11月23日

 朝からインタビューを受けた記事に赤を入れてメールで送り、書評も少し加筆して送り直す。11時過ぎにホテルを出て、かじきのカツ弁当を2個買って、特急で東京へ。14時近くに帰宅し、知人と弁当を平らげる。ビールを1本飲んだ。15時、持っていくのを忘れていた魔法瓶と水筒、それにやっぱり必要だと感じたビーチサンダルをトートバッグに入れて、池袋へ。まずは「古書往来座」で『東京の古本屋』にサインを入れたのち、線路をこえて自由学園明日館へ。17時から、前野健太のライブを観る。コロナ禍になってから、数度だけライブが開催されていたものの、オールスタンディングの会場に足を運ぶことに二の足を踏んでしまっていたので、かなり久しぶりに観る。本人も、こうしてライブをするのは久しぶりだと語っていた。

 2曲目に演奏された「興味があるの」に胸を打たれる。前野健太のライブだと、途中で「なんかリクエストあります?」と尋ねるのが恒例になっているけれど、今日ここにくるまでのあいだ、もし今日もリクエストが募られるのであれば、声をあげようかと考えていた。でも、リクエストしなくとも「ねえ、タクシー」は演奏された。途中で休憩を挟んで、後半が始まる。「愛はボっき」の歌詞にある、「この人生はまだ残り半分くらいはある」という箇所を、「まだ残り三分の一くらいはある」と歌うようになっていた。この日のMCでも語られていたけれど、前野さんは早くにお父さんを亡くしている。それを基準にしたときに、曲を作ったときから10年近くが経っているのだという、その時間の経過が、そこに時間のかたまりがあるかのように、そのフレーズを耳にして思う。そして、終盤に演奏された「天気予報」という曲は、歌詞カードでは「生きて行ける」となっている箇所、ある時期からライブでは「生きていかなきゃね」と歌うことが多くなっていたけれど、今日は「生きてみようかな」と歌っていたことも印象に残った。

 MCの中で、最近独り言が増えたと語っていた。公園のベンチでも、駅の階段をのぼっているときも、電車に乗っているときも、ふと独り言が出るのだ、と。客観的に見ると変な人ですよねと本人は語っていたけれど、この日の歌も、無意識に独り言が出てしまうかのように、するすると体から歌が出てきている感じがした(昔は、もう少しこう、辿り着きたい境地があって、そこに到達しようとしている印象を受けていた)。それは「観客を無視して、ひとりの世界にこもって歌っている」ということではまったくないのだけれど、その違いが印象に残った。時に声を張り上げるように、地団駄を踏むように靴で床を踏み鳴らしていても、それはとても自然なことに見えた。「そんなに声を張り上げなくても」と、歌っている途中に感じている自分もいるのだと、これもMCで語っていた。別に大声で歌おうと思っているわけでもないのに、そうなるのだ、と。

 終演後は池袋駅に急ぎ、山手線で上野に出て、20時ちょうど発の特急に乗り込んだ。終電のひとつ手前の特急だ。ライブを反芻しながら、マスクを何度もつけたり外したりしながら、ビールを飲んだ。今日、ライブを観れてよかった。4月6日、水納島から渡久地港に送り届けてもらったあと、バスを待っているあいだ「防波堤」という曲を繰り返し聴いていた。水納島の原稿の書籍化の作業をしている今、前野健太の歌に生で触れたいという気持ちがあった。

 もしかしたら夜の便だとマスクを外した乗客が多いかと少し不安をおぼえていたけれど、全然そんなことはなく、そして日立を過ぎると乗客はほとんどいなくなった。FさんがLINEでメッセージをくれて、22時14分にいわきに到着したあと、Fさんが待っている「鳳翔」に向かい、ぼくはハイボールを、Fさんはレモンサワーを飲んだ。昨日ぼとっと落としてしまった言葉を、もう一度拾い直すように、帰り際に伝える。感想や言葉を伝えることなんて、誰にも頼まれていないのに、どうしてせずにいられないのだろう。そういえば前野さんもMCで、誰にも曲を作ってくれなんて頼まれてないのに、勝手に作って――何やってんでしょうね、というようなことを話していたなと思い出す。ホテルの部屋に戻り、ボトルで買っておいたものの未開封のままになっていた赤ワインを分けて、洗面台に置かれていたグラスを使って2杯飲んだ。