朝4時に目が覚めてしまう。花粉が飛んでいる気配がする。知人を起こして寝る姿勢を変えさせて、テーブルを出す。そのうちこんなふうに介護する日がくるのだろうか。メドがつくまで『S!』誌の構成を進めておいて、6時過ぎに二度寝。10時に再び起き出して原稿を完成させて、なんとか午前中のうちに送信することができた。

 昼ごはんにトーストを食べて、入浴。チビチビ読み進めてきた植本一子『かなわない』(タバブックス)を読み終える。2011年4月からの日記と散文で構成されている。日記を読むのは好きなのだけど、2012年のあたりで読み進めるスピードが落ちてしまって、読み終えるまで時間がかかった。それは「読み進める気になれなかった」ということではなく、日記を読んでいると、その人に同調するというのとは違うと思うけれど、その日記に滲むトーンが伝わってくる。

 2012年は二人の娘と私、狭い世界に凝縮されてゆく。読み返してみるとあちこち出かけているのだが、その狭い世界が全体を覆っているように感じられる。たとえば、5月5日の日記(と書いていて気づいたがこどもの日だ)。

 (…)自分のことをやろうとするから苛々する、というのはもちろん分かるし、もう諦めているけど、娘達をシャワーに入れたり、ご飯を食べさせたりというのは結局やらなければいけない。ご飯を食べさせずに放っておく訳にもいかず、出来ないことに結局苛々してしまう。簡単におにぎりを作って食べさせ、適当にさせておく。おむつもはかないし服も着ない。なるべく怒りたくない。でももう溜まりにたまったものが爆発してしまい、「もうお母さんはお母さんをやめる!」と本気で言い放ってしまう。そんなこと出来る訳もないのに、家から出て行くそぶりをする。(…)お母さんがいなくなるなんて、そんな恐怖心を植え付けてまで、自分の言いなりにしようとしていることに気づき、そんな自分を恐ろしく感じる。

 『かなわない』を読んでいてハッとしたのは、自分は「母」という存在を誤解していたのではないかということだ。というよりも、僕は「母」ということについて、うまく考えることができずにいる。30過ぎて何を言っているのだと言われるかもしれないが、たぶん僕は、女性は出産を境に母になるのだとどこかで思っていた気がする。出産を気に女性は変わるのだという話を何度となく聞いたことがあるし、実際に変わる人もいる。しかし、それは本当だろうか。母という役がのっかっただけで、その人はその人であるのでないか。

 結婚すれば、好きな人は出来ないし、出来てはいけない、そう思っていた。私は誰かのものになって安心したかった。自分が生きている理由をくれるのが恋愛であり結婚であり、家族であると思っていた。でもそれは間違っていたし、正解でもあった。人と人は出会い、変わらない気持ちは無い。私は誰の所有物でも無いし、誰かを所有することも出来ない。
 自分の産んだ子どもでさえそう。(p.199「放棄しない」)

 読み進めていくうちに、先日観た植本一子写真展『オーマイドーター』のことが思い浮かんだ。そこに展示されている写真を観ているとき、そこに写っているのが実際の娘であるということに最初のうちは気づかず、途中で「あ、実の娘なのかこれは」と気づいたのだ。植本さんの文章を読んでいるうちに、理由がわかったような気がする。子どもを写した写真の多くは、親の愛情で溢れている。そこでは親と子の関係は安定していて、親は「親」という役割にすっぽり入り込んでいる。

 でも、「私は放棄しない」という言葉にあるように、植本一子は「親」という役割からではなく、植本一子として写真を撮っている。それは別に、愛情が欠落しているだとか、そういうことではない。「私」は「私」であり、「子」は「子」である――そうした場所から撮っているからこそ、それが実の娘であることに気づかなかったのではないか。

 2012年の日記が読み進められなかったのに対して、2013年に入ると堰を切ったように読み進めることができた。日記の「私」も、羽が生えたように飛び回っている。たとえば、3月17日。

 (…)石田さんが夕方早くに仕事から帰ってきたので、これからライブに行っていいか聞いてみる。いいよ、と言ってくれたものの、場所が浦和だと知ると「そんなに遠くまで見に行く必要ないでしょう」と言う。ライブ行き過ぎだよ、とも。それにどう返したかはもう覚えていないが、今も思い出すと、こう、もやもやとしてくる。思い出すのだ、実家にいた頃の気持ちを。実家は電車の最寄り駅から車で15分かかる田舎だったので、どこへ行くにも親の足を借りるしかなかった。(…)出掛けたい時に自分だけで動けない、不自由だった。誰にも鑑賞されず、好きな様に動きたかった。未成年なんだからそうもいかないのは分かっていたが、18で東京に出て来てからの、自分で動ける自由さが、嬉しくてたまらなかった。入学した専門学校も、自由気ままに行っていたら、すぐに出席日数が足らなくなった。

 この気持ちは、とてもよくわかる。というのは、この「最寄り駅」というのは僕の実家の最寄り駅でもあるからだ。あとがきに出てくるラジオの話も印象的だ。「私は田んぼと山に囲まれた田舎で育ち、近所に家は数件だった。そして夜中はラジオを聞いていた。そのラジオが生放送だと嬉しかった。自分と同じ様に今起きている人が、この世界のどこかにいる、と思う。誰かの声はいつでも寂しさを紛らわせてくれた」――その言葉に、自分も実家にいた頃はラジオを聞いていたんだっけと思い出す。盆地のせいかAMは受信できず、FMばかり聴いていた。最近またラジオを聴くようになったのだが、今の自分は何を求めて聴いているのだろう。

 それにしても、この本を読んでいるとそれこそ「かなわない」という気持ちに何度もなった。日記に綴られている言葉はあまりにも無防備で、自分を飾ることのない、率直な言葉だ。僕もこうして日記を書いているが、ここまで率直に綴ることが出来ているかと言えば、答えはノーだ。自分には圧倒的に覚悟が足りないと思う。日記にせよ写真にせよ、どうしてそんなに残そうとするのか。

 夜寝る前に、今年はもう日記を更新しないなら、今日のあれもこれも書かなくても済むのかと思い、なんだかホッとした。それと同時に、書かなければ何も残らずに、全ていつか忘れてしまうのだろうかとも思った。
 私はやっぱり、今年も書くかもしれない。そして書くことで誰かを、母を、傷つけるかもしれない。親不孝者がいる、ここに。(2013年1月1日)


 書くこと、撮ること。記録するということは、時に誰かの感情と衝突することもある。『かなわない』の中には、祖父の葬式の話が登場する。

 どうしてこんな時にまで写真を撮るのでしょうか。おくりびと、と呼ばれる業者の人たちがやってきて、おじいちゃんの体をきれいにするとなった時、母は「あんたはカメラマンの端くれじゃろ、これをちゃんと撮っときんさい」と背中を押してくれました。私が写真を撮るのを躊躇っていたのが、母にはお見通しだったのでしょう。東京からはきっちりカメラとフィルムを持って来ていました。それでも葬儀の最後におじいちゃんに花を手向ける、という時に、とうとう父が小さな声で「撮るのやめい」と言ったのです。私は一瞬戸惑って、そして聞こえないふりをしました。(p.143「理由」)

 僕には覚悟が足りないと思う。

 本を読み終えたところで17時、知人からメールがあり、今夜は遅くなりそうだという。今日は休肝日にするつもりだったので、アパートで知人と一緒に晩ごはんを食べるつもりだった。飲みに出かけないとなると、他にやることも浮かばない。出かけるのも億劫なので、本を読んで過ごす。続けて読んだのは中崎タツヤ『もたない男』(新潮文庫)。こないだトークイベントで話に出て、何となく今更ながら読んだのだけど、『かなわない』にも『もたない男』にも「依存」という言葉が出てくることにハッとする。

 帯には「人気漫画『じみへん』作者の捨てすぎる生活とは――。」とある。著者はとにかくモノを捨ててゆく。モノを捨てる、と聞いて浮かぶのは断捨離だ。著者は「断捨離」という考え方に出会ったことで捨てる生活を送り始めたわけではないのだが、断捨離に対する言及もある。

 この間、「断捨離」をすすめている方がテレビに出演しているのをみていたら、一番捨てにくいものは思い出の品、みたいなことをいっていました。
 誰かとの思い出があるものは一番捨てにくいそうなんです。
 私の場合も、いまから考えてみると、捨てる捨てないのターニングポイントになったのは、母親からの手紙にあると思うんです。
 上京して一人暮らしをしているときに、母親からもらった手紙をなかなか捨てられませんでした。それを思い切って捨ててしまったことで、それほどこだわりがなく、ものを捨てられるようになった気がするんです。

 漫画家になろうと志して23歳で上京したものの、食べるだけで精一杯だった「私」にとって、母からの手紙はプレッシャーになっていた。「私が母親の手紙を捨てられないのは、ある意味、他人に依存していると思うんです」。「ですから、手紙を捨てて、心が晴れたような気分になったことは憶えています」。

 著者は「ものを捨てることは、私にとって主義でも美学でもありません」「スッキリしたいだけなんだと思うんです」と書いている。本には仕事場の写真も掲載されているが、ほとんどそのまま物件案内に使用できそうなほどモノがない部屋だ。読んでいると、インクの減ったボールペンを削って短くするという話まで登場する。そこまでするのは、過剰な欲求の一つだと言える。一方で「買い物が好き」と書かれており、買っては捨て、また買い戻すなんてことを繰り返してもいる。自分の欲求はどこにあるのか、何をどう感じているのか――実験を繰り返しているかのようだ。

 すべてを残そうとすることと、すべてを捨てようとすること。それは表裏一体のもので、いずれにしても一つの欲求である。自分は一つ一つに何を感じているのか、もっと突き詰めなければ。そんな気持ちになる一日だった。