11時過ぎ、知人と一緒にアパートを出た。まずは新宿へ行き、高野フルーツパーラーを覗く。びっくりするような値段なのですぐに伊勢丹に移動し、種無しぶどうを買った。これから観に行く公演の差し入れだ。買い物を終えると、「王ろじ」でとん丼でも食べるつもりだったのだが大行列、少し迷って「ライオン」に入る。ビールを中ジョッキで頼んで、 国産鶏のチキン唐揚げとポテトとソーセージのガーリック炒めをツマミに飲んだ。1杯だけお代わりをしたところで店を出て、小走りで副都心線に乗り込み、 KAATの大スタジオへ。昨日から『ルーツ』という舞台が上演されている。松井周が脚本を担当し、杉原邦生が演出と美術を担当した舞台だ。快快のこーじさんも、それにあゆみさんやはせぴも出ているということで、差し入れの名義は知人と僕の連名にしてもらった。

 会場に入ると、レディーガガが流れている。「何でガガ様が流れよん」と訊ねてみると、「くにおチョイスやけやろ」と知人は言う。さっきはジャスティン・ティンバーレイクが流れていたとのこと。14時過ぎ、幕が上がる。この作品のあらすじは、こう説明されている。

 山の中にある、鳴瀬という小さな集落に、一人の男がやってくる。その男は古細菌という微生物の研究者で、鳴瀬鉱山という廃鉱を訪ねに来たという。しかし、鳴瀬の住民たちは彼を素直に歓迎するわけにはいかない。何故なら、鳴瀬鉱山では五十年前に鉱毒事件が発生し、住民たちはそれから「地図にない村」の一員としてひっそりと暮らしてきたからだ。研究者の男は、鳴瀬に滞在することを決める。彼は住民たちと生活を共にしながら、鳴瀬の隠された部分にまで足を踏み入れることになる。

 しかし、舞台を観ていると、突然現れた研究者を名乗る男に対して、鳴瀬の住民たちは案外素直に彼を受け入れている。実際の田舎は――というよりも「地図にない村」は――もっと圧倒的なまでに排他的だろう。何より不思議なのは、「地図にない村」に暮らしている人たちが普通に通勤し通学しているということだ。研究者の男は男で、古細菌が目当てでやってきたわりに(まずは住民に馴染まなければ廃鉱に立ち入ることもできないという問題があるのせよ)研究を進めるために手はずを整えると言った様子もなく、のんびり生活しているのが不思議だ。ただ、そんなことは自分が田舎出身だから引っかかってしまう些細なことであり、それによって作品がつまらないということではまったくなかった。

 研究者の男は村に馴染み、祭りにまで参加する。カッパ祭り(という名前だったかは定かではないが)で優勝し、今年の「カッパ男」にも選ばれる。皆がその泳ぎを褒め称えているところで、ある女性が語り出す。「鳴瀬にはカッパの神と熊の神がいるんですけど、ますます熊の神の立場がなくなります。私は昔みたいに、カッパの神と熊の神に仲良くして欲しいから」。村人たちは、研究者の男が今年のカッパ男になったのだから、(去年のカッパ男だった)斎藤という男には熊男をやってもらえばいいのではないかと言う。すると、話を聞いていた老女は「ダメだ」と怒り出す。「熊の神の使いは女って決まってるんだ。カッパ男に熊女、そのあいだに入るのが人神ちゃま、男でも女でもねえよ」――しばらく黙って話を聴いていた研究者は、人神ちゃまはどこにいるのかと尋ねる。女は胸を抑え、「皆のここに宿っているんです」と答える。この“人神ちゃま」というのが物語の鍵を握る存在だ。

 ところでこの作品には、冒頭から一人だけ謎のキャラクターが存在している。真っ赤な服を着た大きなペットボトルを持って歩く男は、たしかに舞台上に存在しているのだけれども、誰からも認識されることなく過ごしている。いや、正確には、研究者の男だけはその男に気づき、「今、誰かいませんでした?」と問いかけるのだが、村人たちは「いや?」と不思議そうに答えるばかりだ。真っ赤な服を着た男は、こんなことを口にする。ああ、眠い。眠いなあ。これは、僕の心の声。だから、誰にも聴こえないはず。僕は、空気だ。空気にも言葉はある。空気にも心がある」。誰にも気づかれることなく、それこそ空気のように過ごしていた男だが、舞台が中盤にさしかかると、ある女性――彼女は鳴瀬生まれではなく、外から逃げ込んできた――が、突如として真っ赤な男に声をかける。彼女はもうこの村を出ていくと決めていて、最後に君のことを見てもいいかと尋ねる。最初のうちはその姿をうまく捉えることができなかったが、段々見えるようになってくる。ずっと誰からも見られないで生きてきて、寂しくないのかと女は訊ねる。鳴瀬で死んで行った人たちと同じだよ、と男は答える。「鳴瀬で死んでった人たちを忘れないように僕がいる。僕は神ちゃまなんだ。神ちゃまは人間じゃない。鳴瀬の象徴で、過去で、未来なんだ」。つまり、赤い服の男こそが「神ちゃま」だったのである。

 研究者の男も、ふとしたことをきっかけに「神ちゃま」の存在に――いや鳴瀬に伝わる「神ちゃま」という風習の実態に――気づくことになる。ある日、生まれたばかりの赤ん坊が行方不明になる。その子は、行方不明になったのではなく、次の「神ちゃま」として育てるために一度さらわれたのだ。そして、しばらく経つと次期「神ちゃま」として帰ってきて、生みの親の子としてではなく、村の子として育てられることになる(しかも、父親は村の男の誰かの子だというのがまたエグさを増す。夜這いという風習も少し思い出す)。村の男は言う。「人間であって人間でない、だから誰からも見えない。そういうことになってるの」と。そんなのは人権侵害だと研究者は反論するが、「そうかもしれないけど、それが普通だからなあ」と言われてしまう。この村の異様さからは、様々なものが想起される。物語の通りに、閉鎖的な田舎の村の姿としてこれを観ることもできる。生まれてまもない子どもが「人間であって人間でない」神として生きることを強いられるということからは、天皇という存在も思い浮かぶ(天皇もまた御簾の向こうにいる、見ることが許されない存在だった)。あるいは、「そういうことになってるの」という因習からは、イスラム世界のことも思い浮かべることができる。ここに描かれているのは日本の村の姿であり、日本という国の姿でもあり、今の世界が抱える困難でもある。

 この作品には何人ものキャラクターが登場しており、いくつかの流れが存在する。ここまで触れてこなかったが、その一つというのは、はせぴ(長谷川洋子)が演じるキャラクターに関するものだ。彼女はおそらくまだ学生だけれども、鳴瀬からの家出を企てている。ある晩、彼氏とおぼしき男と落ち合って話をする。彼女はもう、今すぐ駆け落ちするほどの心づもりでFILAのバッグ(このあたりのアイテムのチョイスが何とも言えない気持ちにさせる)を抱えているのに、男のほうはそこまでの覚悟はまだ持っておらず、「急ぎすぎだよ」と諌めようとする。しかし彼女は譲らず、「急がないと、いつか鳴瀬に飲み込まれそうなんだもん」と言う。それでも男は煮え切らなかった。また別のシーンで、「俺はそうじゃないって前提で聴いて欲しいんだけど」と男は語り出す。「うちの親は古い人間だから、お前が鳴瀬出身だってことを気にしてるんだ」と。その言葉に、彼女は打ち砕かれてしまう。「ともくんに言われたら、それはもう呪いだよ」と。これは観客として忖度すべき話ではないかもしれないけれど、この台詞を言っているはせぴが福島県出身だということも、どうしても考えてしまう。

 こうした世界を突きつけられた観客としては、一体どうやってこの物語に幕を閉じることができるのだろうかと、途中からはずっとそのことを考えていた。すると、研究者の男は、まだ幼い神ちゃまを奪って逃げ出す。村人たちが追いかけていくと、そこに突然熊があらわれ、村人たちは逃げ出してしまう。しかし、その熊は本物ではなく、(研究者にささやかな好意を寄せていた)女が着ぐるみを着ているのだった。私がこうしているあいだに逃げてと言われ、研究者は逃げていく。女はがおーーー、と雄叫びを挙げ続ける。銃声が響く。誰が撃ったのかはわからないが、村人の誰かが本物の熊と勘違いし、彼女を撃ってしまったのだった――と、物語は終わってゆく。このラストに(雄叫びを挙げる女性の役を演じているのがあゆみさんだということを含めて)かなりびっくりしてしまって、あっけに取られてしばらく席を立つことができなかった。知人がこーじさんに挨拶をしてから帰るというので、終演後はしばらくロビーで過ごした。そこであゆみさんやはせぴとも少し話すことができたけれど、この劇の感想として色々話したいと思っていたことはあるはずなのに、ラストのインパクトから「びっくりしました」としか話すことができなかった。嬉しかったのは、あゆみさんが誕生日プレゼントをくれたこと。包みの中にはビールとナッツが入っていた。大事に飲みます、とお礼を言って劇場を出た。思えばそれが今年もらった唯一の誕生日プレゼントだ。

 外はもう日が暮れていた。KAATで芝居を観たあとは、いつも決まって「山東」で水餃子を食べている。今日も「山東」に入ってみたのだけれども、かなり混み合っているせいで「注文ハ最初ニマトメテ言ッテ、後カラ言ワレテモ出セナイヨ」と言われてしまう。じゃあ何を注文しようかとしばらくメニューを眺めていたけれど、考えているうちに腹が立ってくる。この店が繁盛していて、客が好き勝手に頼んでいたら面倒だというのはよくわかっている。たまにAというメニューを頼もうとしてもBにしろと言われることもある。そのくらいのことはこれまで受け入れてきた。しかし、食事だけの客ならともかく、こっちは酒を飲みにきたのだ。それを「最初にまとめて注文しろ」というのはいくらなんでも酷過ぎるだろう。結局、何も注文せずに席を立ち、帰ることに決めた。それに気づいたベテランの店員さん――注文を取りにきた人ではない――が「どうしました」と慌てて寄ってきたので、「さっき、『最初にまとめて注文しないとダメだ』と言われたんですけど、そんなふうには注文できないので帰ります」と伝える。その店員さんはそんなことないよ、大丈夫ですよと言ってくれたけれど、座り直す気分にはなれなかった。すぐ近くにある、悪魔のしるしの打ち上げできたことがあるという店に入り直す。こちらは空いているし、丁寧に接客してくれる。良い店じゃないか。気分が良くなり、四川麻婆豆腐をはじめとしてじゃんじゃか注文したせいで、会計は1万円を超えてしまった。