8月14日

 7時過ぎに目を覚ます。つけっぱなしになっていたテレビが、おぎやはぎ小木博明にガンが見つかったと速報を流し、思わず「え!」と大声を挙げてしまう。7月後半から、ラジオ『おぎやはぎのめがねびいき』は矢作ひとりがパーソナリティを務め、ゲストを迎えて放送していた(普段は聴かない番組だけど、ぼくが毎週ラジオを聴いているハライチのふたりが小木のかわりにゲスト出演していたと知り、偶然聴いた)。ラジオでは「小木は偏頭痛の治療と、早めの夏休みで休んでいる」と説明がなされていた。もしかしたら、すでにガンが発覚していて休演していたのかと連想したけれど、そういうわけではなく、偏頭痛の治療のために精密に検査をするなかで、ガンが発覚したのだという。ぼんやりした気持ちのまま、プランクをやる。昨晩お酒を飲んでいるとき、何気なく腹を触ると肉が結構なボリュームで掴めることに気づき、これはいかんと思い立ったのである。1分4秒で力尽きる。

 明日は企画「R」で人に会うので、伸びていた髭をバリカンで刈り込んでおく。洗面台で髭を刈ると飛び散るので、風呂場に移動する。刈り終えたところでシャワーを浴び、洗濯機をまわす。数日前にドラッグストアで買った、物干し竿に洗濯物を留めるクリップ、物干し竿にくっつけておく。そのタイプのクリップはすでに4個くらい持っていたし、うちにある物干し竿はハンガーを通すための穴(?)もある。ただ、洗濯物が多い日にはその穴だけでは干しきれず、物干し竿のはじっこに(風で土佐バレないように)クリップで留めて干していた。ただ、4個のクリップでは足りない日も多く、洗ったものの干せないときもあった。それをようやっと買い足したのだが、洗濯物を干すのが格段に楽になった。「楽になった」といっても、今日はそんなに洗濯物が溜まっていたわけでもないので、クリップの出番はなかったのだが、今日からは「この量だと干しきれないかも」と気にかける必要がないというだけで、ずいぶん気が楽になったのだ。目からうろことはこんなときに使う言葉なのだろう。ぼくは普段、自分の生活をよりよくしようと思うことが滅多にない。引っ越したときの状態を「これが標準だ」と思って、その状態のまま暮らし続けている。「ここがちょっと不便だな」とうっすら感じていたとしても、「それを改善しよう」という発想につながることが滅多にないのだ。これは生活のいろんな場面に通じることで、たとえばラーメン屋でラーメンを食べるときに、コショーを振ることすらなく、出てきた味を「こういうものだ」とそのまま受け取る。そこに「自分好みの味に整えよう」という発想が介在することがないのである。それが、クリップを買ってみただけで、「自分の生活を改良することができるんだ」と今更ながら思い立つ。今の生活に、もっとどこか不便に感じているところがあるのではないか。部屋を眺めまわし、あ、米櫃、と思い立つ。今、うちの米は冷蔵庫の野菜室に保存されている。知人が「米は生鮮食品だから」と言い張るので、販売されている袋のまま、口をクリップで留めて冷蔵庫に保存している。ただ、米の袋には小さな穴が空いているので、野菜室に入れた他の野菜のにおいが移るのではと、ずっと気にかかっていた。冷蔵庫に入れられるタイプの米櫃を探してみると、Amazonでいくつかヒットしたので、サイズを計ったのち、注文する。注文した上で、やっぱり冷蔵庫ではなく、シンクの下に置いた方がいいのではと、シンクの下を整理する。しばらく前に買いだめしていたレトルトカレーが3個並んでいるのが目に留まり、昼はカレーライスを平らげる。

 午後は『AMKR手帖』に向けて読書。知人は15時過ぎには帰ってくる。19時、知人に回鍋肉を作ってもらって晩酌。ビールを飲みながらケータイをぽちぽちやっていると、一昨日の日記で触れた「北沢書店」の記事は2年前のものだったと知る。そうとも知らずにつらつら書いたのは馬鹿だった。しかし、その2年前の記事がきっかけで「北沢書店」に批判が殺到したと知り、なんとも言えない気持ちになる。「ディスプレイ化する本」「やはり内容に接してほしい」といったツイートだけでなく、「後継娘さんがこんなに無教養だと笑っちゃう」というツイートまで見かける。「後継娘」という物言いは、いやなものを見たなという感じがする。そういう女性蔑視や個人攻撃は論外だとしても、「本という文化が」云々というツイートは、やっぱり、いまさら何を言っているのだという話にしかたどり着かないだろう。古本屋は文化事業ではなく、商売である。あくまでそれを買い求める人たちが大勢いるから成り立ってきたのだ。古書を買って読む人が減れば、店を閉じるか、そうでなければ別の商売を考えるほかないだろう。「北沢書店」が新しいサービスを始めたのは、わたしたちが洋古書を買い支えることができなかったというだけであり、批判が向くとすればお店ではなく、自分たちに返ってくる。あまりにも個人攻撃的な批判が相次いだことで、店主がツイートを投稿すると、一転して「頑張れ」「頑張ってください」と擁護する引用リツイートが相次いでいた。その「頑張れ」「頑張ってください」という言葉に、どこか他人事の響きを感じる。そう投稿した人が、これから通い続けてお店を支えるだろうか。昔ながらのお店が閉店となった途端に「残念だ」「あのお店が閉店するなんてもったいない」と言い出すことと似た響きを感じる。建物の老朽化や店主の年齢や健康状態を理由に閉店するのでなければ、そのお店が閉店しなければならなかったのは、わたしたちがそのお店を利用しなくなったからだ。