ19時なのにすっかりご機嫌だ。

 周りの様子を眺めているうちに鍋焼き麺が運ばれてきた。もやしと空芯菜と豆腐と魚肉ソーセージとミートボールが入っている。食べ進めると、ぷるぷるしたモツもある。いろんな食材が入っているのに、何の味もしなかった。ビールも薄くて、あまり味を感じない。麺を啜り終えると路地を散策した。ああ楽しい、はあ楽しいと思いながら歩いた。いつまでも散策していたかったけれど、あっという間に大通りに出てしまった。

 地下鉄2号線で東四十条駅に出て、三里屯を目指す。『地球の歩き方』を読むと、「ファッションビル登場で生まれ変わるバーの町」とある。一人で夜の街を散策するのはきっと今日だけになるだろうから、その「バーの町」に足を運んでみようと思ったのだ。駅から三里屯までは少し離れていて、あいだには特にお店もなく暗い道が続く。歩いていると電光掲示板が見えた。「中国人民抗日戦争勝利70周年」の文字が、暗がりの中に何度も表示されていた。20分ほど歩くと、ようやく三里屯にたどり着く。『地球の歩き方』に書かれている通り、三里屯には新しいファッションビルが建ち並んでいて、もう21時近いけれど若者が行き交っている。目抜通りの角にユニクロがあった。ユニクロの前で記念撮影をする若者もいた。なるほど、東京のユニクロが観光客で賑わうわけだ。(→このユニクロの試着室で撮影されたとおぼしき性行為の動画がアップされ話題となり、それでここが観光名所のようになっているのだと、国際交流基金の呉さんがあとで教えてくれた)。しばらく街角に佇んで、街を行き交う若者たちの姿を眺めていた。

 30分ほど経ったところで、いよいよバーに行ってみることにする。こじんまりしたバーが建ち並んでいるのだろうか。若者なら英語を話せる人もいるだろうから、できたらちょっと会話をしてみたいところだ。今、中国の若者は何を考えているのだろう。そんなことを話したり、若い人はどんな酒を飲むことが多いのかを聞いて、それ注文したりしてみよう――そんなことを想像しながらやってきたものの、「バーストリート」と地図に書かれたエリアに近づくと派手なネオンと重低音が聴こえてくる。僕がイメージしていたバーとは違っていて、生演奏を披露するパブが連なっていた。なんだ、こういうのかと思いながらも、せっかくだからそのうちの1軒を選んで入ってみることにした。

 表に立つ客引きの男性に「ビールはいくらか」と訊ねると、80元だという。まだこっちの金銭感覚に慣れてなくて、「80」という数字から安く感じてしまったけれど、今考えると1600円とかなり割高だ。あまりお客さんはおらず、少しうら寂しい雰囲気だが、ビートの効いたロックが演奏されている。ステージの目の前には男女半々のグループがいた。男性と女性ときっちり別れて座っている。テーブルの上にはビール瓶やカクテルグラスが並んでいた。お酒も入っていて、目の前でライブが行われているのに、皆じっとしたまま過ごしている。俯いてスマートフォンを見ている人もいる。別に音楽に合わせて体を動かすことだけが演奏を楽しむってことではないのはわかっているけれど、それにしても、どうしてわざわざ安くもないこの店にいるのかと心配になるほど静かだ。屈強そうな店員さんだけが客を立ち上がって手拍子を続けていてシュールだ。

 ビールを1杯飲み終えたところで、隣の店に河岸を変えてみる。同じように入り口で値段を確認すると、こちらは40元だ。がらんとした店の中で、女性のシンガーが「ラブ・イズ・オーヴァー」を歌っている。僕はステージから2つめのテーブルに案内された。ステージの目の前には露出の多い女性が2人座っていて、気怠そうに過ごしている。机の上にはいくつもの化粧品が並んでいた。15分ほどでライブが終わると、2人のうちの1人がおもむろに立ち上がる。はあ、とため息をつき、舞台袖にあるジャックをスマートフォンに差し込んで爆音で音楽を流し始めた。彼女たちはポールダンサーだった。1曲終わると、今度はもう1人がポールダンスを披露して、皇太后たいに踊る。真ん中あたりの席にはおじさんが座っているが、食い入るようにダンスを見るというわけでもなく、ソファにもたれかかったままチビチビとビールを呷っている。ステージから一番遠くにある席には男女のグループが陣取っていて、ライブにもポールダンスにも目をくれず騒いでいた。ポールダンサーの女性たちも、特に客席を意識するふうでもなく、ときどきお互いに目を合わせて笑うだけで、気怠そうに踊っていた。気怠さを眺めながら僕はビールを飲んだ。ポールダンスを踊っている姿よりも、またライブの時間になってスマートフォンをいじっている姿のほうが印象的で、目が離せなかった。

 店内にはテレビが設置されていた。ふと、画面の中で日の丸がはためいているのが目に留まった。中国語で表示された字幕を眺めていると、「日本侵略者」という文字を見つけた。「紀念抗戦勝利70周年」という文字も見えた。ノートを取り出してメモを取っていると、給仕係の男性が近づいてきてノートを覗き込んだ。彼はずっと気さくに接客してくれていて、僕のミミズの這ったようなメモを見て、「これは日本語か?」と訊ねてきた。いや、漢字だと伝えると、不思議そうな顔をする。僕がその文字を綺麗に書き直すと、店員さんはバツの悪そうな顔をした。

 ビールを4杯飲んで店を出た。もう終電はなくなっていた。でも、タクシー代は日本よりずっと安いから平気だろうと思っていたら、流しのタクシーを捕まえることができなかった。手を挙げると停まってはくれるのだけれども、行き先を書いたメモを見せると「とんでもない」といった表情で走り去ってゆく。5台続けて断られた。一体どういうことだろう。6キロほど離れてはいるけれど、なぜ乗車拒否されるのだろう。6台目のタクシーにも断られそうになった。これはもう埒があかないと思って、100元札を差し出してみると、途端に運転手は笑顔になってクルマを走らせてくれた。大通りではところどころに交通規制がかかっていて、あちこちで柵の撤去作業が行われていた。しばらく走ったところで、がらんとした風景の中に突如として巨大な建物が見えた。赤く塗られたその門には、毛沢東の肖像が掲げられていた。