9時に起きてジョギングに出る。走りながら聴いていたのは、録音してある前々回の「オードリーのオールナイトニッポン」(11月12日オンエア)だ。若林が春日とカズレーザーを比べてトークをしていくなかで、「悔しいだろ? カズレーザーは赤い衣装でプライベートも過ごしてるけど、お前なんかグレーのスウェットを頭からかぶって、マスクして帽子かぶって、くやしいだろ?」と話を振ると、春日が「悔しいねえ。覚悟の量が違う」と答えている。走りながら笑ってしまった。春日のフリートークが面白かった。出入国カードに春日は「エンターテイナー」と、若林は漢字で「漫才師」と書いているとのこと。

 12時、袋麺のラ王(醤油)を食す。午後はフライヤーのデザインを練って過ごす。18時、冷凍の枝豆を温めて晩酌を始める。知人が「鍋が食べたい」というので食材を買いに出かけ、知人が帰ってくる時間に合わせて作っておく。20時、帰ってきた知人と一緒に鍋を食べ始める。腹が一杯になったところで、ふとケータイに目をやると着信履歴が残っている。そこに表示されていたのはMさんの名前だ。「この人から連絡があればいつでも飲みに行かなければ」という相手が何人かいるが、Mさんはそのひとりだ。かけ直してみても繋がらなかったが、22時半になって再び着信がある。「ちょっと飲もうかと思って電話したんやけど」と言われたので、じゃあ今すぐ支度をして出かけますと伝えて電話を切る。

 30分後に約束の店に到着すると、Mさんは芋焼酎のお湯割を飲んでいた。僕も同じものを注文し、乾杯する。この数ヶ月、何度か連絡をもらっていたけれど、ちょうど実家に帰っていたり、海外に出かけていたりして誘いに答えられなかったことをまずは詫びる。海外の土産話をいくつかした。その一つは(今日発売の『CULTURE Blos.』から急遽原稿依頼されて執筆した)「パリのケバブ」の話だ。旅日記にも詳細を記してあるが、酔っ払ってケバブを購入したものの、ホテルに帰っている途中で難民の家族と遭遇し、僕はケバブを渡すことにしたのである。焼酎を飲みながら僕の話を聞いていたMさんは、「懐かしのケバブ――それはあげてよかったと思う」と言ってくれた。「それは施しじゃないよ。ワインのボトルがあって、そのおやっさんと飲めばもっとよかったと思うけど」と。

 もう一つの土産話は、いくつかの飲み屋で外国人観光客として冷たくあしらわれた話だ。冷たくあしらわれたときに、大阪で韓国人観光客が“わさびテロ”を受けた話や、思い出横丁のいくつかの店は外国人観光客を拒絶していることを思い出したのである。「まあ、外国人かどうかはともかく、この近くにある店――昔からやりよる常連客ばかりの店――でも、冷たくあしらわれることはあるよ」とMさんは言う。「でも、思い出横丁はもともとしょんべん横丁だから、ことごとくまずいんだ。『ここのメシがうまいけん、通ってるんだよね』って人がおるかっていう話だ。雰囲気だ、雰囲気。もちろん『ここの煮込みが好きで昔から通ってる』って人もおるのかもしれんけど、大体の人はあそこの雰囲気に惹かれて迷い込むんだと思うけどね。それは、外国人の人だってくるだろうよ」。

 僕が通っている思い出横丁の店は、なかなかウマイものが食える店ではあるけれど、やはり「あの雰囲気の中で飲みたい」という気持ちが強くある。そこで思い出すのは、昨日向井秀徳特集を観るべく訪れた多摩センターという街のことだ。しょぼくれた酒場で飲みたくなって探し回ったが、ビルの中に入っているチェーンの店しか見当たらなかった。もし自分がこの街に住んでいたら、どこにも居場所を見つけることができないのではないか――街を徘徊しながらそんなことを考えていたことを思い出す。

 「年を重ねるごとに、居場所はなくなるだろうよ」とMさんは言う。「最近、電動アシスト付きの自転車を手に入れたから、銭湯に入りに結構な範囲を移動するようになったけど、駅前にはチェーンの店しかないわけよ。それは別に、じいさんがやってた馴染みの店がなくなる寂しさとかじゃなくて、どんどん合理的になっていく感じがする。それを目の当たりにしていると、どんどん自分の居場所がなくなっていくと感じてしまう。コンビニでじいさんがビールを買うときに、店員に『タッチパネルを押してください』と言われるわけだ。そこで『何で押さなきゃいけないんだ』と声を荒げたりね。俺は時間がもったいないから荒げないけども、その気持ちはわかる。これからじいさんばあさんがほとんどの世の中になるけども、皆同じように居場所がなくなるわけだ」

 1時間半ほど飲んだところで、テキーラのロックに切り替える。この店はテキーラがうまいのだという。テキーラなんてショットで煽る酒だという印象しかなかったけれど、飲んでみるとたしかにうまかった。チビチビ飲みながら、Mさんは殿山泰司の話をした。殿山泰司のエッセイも面白いし、『JAMJAM日記』を読んでいるとかなりディープなライブに行っていて、その感想を書いた箇所がまたいいのだ、と。3杯目のテキーラが運ばれてきたあたりで、「子どもは作らんのか」とMさんは僕に訊ねた。僕があーとかうーとかモゴモゴ言っていると、「色々頭で考えとるんやろうけども、そんなもん、作ればいいのよ。昔からずーっとそうやって繰り返されてきたわけだ、それこそ」と。

 僕はMさんの音楽だ好きだ。好きだと言うほかないけれど、好きという言葉では収まらないほど好きである。でも、その音楽を聴き続けて10年が経とうとする頃になって、ふと気づいたことがある。それは、「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」というフレーズのことを、僕はどこまで理解しているのだろうかということだ。「よみがえる性的衝動」という言葉とまったくもって無縁の生活を送り続けている僕は、果たして彼の音楽をどこまで理解していると言えるのだろう。

 テキーラを3杯飲んだところで店を出た。時刻は深夜3時になろうとしている。タクシーが拾えそうな場所まで、一緒に歩くことになる。Mさんは店の前に止めておいた自転車を引いて歩いている。その後ろを、僕は随いてゆく。すっかり酔っ払って小躍りしながら歩いていると、Mさんがそれに気づき、「何や、踊っとるんか」と振り返る。再び前を向いて歩きながら、Mさんはチャルメラのメロディを口ずさみ始めた。次第に興がのってきたのか、今度は自転車に急ブレーキをかけたり、ガードレールに軽くぶつけたり、自転車を楽器のように鳴らし始める。僕も楽しくなってきて、タクシーを拾うという目的を忘れ、しばらく路上で踊っていた。